23:愛の底
「……オーディルーに、降伏?」
アキレアがこぼす。
その顔が真っ青であることに気づき、エルダーは小さく首を傾げた。
第五王子の噂を吹き込んでどれだけ揺さぶっても、アキレアはどちらにも傾かなかった。グレフィリアの正義を叫ぶこともなく、オーディルーの正当性を述べることもなく、戦地にいるときも、休息の洋館にいるときも、休暇で城の地下にこもるときも、ただ粛々と過ごしていた。エルダーが悪意を持って伝えた不確かな噂を、誰にも広げなかった。
第一王子や第三王子の手先の者ではないらしい。
オーディルー側でもない。
そう確信したからこそ、緊急召集されたときに「向こうの息のかかった者などここにはおりません」とやんわりとゼラに伝えたというのに。なぜこうも真っ青なのか。
ゼラはアキレアの異変に気づきながらも、それに触れる様子はなかった。
「ああ、降伏するよ。ここで私についてくると決めた者と共に戦地へ向かい、兵を城へ帰し、同意した戦地の治癒士も連れて向こうへ話をつける」
「それは……」
ロムが驚いたように口を開いた。
「グレフィリアを、その、捨てる、ということですか?」
言葉を切りながら躊躇いがちに言うロムを、子供を見るように見つめたゼラは「さあ」と軽く首を傾げた。
「取りあえず向かうのが約束なので守ろうと思ってね。その次の決断は、向こうで見聞きしたときの自分に任せるよ」
「……ふふ」
エルダーの笑みがこぼれると、隣から手が伸びてきて指先で頬を撫でられた。
仕方なさそうに微笑むゼラの瞳と目が合う。
この人はそういう人だ。
計画を緻密に立てることはしない。その瞬間瞬間に決める。故に彼にも、この先どうなってるかわからないという状況になることも多々あった。外側から見ていると全て彼の手のひらの上のように思えるが、実際はそうではない。複雑に動き続ける状況の上で毎回間違えない手を打っているのだ。そういう才覚があった。彼は決して世界に振り落とされない。
「あの」
驚いているロムに変わって、スラーが尋ねる。
「なんだ」
「約束、とは?」
「ああ――No.2との約束だよ」
エルダーはそっと目を伏せた。
引き戻せないところまでじわじわと連れて行く気配を、胸一杯に吸い込みたい気分だった。レカが「落ち着いて」と言わんばかりに手を握る。
「No.2とは協力関係でね。彼女の望みを叶える代わりに、私の望みも叶えてもらっている。簡単に言うと、私はここで彼女にNo.20のローブを渡し、彼女は情報をくれる。シンプルだろう。本当に――愛とは恐ろしいものだ」
愛とは恐ろしい。
その一言で、周りが黙り込む。誰の言動を思い出しているのか明白だった。
エルダーの知っている彼女は、とにかく穏やかで愛情に溢れた人だった。
No.2を名乗れるほど能力も強く、王太子が国王になった際にはNo.1を継ぐことも決まっていた。彼女はあんな異様な雰囲気に身を染める人ではなかった。
狂ってしまったのだ。
「……愛、ですか」
フェーネが口にする。
エルダーはそっとその顔を見た。珍しく感情が出ていた。どこか悲しんでいるような、複雑な感情が彼の中を一瞬通り過ぎた。あの物言いは、まるでNo.2をよく知っているようにも聞こえる。
エルダーは、フェーネに向かって微笑んだ。
「愛よ」
フェーネの正体は知らないし、特に興味があるわけでもない。自分を守ってくれる治癒士という認識でもない。ただ、ゼラが信頼を置く人物であり、ゼラの絶対的な味方である。それだけが重要だった。
「おや。エルダー、彼女のことがわかるのですか」
どこか責めるような視線を、軽やかに笑っていなす。
「ええ、よくわかるわ。どこぞのご令嬢が婚約者になろうと、結婚しようと、お好きになさればいい。けれど、治癒士に手を出すのは駄目。許せないし、決して許さない」
「No.2もそうであると?」
「そうでしょうね。彼女はいずれ手に入るはずのNo.1のローブを着ることにこだわってはいない。大切なのは、愛する人に愛されることなのよ」
「……自分を死んだことにして、結尾のNo.になってまで? 別人として愛されることが、彼女の望みであると?」
「嬉しそうにNo.20のローブを着てたんだから、そうなんじゃないの」
あっさりと言ったエルダーに、フェーネはわずかに目を見開く。
きっと彼の愛し方とは違うのだろう。
そこだけは、見た目通り、誠実で清らかな愛を持っているのかもしれない。
エルダーは彼女の愛し方も理解できた。
うっとりと目を伏せる。
「深い愛よね。狂おしいほどの愛だわ。どんな形でも、愛されればそれでいいのよ。たとえ、自分の本質が変わってしまったとしても、相手に言えないような嘘をついたとしてもね。側にいられることは至上の幸福だもの」
「あの人は……第一王子を裏切れるんですか?」
「――裏切っていないよ」
ゼラが言う。
「これは彼女の無償の愛の一つの形だ」
無償の愛。
確かに、途方もないほどの無償の愛かもしれない。
エルダーに、ゼラが視線で微笑む。
「彼女はね、争いを終わらせたいんだよ。愚かな父が私怨から起こしたオーディールとの因縁を全てクリアにするために、私と協力関係を結んでいる」
ロムの顔を見て、スラーの顔を見て、アキレアの顔を見る。ゼラの瞳が彼らを捕まえている。
「王になる決心をした兄の治世を穏やかなものにしたいらしくてね。治癒士に傾倒する王ではなく、グレフィリアに平和をもたらした尊敬される王になって欲しいそうだ。この腐った国を兄ならば立て直せると彼女は信じている。そして、それを支えるのは彼の愛したNo.20ではなく、自分でなければ務まらないと思っているんだよ――それに関しては全力で賛成するがね」
エルダーも頷く。
No.20は献身的ではあったが、王を支える器ではない。
あの夜だって、彼女は感情的だったのだから。




