46:赤い花
ゼラが壁の前に立っている。
あらゆるものをかき集めて出来た壁。登るのが困難なほど高いわけでもないそれは、今となっては脆くすら見える。
向こう側からは何の気配もしない。
子供の相手をしてくれているオーディルーは、こちらが何かを仕掛けない限り何もしてこない。この壁らしきものだって、彼らの「呪い」を恐れたグレフィリアが作ったものだ。
「エルダー」
振り向かないゼラから愛おしそうに名前を呼ばれる。
「ゼラ様」
隣に並ぶと、そっと右手を掴まれた。そのまま柔らかく握って、まるで血を拭うように親指が手の甲を優しく撫でる。
大丈夫か、と聞かれはしない。
わかりやすく労ることもされない。
それでも、こうしてくれているだけで全てが満たされた。
隣を見ると、ゼラと目が合う。
いつも、夜空のような紺碧の双眸が自分を見ていることに深く感動し、安堵する。初めて会った頃から変わらない。凪いだ孤独が横たわる瞳が、自分に向かってだけ開いている。それがただただ美しかった。
「どうやってあちらへ?」
エルダーが聞くと、ゼラが悪戯を企むように目を細める。
「迎えが来る」
「まあ」
「エルダー」
「はい」
「向こうで知らない人について行ってはいけないよ」
手をきゅっと握られる。
「あちらはグレフィリアと違って、誠実で忍耐強い人々しかない」
「つまり?」
「いい男ばかりだよ」
「ふふ」
エルダーが笑うと、ゼラも笑う。視線を合わせたまま、エルダーは笑みをほどいて睨むように見上げた。ゼラが微笑みを返す。
「なにかな?」
「いい女もたくさんいるということかと」
「そうかもしれないね」
「ゼラ様、知らない人について行ってはいけませんよ」
「善処する」
子供らしからぬ甘い笑みで、繋いだままのエルダーの手を親指で撫でる。
「どこまでもついていきます」
「……どこまでも?」
「知っているでしょう?」
ちらりと見上げると、その瞳が「知っているよ」と無言で語る。
知っているのに聞いてくるということは、向こうで何かが起こるのだろう。エルダーは察した。おそらく、自分が耐えられないかもしれないことが起きる。
「どこまでも、ゼラ様が何を選んでも――あなたを一人にはしない」
エルダーは握る手に柔らかく力を込めた。壊さぬように、決して離れないと伝わるように。綺麗な感情だけを渡せたらよかったが、そうでないことが誇らしくもある。
モナルダもカーラも、今背後で埋められている元治癒士も、自分と大差ない。
けれど、一つだけ違うところがある。
愛する人のために自滅を厭わない彼女らと違って、自分は図太い。自分が死ぬときは、ゼラがそれを望んだときだ。
愛のために殺しはするが、愛のために殺されたりなどしない。
どこか強ばった指先を解すように、ゼラの指が動く。何も言わないゼラの感情が流れ込んでくるように、じんわりと痺れる。
いつか死ぬための命だったのだ。グレフィリアを出た後は、望む形で死にたい。この人のために死にたい。
「エルダー――私も君を一人にはしない」
思わずゼラの横顔を見る。
木や石を積み上げた壁を見つめる目は、ここではない遠くを見ていた。瞳の中の夜空が瞬き、悟る。
「言ってください」
ほとんど言葉にしないゼラがそれをしたのだ。ジードも、ここへ誰も寄越さない。
ゼラと目が合う。
ゆっくりと唇が動く。
ゼラの声以外のものが、全て聞こえなくなった。
○
壁が崩れる。
積み上げた石や煉瓦や、苦しげに手を伸ばすような枯れた木が上から崩れた。
ゴロッと鈍い音が響く。
スラーの「あっけねえな」という呟きに、エルダーは心底同意する。
こんな脆いものに守られていたのだ。グレフィリアは。
こんな脆いものに、縋っていた。
一部が壊されると、そこからぬっと足が出てきた。崩れた瓦礫の上を踏みしめて、誰かがこちら側にやってくる。
「そちらにおられるか、ゼラ殿」
その声に、アキレアが反応した。びくりと大げさなほどに身体が硬直する。
先頭にいたジードが頭を下げた。同時に、ゼラが迎えに行くように声をかける。
「はい、ここに――あなたが来て下さるとは」
ゼラの声に、その足の主は軽やかにグレフィリアの陣へ降り立った。
赤いローブが鮮やかに揺れる。
豊かな亜麻色の髪を一つに結ったその人は、細い腰に剣を携えてこちらを見た。どこか野性味のある目元と、穏やかな目尻の皺。
ゼラの母親でもおかしくないほどの年上の女性は、真っ直ぐにゼラの元へ来ると、美しい礼をする。
「やあ、初めまして、グレフィリア第五王子、ゼラ殿下」
「お会いできて光栄です、フツリ王女殿下。此度のお力添えに感謝致します」
「いや。大変だったな」
彼女はぽん、とゼラの肩に手を置いた。
堅苦しい挨拶はなしだ、ということらしい。彼女は治癒士を見渡していたが、アキレアでぴたりと止まった。その目元が、懐かしむように和らぐ。
「アキレア」
「……フツリ様」
「うん。元気そうでよかった」
「……お変わりなく」
「そうか? もう四十四になったよ」
明るく返すフツリに、アキレアがほっとしたように肩の力を抜く。けれどまたすぐに顔を強ばらせた。
「フツリ様、落ち着いたらお話が」
「わかっているよ。大丈夫。話は聞くし、私は君を叱らない。むしろ私から謝罪をしなければならないしね。後で時間をくれ」
彼女は颯爽と髪をなびかせて、無防備に赤い背中を見せる。そこに、大きな花の刺繍が咲いていた。
「さあ、ではオーディルーに案内しよう」




