6.「知らないモノは食べちゃいけません!」
真実の神から与えられた剣を調べ終え、鱗は再び森の入り口に立った。
何が潜むか分からない広大な森。
踏み出す勇気が出ない鱗を空腹が駆り立て、腰元の武器が背中を押す。
「よし、いくぞ」
そして一歩。
緑の巣窟に足を踏み入れた途端に気配が変わる。
温度・湿度・匂い…中でも如実に変化があったのは「音」。
風の通り道が無数にあるにもかかわらず草原で聞こえた音の一切が息を潜めた。
緊張が奔る。
奥まった室内に入った時と似て・非なる閉塞感。
水中よりも濃い意志なき圧迫に全身を覆われた感覚。
悠然たる自然に身を置いただけで若槻鱗は自身の価値——生命としての小ささを実感したのだった…。
それからというもの何度も入り口を振り返っては進み、拾った石で樹に目印をつけては戻る。それを繰り返すのは堅実からではなく〝いつでも最初の草原に帰れる〟という安心を得るため。騙し騙しの一歩が少しずつ鱗を森の奥へと進ませる。
「…水の音だ」
ピチャンと何かの拍子に上がった水飛沫の一音が鱗の足を止める。
いま聞こえたそれが「幻聴」でないことを祈りながら耳に意識を集中させると今度はチャプチャプと連続した音が聞こえた。
「こっちだ」
急ぎ足になるのを堪え、来た道を辿れるように拾った太枝で地面を削りながら森の奥へ。騙しの一歩が希望の一歩へと変わる。次第に音が大きくなり土の湿った匂いがし始める。そして木々の間から照り返す半透明の輝きが見えて…。
「川だ!」
チャプチャプと石を舐めながら流れる透明を追って視線を送ると気まぐれに拾い捨てられた枝が目に入る。川の両淵に上手いこと引っ掛かった長い枝だ。切り糸のように透明をすくう枝には幾重もの落ち葉が流れ着き、枯葉色の受け皿を形作る。
朽ちゆく葉となっても陽を仰ぐようにやや湾曲した枯葉の皿。その零れ口からトクトクと御酒の如く液が零れてゆく。零れ口にあたる枯葉が流れ落ちれば別の落ち葉が押し出され、そしてまた滑り落ちていく。流れ任せの儚きプッシャーゲーム。
「綺麗な小川だなぁ」
発見した川は少し跳躍すれば容易に渡れる川幅で流れはかなり早く、ほぼ一直線に下流へと向かっている。上流の方へと視線を伸ばすと背の高い枝葉の隙間から緑生い茂る山々が見えた。雪解け水ではない。…水質も問題なさそうにみえる。
「拠点は離れた場所にしよう」
踵を返して小川から離れる。
この水源は日中問わず生物たちが行き来する憩いの場。もしくは生存競争の場だ。
そんなところに拠点を置いてしまっては気が休まらない。
例えれば駅近に住むようなものだ。
通勤・通学等の移動は楽になるかもしれないが、騒音や人の気配という大きなデメリットは確実に安らぎを奪う。
利便性を求めるにしても適切な距離というものがある。…そこは人間関係と一緒だ。
「———すみません、ベルマーさん。ここに置いていきます」
拠点となったのは、川から離れた小さな岩場。
ベルマーに借りた赤と青の教本をなるだけ平たい岩に並べて鱗は本格的な探索に出向く。拾った長枝で地面を削りながら拠点から小川へのルートを再確認し最後に目印として長枝を小川に架けて、鱗は川沿いに上流へと向かうことにした。
「さて…何を食おうかな」
巨大な樹木を見上げ、道端の草むらを適当に掻き分けつつ食料を探す。
拠点と水場を確保したおかげで鱗の顔には僅かばかりの余裕が生まれていた。
「———ア」
ところが食料探しを始めてから少し経った頃、鱗は森の住民を発見する。
「ポコッ‥ポコッ」と森の入り口で聞いた太鼓を打つような音が聞こえ、草むらから顔を出すと草木の根元に傾く黒い生物がいた。
分類でいえば鳥類。
体長は鱗よりも大きく、体の特徴は駝鳥に似ている。
全身が柔らかな黒い羽毛で覆われており全体的にフワフワしている。
眼は橙に茶を差した色で眼光は柔らかく穏やか。鷲などの恐さやインコのような奇怪さはない。
〈 ポコッ・・・ 〉
