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子をあやす女王の慣れた腕の中で、彼はじっとおとなしくしている。
まるで息を殺しているように、ぴくりとも動かない。
「ねえ、フツリ。あれには妻も子もいるのよ。お前が愛してどうなるの。あちらは一貫してお前を欲しがっているけれど……妻が居るでしょうと言えば、すぐに妻を殺してしまったもの。お前との間に子が居るなんて知ったら大変よ?」
「……今、なんと……」
「聞こえなかったの? そのままよ。最初の妻の時にね、あまりにもしつこいから、すでに妻がいる身で他国の王女を欲しがるだなんて、と言うと、すぐに妻は死んだからフツリをくれ、と言ってきたの。この子の存在を知ったらあちらはどうするかしら」
フツリには考えずとも答えがわかった。
今の妻も、そして四人の子供も、全てフロイドは「不要」とするだろう。
あの温室の中で、外面を保つために心を殺してグレフィリアに仕えているのだ、と言っていたフロイドの目を思い出す。
後継者を渡せば、国から出してくれると思っていた、と彼は言った。そうしてフツリと生きていこうと思っていたと、子供のような目で――それにしては死んだ目で、彼はそう言っていたのだ。
浅はかだ。
彼は全て捨ててフツリと共にいようとしていた。
望みは全て折られて、狂ってしまったけれど。
フツリの身体が、がくがくと大きく震え始める。
「そう。フロイドに愛されなかった最初の妻は、何の罪もないのにお前のために死んだのよ」
「……」
「グレフィリアに行きなさい。わかるわね? あの呪与士を連れて行って、絶望させてきなさい。どうやったって、お前は手に入らないのだと知らしめなければ」
「……返して」
フツリは震える手で子を取り戻そうともがいたが、母は笑うだけだった。
「駄目よ。この子は預かるわ」
「グレフィリアに向かいますから! その子を返してください!」
「フツリ」
名前を呼ばれただけで、身体が動かなくなる。
「この子を誰かに預けて近くで見守る気だったのね? だから、フロイドに嘘でも妊娠を知らせたくない――渡せと言われるのがわかっているものね」
「やめてください」
「いいえ、この子はグレフィリアに渡すわ。ただし、呪与士との子と偽って渡す。お前に似ぬ事を祈るしかないけど」
「!」
「ええ、ええ、そうね。そんなことをしたら、フロイドはこの子を連れて死ぬかもしれない」
冷徹な王は笑う。
「そうなってくれると助かるわね」
○
「フツリ様」
呼ばれて目を開けると、イトセが優しく笑った。
父を愛していた呪与士の面影のある、可愛らしい娘。
十六年前、フツリはあれからたった一週間で、女王から言われたとおり、イトセの母である呪与士を連れてグレフィリアでフロイドと再会した。
あの日のことは忘れられない。
呪与士の腹を見るフロイドの顔――絶望したあの姿――けれど、彼の心は折れなかった。むしろ、逆にさらに燃えさかって戦況を悪化させたが、子を渡すと言うことで勢いをどうにか抑えることが出来た。
フツリは自分の子と数時間だけ過ごすことができた。
女王の配慮で、グレフィリアに行く道中、ずっと息子を抱いていたのだ。
あの腕の中にいた小さな命に、祈っていた。
どうか、あの人に安らぎを与えてくれるように。
どうか、この子の中に自分の面影を見つけて気づいてくれるように。そうして、この子を愛してくれるように。
希望の種となるように。
フロイドに渡すとき、フツリは「自分が最初に取り上げた子だ」と「この子は自分にとって大切なのだ」と彼に伝えた。名前も自分が名付けたのだ、と。
フツリは知らなかった。
彼の絶望が、恐ろしく深いことを。
この後、数年かけて彼を恨んでしまうほどに状況がじわじわと泥のように悪化していくことを、まだ若いフツリは知らなかった。
「フツリ様」
「……どうした、イトセ」
「いえ、もうすぐエルダーに会えると思うと嬉しくて」
「そうだね」
同意すると、イトセは心から嬉しそうに微笑んだ。
彼女の母親が呪与士であることも、女王に優しく責め立てられて自ら命を絶ったことも、イトセには一切知らせることはないが、彼女は聡く、自分の出自については深く知ろうと知らなかった。
男であれば。
まだ、男であればもう少し穏やかな人生だったかもしれない。
それでもせめて、フツリとゼラを守ってくれたあの呪与士の為に、イトセに出来ることはしたかった。
ゼラを取り上げられて以来、母である女王はフツリにとっては恐ろしい王にしか見えない。
彼女の言うとおりにすれば必ず間違えないが、彼女の言うとおりにすると誰かが死ぬような気がして、素直に頷けなくなっている。
皮肉なことに、女王を避けるために付けた力が今の自分を守っているのだが。
「イトセ」
「はい」
「……いや」
「フツリ様?」
隣に座るゼラとの距離が近い。
その婚約者が自らの甥であると、どうして言えるだろうか。
以前は、ゼラの兄である者と婚約させられていたこの何の非もない可哀想な少女に、親たちの業を背負って生涯オーディルーに尽くせと非情なことは言えなかった。イトセがゼラを好ましく思っているなら、なおさら言えない。
だからエルダーが必要なのだ。
「いや、なんでもないよ」
「――イトセ、フツリ様は昨夜も遅くまで仕事をなさっていた様子だったから、お疲れなんだよ」
ゼラが優しく言う。
イトセは婚約者の言葉にハッとして、フツリを見た。
心配する腹違いの妹に向かって「大丈夫だよ」とフツリが笑んでみせると、ほっとするイトセはゼラを見た。ゼラも笑みで返す。
どこからどう見ても、仲睦まじい二人だった。
どうしてこんなことに。
フツリはどうしようもない迷路に迷い込んでいる感覚になった。途方もない迷路だ。




