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牢の中で一人過ごす大半の時間を、エルダーは静かに潰した。
本を希望したが、外に何かメッセージを送るのではないかと却下され、では刺繍でもすると言えば、針で誰かを傷つけかねないと却下された。
結局、食事しか運ばれず、その相手はバンザだけだった。腰に帯剣しているのは脅しのようなものだろうし、もしエルダーが走って逃げようとすれば斬っていいと仰せつかっているのだろう。
フツリよりももっと上の人に。
「女王陛下――ね」
何故あの場にソトがいたのか、何故エルダーを渡せと言ってきたのかわからないままだ。
それよりもずっと気にかかっていることがある。
エルダーが目覚める前はどうやら綺麗な寝室に寝かされていたらしく、目覚めた際見た豪華な内装を覚えている。城の中だったらしい。エルダーが目覚めた後はいつの間にか簡素な部屋になり、そこで三ヶ月、毎日呪いを受けていた。全快してからは、どこかわからない地下に寝ている間に運ばれている。
エルダーは手持ちぶさたになりながら、ベッドの上でぼんやりと鉄格子の隙間を見上げる。
この牢に入れられたという事は、気づかれていないということだ。
つまり、新しい呪与士は誕生していない。
そのことが、エルダーに唯一深い安堵を与えた。
エルダーが設定した期限まで、あと二ヶ月。たった二ヶ月。オーディルーという国から一刻も早く出て行きたかった。
彼らはそれをエルダーに情報を与えず、治癒士の尊厳も取り上げて、ここで黙ってじわじわと朽ちろと言っているらしい。エルダーは苦笑する。
――本気? 本気でそれするの?
イノンにどうやってオーディルーを出るのかと聞かれたエルダーが「国外追放を狙う」と答えると、イノンはそう返してきた。
本気だった。自分から出ていけない以上、誰かに「出て行け」と言ってもらうしかない。
素晴らしい偶然が重なって兵舎へ出入りできるようになり、ありがたいタイミングでフツリとバンザが不在となった。もしあの奇跡が重ならなければ、長期戦を覚悟して、片っ端から無垢なものに声をかけては治癒を使い秩序を乱すつもりだった。
監禁では意味がないし、処刑ではだめなのだ。
国外追放でなければ。
鉄格子を見あげていたエルダーの脳裏に、書庫が浮かぶ。
きらきらと舞う埃に、狭い感覚で並べられた書棚。迷子の森。最奥の大きな出窓から差し込む日の光。ページをめくる微かな音。
グレフィリアが治癒士を「出現」と呼ぶのは、治癒の力は複雑で扱うことが難しく、八歳頃までは発見されないからだろう。それに対して、オーディルーでは「誕生」と呼ぶそうだ。恐ろしいことに、彼らは生まれながらにして本能で呪いを使い始めるという。
あと二ヶ月。フェーネには伝言を残したが、どうなっているだろう。もしかするとあと数ヶ月時間を稼げるかもしれないが、この牢の中で不確定要素に頼ることはできない。
呪与士が生まれ、オーディルーが沸き立つ前に、どうにかして出なければ。
エルダーは小さな鉄格子の窓の外の音に耳を澄ませたが、何も聞こえてはこなかった。
○
バンザではない客人が牢にやってきたのは、それから一ヶ月後のことだった。
毎日退屈し、そして残り時間が迫る中で正気は保っていたが、バンザはエルダーの我慢の限界が近いと感じたらしく、突然連れてきたのだ。
「……まあ」
エルダーはベッドに座って見上げていた鉄格子から、ゆっくりと扉に視線を向けてそう呟いた。何故がぎくりとした顔をするカイは、バンザに勧められて丸椅子に座った。バンザはテーブルに何かを置き、席に着く。
「どういう配慮かしら、バンザ様」
「こっちにおいで、エルダー」
「それは何?」
「君のためにイトセ様から差し入れだ」
エルダーはベッドから降り、ストールを肩に掛ける。
その動きを目で追っているカイの眼差しは、まるで弱者を見るようなそれだ。
気にせず、テーブルの上に置かれたかごにかかった布を取る。
「……レモンケーキ」
彼女の手作りの菓子だった。
色々な記憶が頭の中に駆けめぐる。休息の洋館で、ゼラとジードと他人のふりでお茶をしたこと、彼女がこれをゼラと一緒に食べている場面に出くわしたこと――まだ立っていられる、と自分に言い聞かせていた声が戻ってくる。
今はどうなのだろうか。
立っていられるのだろうか。
「苦手だったか?」
「あ……いいえ、好き。あとでいただくわ。それで、バンザ様、誰かを連れてきてくれるなんてどうなさったの?」
「んー、暇そうだったからな。俺とは話し尽くしたろ」
「ふふ。そうかしら。まだあなたに聞きたいことはたくさんあるけど?」
「悪いがもうごめんだ」
「本音が漏れてるわよ」
エルダーがくすくすと笑うと、カイの視線が強くなった。エルダーとバンザを観察するように見ている。その目に向かって微笑むと、やはり居心地が悪そうに目を逸らそうとした。
エルダーはそれを許さない。
「あなたの本当のお名前をお聞きしてもいいかしら――アキレアのお兄様?」
「!」
「なんだ知っていたのか」
バンザがテーブルに肘を突く。
「いいえ? カンよ」
「そういうところだねえ、君は」
「……どうして」
バンザは感心し、カイは居心地が悪そうに呟いた。その反応が新鮮で、エルダーは自分の枯れそうだった何かが戻るのを感じり。
「どうしてか、気になる?」
「……いや」
「あの時――ああ、もう八ヶ月前ね、あなた、私を庇うように殿下の前に出たでしょう? あの怒りに気づかないなんて、鈍感かと心配したのよ」
八ヶ月も監禁されていることを強調すると、カイは善良な青年らしく顔を歪めた。
「でも違うって気づいた。あなた、王族のプレッシャーに耐えられるのね。というか、それをよく知っている。私が知っている残りの王族の存在はアキレアの兄くらいだったから、言ってみただけよ。単に引っかけただけ。心なんて読まないわ、安心して」
エルダーの言葉に、カイは視線を落とした。
そうして、自分の手を見つめながら、フツリから頼まれていたことを口にするのだった。