草むらからの視線に気づいたのか。黒い鳥が勢いよく首を曲げて鱗を注視する。やや鋭さを増した瞳孔。穏やかであったはずの瞳に力が宿り、眼力に気圧されて弱者は後退する。
〈 ポコポコ 〉
それだけで興味を失ったのか。黒鳥は再び草木に嘴を伸ばして食事に戻ってくれた。
我関セズ、という黒い鳥の態度に鱗は慎ましい胸を撫でおろして一息。
すると鳥の足元に転がる球体に視線が惹きつけられる。
「卵だ」
黒い鳥のものと思しき卵。
深碧と細かに見える白い斑点が特徴的で南国の海を彷彿とさせる。殻の色も珍しいがそれよりも目を引くのは卵のサイズだ。遠目から見てもかなり大きく、鱗の顔より僅かに小さい程度。やはり体格が大きい分、卵も大きくなるらしい。
「じゃあね」
流石に親鳥を前にして卵は盗れない。
来た道を引き返すと背中越しにポコッ‥ポコッと音が鳴る。
「きをつけろよ おっちぬなよ」
そんな風に言っているように聞こえて、鱗は少し笑った。
「これ…果実、か?」
黒い鳥と別れてから少し時が経ち、さらに上流へと突き進んだところで実が生った一本の若木を発見する。しかし、これを果物と呼ぶべきなのか。生っているのは凸凹の緑皮で覆われた怪しげな実。悪〇の実とまでは呼ばないがとても食べられそうな見た目ではない。
「ほかに食べれそうなものもないし‥」
ここまで歩いたところで食料らしきものは見つかってはいない。
小川沿って歩きながら時おり川を覗いてはいるが、川幅が小さすぎるためか魚などの生き物がいる気配はない。「この奇怪な実も蓋を開けてみれば…」と既存の常識を打ち払おうとする飢えもあれば未知に怯えてうずくまる理性もあるわけで。
「ええい、ままよ!」
謎の実を一つ千切り、近くの小川で軽く汚れを洗い落とす。
密度が高いのか小ぶりながらも実は重く、空腹も相まって妙な期待をしてしまう。
「ナイフが欲しいな‥」
しゃがみ込み、少し抜いた剣に洗った実を慎重に当てて四つに切り分ける。
本当は外皮が分厚いだけで可食部位が少ないのではないかと考えもしたが想定よりも外皮は薄く、中にはぎっしりと白い身が詰まっていた。
ほのかに漂う甘い香り。身質はかなり粘土質で餡子に似ている。
剣に付いた果肉を川で洗い流して鱗は次の作業に取り掛かることにした。
「さて…」
偶然見た深夜のサバイバル番組の内容を思い出しながら切り分けた果実の一つを取って右手首に付着させる。無人島や見知らぬ土地に生っている果実や植物を食す場合、毒の有無などをこうして判断するのだという。肌・舌先・少量の摂取…と段階を踏むことで人体に有害なものでないかを判断して肌の湿疹・舌の痺れ・体の不快感など問題が出なければ食せる、とのこと。逸る気持ちもあるが命に係わる以上は仕方がない。鱗は両目を閉じて時を待つ……。
「よし…」
しばらく時間をおいてから手首に付けた実を離す。
べたりとした粘土質がこびり付いてしまっただけで肌に異常はない。
次の段階に入るべく少し崩れかけた実を口元に運び、ゆっくりと舌先で舐めとると。
「‥‥あ」
舌先に乗せるだけのつもりが気づけば果肉を丸ごと口に含んでいた。
モニュモニュと舌で果肉をほぐし、種を吐いてから改めて実の味を堪能する。
「あまい!あまい!」
口の中に広がる味覚に感動を覚えた。
ベタリとした身質に似合わない上品な甘さ。唾液と混じっても甘味は衰えることを知らず果肉を飲み込んでもなお甘さが舌の上に残り続けている。
「———頂きました」
いただきます、を忘れていた鱗は取り繕うように謎の実が生る若木に両手を合わせる。結局、あれから五つほど謎の実を平らげてしまったが粘りのある身質ゆえか腹は完全に満たされた。
「でも…さすがに悪いことしたよねぇ」
食したのとは別に夕食用で十個ほど実を採ったところで我に返った鱗。
再び若木を見れば未熟な実しか残っておらず寂しげに木の葉を揺らしている。
「お前も一人では寂しかろう」
ちょっぴり罪悪感が芽生えた鱗は黒い種を洗って若木の付近に埋めていくことにした。流石に全ての種を植えることはできず残りは実と一緒にスカートのポケットに入れて持ち帰ることにした。