111
――追いかけてきた。
その言葉に蒼白になったところを見られずに済んだのは、レカが「ほら、見て」と窓の下をのぞき込んだからかもしれない。
エルダーは咄嗟に、ベッドの上に放っていたローブを手にして着込み、フードを深く被った。
窓からそっと見下ろすと、馬から降りる見慣れた姿が七つ見える。白いローブが三つ、護衛の黒い服が三つ、黒いローブが一つ。
どうして――どういうつもりで。
エルダーの頭の中が真っ白になる。
たった一つの姿から目が離せない。ずいぶん久し振りに見る、黒いローブ。それが誰かなんて分かり切っている。
「……ね?」
レカが嬉しそうにエルダーを振り返った。
フードを被っていることに不思議そうに首を傾げたが、やがて小さく微笑んでエルダーの頬を拭う。
「泣かないで、姉さん」
レカから抱きしめられる。
エルダーはわからなかった。
自分の頬を濡らすそれが、どういう涙なのか、わからない。歓喜なのか、安堵なのか、それとも絶望なのか。
ただ、こうなってしまった以上、また別の選択肢に向かって歩いて行かなくてはならないことだけは確かだった。
どうしよう、と呻く頭の中は、一方で冷静だ。
どうしてこうなっているのかを聞かなくてはならない。エルダーは目をきつく瞑って、自分の感情を押し込めた。
レカに手を引かれて外に出ると、すぐにロムがレカに声をかけた。
「あ、いた。レカくん、いきなり全速力で駆け出さないでよ、後ろ走ってたからまともに土を浴びたんだけど。馬は?」
「休ませてます。ごめんね、ロムさん、つい」
「いいよ……本当、姉さんが大好きだね」
ロムが呆れたように優しく言う。
そのそばで、馬を撫でていたフェーネがくすりと笑った。
「一年も我慢したんですから、仕方ありませんよ」
フェーネの隣のイノンも頷く。
「そうそう。ロムのおかげでぼくたちは土なんてかぶらなかったし、謝らなくてもいいよ?」
「絶対イノンには謝ってない」
ロムがイノンに軽口で応戦する。
その和やかすぎる空気に、エルダーは頭がおかしくなりそうだった。ローブを着て、フードを被っていて正解だ。絶対に表情を繕うことなどできない。
何が起きているのか、全く理解できない。
オーディルーの女王と呪与士を殺して逃走したはずだというのに、どうして追いかけてきたはずの彼らがこんなに寛いでいるのだろう。まるで、大仕事を終えた後のように――煩わしい何かから解放されたように晴れ晴れとしている顔をしている理由が、全く以てわからなかった。
尋ねることもできないエルダーに声をかけてきたのは、ロムだ。
「遅くなって悪かったね」
ロムは土を払うように髪を掻きながら、緊張感もなく言ってのけた。反応するのが遅れたほど、彼の態度は普通だ。
遅くなって?
「エルダーちゃん? 何、遅かったから怒ってるわけ?」
「……いいえ、別に」
「? フード取れば? オーディルーの奴らはいないよ」
「……ずっと歩いてきたのよ。見せられたものじゃないの。気にしないで」
「――エルダー」
死角から名前を呼ばれる。
心臓を鷲掴みにされたような冷たさに、エルダーは思わず手を握った。
誰かが近づいてきている。
誰かなんて、声でわかっている。
「――エルダー。計画通りに動いてくれてありがとう。ご苦労だった。さあ、顔を見せてくれるね?」
有無を言わさぬ声が、エルダーの前で止まる。
黒いローブが狭い視界から見えた。
ゼラだ、と思うだけで身体が震えそうだった。レカに頬を拭われた感覚を思い出し、どうにか耐える。
「エルダー」
逆らえない。
けれど、顔を見せることは――この短い髪を見せることはできない。そして、少しでも躊躇う素振りを見せることもできない。
レカと同じ言い訳を使うしかない、とエルダーがフードに手を伸ばした途端、ふいに首筋がくすぐったくなった。
エルダーはさっとフードを取り、深々と頭を下げる。
エルダーの視界いっぱいに豊かな銀色の髪が広がっていた。久々に見る輝き。レカと同じ、月を溶かしたような長く美しい髪。
あまりの安堵に、声は震えることなく、するりと出ていた。
「――殿下、ご無沙汰しております」
身体に血が巡るのを感じる。
エルダーはゆっくりと顔を上げて、ゼラに向かって微笑んだ。一年前と変わらぬように、一年前と変わったゼラを見つめる。
「お変わりなきご様子、安心いたしました」
「そうかな」
「ええ」
「エルダーも、元気そうで安心したよ。遅くなって悪かった」
約束など何もしていなかったエルダーは、緩く首を横に振る。
この件については何も口にしたいと態度で示すと、ゼラは一年前よりもずっと穏やかになった顔で優しく笑んだ。
この顔にしたのは、きっと他でもないイトセだろう。笑い方がそっくりだ。
惹かれ合うはずだ。一緒にいると、とてつもなく心地が良かったことだろう。エルダーがレカを特別に思うように、血のつながりには抗い難い何かがある。
エルダーはゼラに向かって目を細めた。
「お疲れなのでは? ゆっくりお休みになった後にでも、あの後の話も聞かせてください」
「いいや」
ゼラが笑う。
「今からグレフィリアに向かう。そういう手筈だったろう?」
「!」
「行くよ、エルダー」
そっと頬を撫でられてから「次はいい子にしていてね」とゼラが囁く。
逃げられない。
本当に逃げられない。
そう愕然としているというのに、身体を喜びが包もうとする。
イトセを知ったゼラは、エルダーが次に隠れたときには決して探しに来ないと思っていた。
けれど、ゼラは来た。
当然という顔をして、エルダーの知らなかった穏やかな顔をして、エルダーの知らない一年を重ねた、男の人のような顔をして迎えにきた。
駄目だ。
これでは、駄目だ。
幸せな気持ちが心に膨らむ中、同時に恐怖も膨らんでいく。
ゼラはエルダーの手を握り、優しく引いた。エルダーが逃げないことをわかっているように、小さな力で、逃げ出した蝶を捕まえるように羽を摘んだのだった。




