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どうしてこんなことに。
フツリは並んで座っている二人をそっと見て自問する。
イトセとゼラは形だけの婚約者として過ごしていくはずだった。エルダーがいれば、ゼラは決してイトセに心を許さないし、イトセはエルダーの存在がゼラにとってどういうものか気づくと踏んでいた。
一目見てわかったのだ。
あの夜、もう一年四ヶ月前の夜、戦地のくだらない壁を越えて、十五年ぶりに息子と会ったフツリは、彼にとっての最愛が誰か、一目見てわかった。
フロイドがフツリを見る目と、ゼラがエルダーを見る目が一緒だったからだ。
その後紹介された彼の治癒士がイノンではなく、エルダーであることも、当然わかっていた。
フツリは目の奥が重くなっていく感覚に、押しつぶされそうになる。
想定外の行動ばかりするエルダーを完全に制御できなかったのは、失敗だった。
出て行けと言えば、出て行かないだろう。
彼女のゼラへの想いは、忠誠心よりも強いだろう。
イトセの存在を受け入れながら、そばを離れないだろう。ゼラも決してそれを許さないはずだ、と。
エルダーの行動は突飛で、アキレアを恋人だと言い出した上に、書庫にこもっていたかと思えば、突然兵舎へ出入りを始めたと報告を受けた。ゼラを挑発しているのだろうと静観していたのが間違いだった。
エルダーが何をしたいのか、正確にくみ取れないことがフツリは腹立たしかった。彼女は自分とは違う行動を選択する。治癒士という生き物を掴み損ねていたフツリがグレフィリアから戻ってみると、彼女は女王の手の中に落ちていたのだ。
グレフィリアに行く気は全くなかったというのに、あの女王がそれらしくプレッシャーをかけてきたときに気づくべきだったのかもしれない。
女王がエルダーを捕まえたかったことに。
一年。
一年、返して貰えなかった。その最初の数ヶ月、ゼラは見ていられないほどに青ざめていた。努めて冷静にしていたが、誰も声をかけられなかったほどだ。隠れて食後に吐いていることもフツリに知らされていた。
すぐにエルダーの名前は禁句になり、エルダーがいない日々をやり過ごすことに必死になっていた一年。
ジードやロムやレカが支えになろうとしたが、彼らには常にエルダーの影が付きまとい、一時期は距離を置いていた。いつの間にか、アキレアからの「無事です」の一言もイトセを通じてゼラに伝えられるようになったほどだった。
イトセがどうにかゼラを支えることになり、今となってはゼラはイトセを親しそうに呼ぶことが常になっている。
お互いに信頼し合う目で視線を交わすゼラとイトセから目を背けるように、フツリは窓の外を見つめる。
エルダーがいれば――どうか、女王に殺されないことを祈るしかない。
突然、ガタリと大きな音が部屋の外から響いた。
反射的に数人が立ち上がる。
フツリと、ジードと、ロムだ。
バンザが部屋から出ようとした瞬間、扉が外側から勢いよく開いた。
「!」
血塗れた塊がごろりと飛び込むように入ってきたことに、全員が一瞬凍り付く。
素早く立て直したバンザとフツリが動くと同時に、ゼラはすぐにイトセを背に隠し、そのゼラの前にはレカとフェーネ、イノン、アキレアという治癒士囲むように立ち、前列には護衛である三人がずらりと並ぶ。
悲しいほどに、完璧な動きだった。
フツリはその様子を視界の端に捉え、バンザに兵を止めるように合図を送る。
「待て」
剣を抜こうとした兵を止めたバンザが、その塊を確かめる為にしゃがみ込むと同時に叫んだ。
「――ソト様だ!」
「! 退け!」
フツリが弾かれたように大きく進み、兵を押し退ける。
床に倒れた小さな塊の衣服の裾が灰色である事に気づくと、フツリはすぐにアキレアを振り返った。
「来い!」
一瞬躊躇ったアキレアは、ゼラが頷くのを確認してからその場から離れた。フツリは忌々しげに舌打ちをする。
「ソト。ソト、大丈夫だ。アキレアがいる」
「……、フツリ様、結構、です」
「何を言っている!」
「……アキレアも、何もするな」
側に駆け寄ってきたアキレアの手を辿ってきつく握ったソトは、濁った目で二人を見上げて言った。
「……私ももう、あの方と向こうへ行く。それが望みだ……頼むから何もしてくれるな」
掠れたゼエゼエという息とともに吐き出す言葉の意味を、フツリは遅れて理解した。
呆然と呟く。
「――ソト、女王陛下はどうされた」
「!」
バンザが立ち上がり、部屋を出ていく。
フツリが見つめているソトの目が、不自然に凍り付くように動かなくなった。魂が抜けていく瞬間を、為す術もなく見送るフツリの耳にバンザの声がうわんと響く。
「フツリ!!」
「……アキレア、兵を」
全てを察したフツリの小さな声に、アキレアは躊躇うことなくその力を使った。ドスドスと、兵が倒れていく。
床に転がるそれの胸の動きを見てたフツリは、アキレアの頭を撫でた。
「悪いな、ありがとう」
「いえ」
「イトセを連れて、奥の部屋へ。私が戻るまで決して扉を開けるな。行け、早く」
フツリの指示に弾かれたように立ち上がったアキレアは、ゼラの背にいるイトセに状況を見せぬように、書棚の隠し扉を開け、小部屋に押し込むように入っていった。
足が重い。
フツリはソトの亡骸に自らのローブを掛け、部屋を出る。グレフィリアの者達が何も言わずともついてくるのを感じながら、恐ろしい予感に対峙する為に足を進めた。
目印のように、血痕が続いている。
眩しいその場に、いつもの玉座に、フツリの母は座っていた。
「……陛下」
フツリは子供のような声で話しかける。
母の胸に、短剣の柄がめり込むほどに深々と刺さっている。
「陛下」
呟くフツリに、部屋を見回っていたバンザがはっきりと言った。
「いない」
その強ばった声が、血生臭く落ちる。
「エルダーがいない」
全員が、惨状の中で舞う白い蝶を脳裏に描いていた。
血に微笑む蝶を。




