11
凄まじい音が真後ろから聞こえた途端、エルダーは腕にモナルダを抱き抱えたまま身を丸く縮めた。
次いで、背中にばらばらと強い雨が落ちてきたような感覚がする。
ガラスが割れた。
エルダーの真後ろにある庭に面した窓が、向こう側から割られたのだ。
「エルダー!」
駆け寄ってくるアキレアの足音を聞きながら、エルダーは腕の中のモナルダを再びきつく抱きしめ、小さな声で、しかし届くように強く囁く。
「――アキレア様は知らない。あなたの秘密は、何も知らないわ。起きなさい」
腕の中で、小さな身体がぶるっと震えた。
「いいわね、しっかり」
「エルダー、大丈夫か!」
「……大丈夫です」
エルダーは、モナルダがか細い声で「はい」と言うのを聞いてから、身体をゆっくりと起こす。ぱらぱらとガラスの破片が落ちた。
そして、後ろを振り返る。
「フェーネ様」
窓の前に立っていたその男は、握った拳から血をたらりと流しながらエルダーに向かって穏やかに微笑んだ。
「どうも。エルダー」
「……治癒、いたしましょうか?」
エルダーが手を見つめて言うと、フェーネは狐のような目を細めて自分の手に気づき、あっさりと傷を塞いでしまった。
早い。
気づいたのはエルダーだけではなく、アキレアもだった。
No.16が戦地では時間をかけて兵を治癒するところを何度も見ている。ただ苦手なだけかと思っていたが、そうではないらしい。途端に、エルダーの胸に苦いものが広がる。
「エルダー、じっとしろ」
アキレアがエルダーの髪に絡まったままのガラスの破片をそっと取り除く。すぐにフェーネに向かうかと思ったが、やはり彼は冷静だった。そのまま口を開く。
「No.16。どういうつもりでこんなことを」
「ふ」
フェーネが笑う。
アキレアが睨むと、フェーネはぱっと両手を振った。
「ふふ。すみません。エルダーのことは名前で呼んでいるのに、私のことはNo.のままだなんて寂しくて、つい。是非、私のことも名前で呼んでいただけると嬉しいのですが」
「……フェーネ」
「はい」
「エルダーに害をなすつもりか」
「いいえ」
寛容な笑顔。低く穏やかな声。まるで、こちらが懺悔をしなければならないような気にさせられるその佇まいは、突然窓ガラスを割るようには見えない。エルダーの上に降り注いだ破片を、彼はどんな顔で眺めていたのだろう。エルダーがそっと見上げると、フェーネは優しく目を細めた。
「大丈夫ですか?」
気づいている。
モナルダが、アキレアに対して心像を使おうとしたことにも、それを、エルダーがどうにかしてでも止めようとしたことにも。
エルダーは反射的に口を開いていた。
「アキレア様、急いで誰か護衛の方をここに」
「……エルダー?」
「ふふ。そうですねえ、ここに治癒士が四人固まって密談なんてしているように見られたら、勘違いをされてしまいそうです」
違う。
誰かにモナルダを部屋まで連れて行ってもらわなければ、フェーネが彼女を挑発するような気がしたのだ。
腕の中で顔を埋めたままのモナルダが震える。
「お願いします。早く。ここは大丈夫ですから」
「わかった」
アキレアはエルダーを案じていたようだったが、強く見つめると頷いて庭を足早に去って行った。
「あれはあなたに忠誠でも誓ったのですか?」
窓枠に残ったガラスを指でパキパキと折るように割りながら、フェーネが尋ねてくる。
「いいえ。お友達になったんです」
「おともだち」
「はい」
「ほう、お友達ですか。これもそうと言いたいのですか?」
フェーネがエルダーの懐に隠れたまま震えるモナルダを指さす。
「それにしても幼稚にもほどがある。ここに三人の治癒士が居たのに、心像を使おうとするだなんて、君、死にますよ?」
「!」
腕の中のモナルダが硬直する。
三人。三人であれば、誰も手を出せないはずだというのに、彼女は躊躇いなく使おうとした。いいや、そうじゃない――
エルダーはあやすように抱きしめる。
「大丈夫。あなたは殺すつもりはなかったのよね? 近づかないで欲しいと、つい過剰に反応してしまっただけ。そうよね」
まだ子供なのだ。殺意を持つには未熟すぎる。
エルダーの言葉に、モナルダはほっと力を抜いた。ようやく呼吸の音がはっきり聞こえる。どれほど息を詰めていたのか、その小さな身体が少しあたたかくなった。
「――何をしている」
庭の入り口に、一人の護衛が立っていた。
「スラー様」
眼鏡をかけた青年が、カツカツと靴底を鳴らしながら庭へと入ってくる。
「先ほどまで全員が集まっているのが見えた。何事だ」
「何でもありません。ただの交流会ですよ」
落ち着いた声が答えると、スラーはじっと廊下の窓を見た。
「割れているようだが」
「割ったので」
「理由を聞いている」
「そうですね……ちょっと、色々ありまして」
フェーネは誤魔化す気がないのか、のらりくらりと答えるだけだ。そこに、反対方向からアキレアが戻ってきた。ジードを連れている。この状況に険しい顔をしたジードを見たエルダーは、モナルダの肩を抱いてベンチから立ち上がった。
「ジード様。申し訳ありませんが、彼女を部屋まで送ってくださいませんか」
「は?」
「お願いします」
急いで連れて行って欲しい。
エルダーは焦っていた。
ここにいてはいけない。
彼女は、まだむき出しの自分の感情をコントロールできない。今ここで彼女の抱えている秘密に触れてはいけない。
「モナルダ」
フェーネが呼び止める。
「あの夜、私が出た後にNo.19の部屋に入って行きましたよね。最後に彼女に会ったのは、あなたでしょう?」
「! 駄目!」
エルダーが強く言っても遅かった。
フェーネの肩から、鮮血が吹き出す。




