54.「その風は、いつに吹いた風ですか?」
ワタシは見るもの。
ただ世界のありのままを享受するもの。遠き母から生まれたワタシは世界を流れるまま受け入れ、世界と共にあり続ける。川のように決まった道を巡れるだけでも、それは幸せなのだろう。
ワタシは聞くもの。
流れ着いた場所で通り過ぎた誰かの声を盗み聞くもの。広い広いこの世界で誰かに巡り逢えるのは奇跡であり、その度にワタシは声の暖かみを知るのだろう。
ワタシは渡るもの。
大いなる意思によって世界を駆けるもの。人はワタシを何処へでも行けるものと羨みの目で見上げるけれど、ワタシは彼らの方が羨ましく思う。彼らは自らの意思で帰るべき場所に戻ることができる。「ただいま」と呼べる場所に戻れる彼らは、なぜ二度と帰れぬワタシを羨望の眼差しで見上げるのだろうか。
ワタシは旅の終わりを望むもの。
ワタシは暖かさを望むもの。
ワタシは…母の温もりを知らぬもの。
⬛︎
夕刻前。ギャロップ山を横目に経由地であるガルーラを目指していた一行は山頂から吹き下ろす寒風に襲われていた。
山頂から中腹にかけて雪が降り積もったギャロップ山。麓付近から見上げてもかなり分厚い雪の層ができており、巨大な雪庇が張り出しているのが見える。崖のように張り出した雪…実際に登山に臨んでいたら地面と誤認してピッケル代わりの剣を突き刺していたかもしれない。
「できな〜い!!!」
道中、自らのマナで衣服を編む修行をしていた幼女アキ。衣服といっても習い立ての今は未だ身体の周りを赤いモヤで隠せる程度で、かなりの集中を要するのか猛烈な風にマナを乱されて現在はご機嫌斜めな様子。
「寒いのは苦手」と言っていたアダルティーは緑の外套をきつめに巻きつけて身を縮めながら先頭を歩いていた。アダルティー同様、最初は寒さに凍えていた鱗であったが暫くすると途端に寒さを感じなくなっていた。真実の神に与えられた装備のお陰か。アキほど集中を乱されることもなく魔力感知の修行に集中できていた。
「回転じゃなくて伸ばす…」アダルティーに言われた言葉を思い出しながら初めはマナの知覚から。
一度目の試行と同じく心臓の鼓動から身体の内にある異物を捉え、そこから伸ばすように意識する。前回は内側で掻きまわした余波で感知していたが混ぜ続けるのは確かに骨が折れる。
「身体を、拡張」
感覚を言葉で伝えるのは苦労する。だって、それは其の人のモノだから共感なんて絶対出来やしない。ただそこに分かろうとする意志があるかどうかだ。
『 マナって何ですか? 』『 俺個人の考えだけど…愛かな 』
ベルマーから教わった世界歴伝〝世界創生〟を思い出しながら世界に満ちるマナを捉える意識をする。天は吐息と陽と雫を、地は彩りと恵みと温もりを以て世界を愛で満たした…。
『 エルフも元を辿れば母様たちの愛そのもの。肉体という概念が人間よりも曖昧なのよ。』
曖昧ゆえの拡張。身体という器を超えて自分を大きくして、世界を視る。それはつまり…。
「自分のマナを—―世界に浸す?」
ギチリッと錠に鍵を差す音が聞こえた気がした。
世界を何にも染まらぬ透明の水として、自らを絵の具の付いた筆としようか。水に筆を軽く浸せば筆先から色が溶け出して色の軌跡を作る。溶けだす色。珈琲に滲む乳白色。ジワリと世界に溶けていって自らも世界の一部となって…。
「…緑…?」
前方のアダルティーに向かって意識を飛ばすと色が見えた。ぼやけた薄緑だ。
「——もう!なにっ!!」
そこで急に大声が上がる。久しぶりに聞いたアキの怒った声。どうやら寒風に乗って降ってきた小さな霰がアキの頭を小突いていたらしく頬を膨らませながら憤慨していた。
「あははは。アキ、こっちにおいで」
偶然当たっただけだろうとアキを近くに呼んで非難させる。鱗が風上に立って、アキを風下に。たとえ雹が降っても避けられるように未熟ながら山の方角に魔力感知を張ることにした。
「実戦も見据えないとね」
感知からの反射…何かしらの役には立つだろう。実戦に向けた修行だと思って再び魔力感知に意識を傾ける。
小さな白、大きな白…風に舞い上がるのは小さな霰か積もった雪から舞い上がった粉雪か。ひとまず当たったら痛そうな「大きな白」だけに注力する。小さな霰が鼻先をかすめる中、「大きな白」が鱗の魔力感知に映る。
「よし」と意気込んで目を開くと予想よりも大きめの雹が迫ってきていた。
「あぶな」足元に落ちる軌道だと読んで半歩身を引いて避ける。すると雹は妙な軌道を描いて風下にいたアキの頭に直撃するのだった。
「ぎゃああ!!!」
悲鳴を上げて、しゃがみ込むアキ。そんなアキを見下ろしながらも鱗は直前に目にした奇妙な光景を思い出していた。
「いま…浮いたよね」
山から吹き下ろす風に乗ってきた雹。一直線ではないにしろ落下の軌道を読んで鱗は回避した。粉雪ならば風に吹かれて飛ぶこともあるだろうが雹であの軌道は絶対にありえない。
「魔術…?」
物理法則を無視したような軌道から推測を述べると先頭を歩くアダルティーが足を止めて、左にあるギャロップ山を見上げた。
「これ…天の母様の…」
その緑光の瞳には何が映ったのか。すぐさま血相を変えて鱗たちの方を見るとアダルティーは声を張り上げた。
「アキちゃん!マナを抑えて!ウロコ!逃げるわよ!」
そして気がつけばアキを小脇に抱えたままアダルティーは凄まじい速さで駆け出していた。
「ま、待ってください!アダルティーさん!」
突然の出来事に一歩遅れて鱗も駆け出す。
敵なのか罰なのか。その正体も分からぬまま微かに煌めく銀髪の輝きを追いかける。
「アダルティーさん。何が視えたんだろう…」
全力疾走しながら魔力感知を走らせるが集中し切れていないせいで漠然としかモノの尺度を測ることはできない。ただ底無しの海を覗くような主張のない畏怖が胸をくすぐり、いつしか地響きのような衝撃と共にソレは鱗の目前へと流れ落ちていった。
「—――――え…?」
雪崩が目前の景色を塗りつぶす。無慈悲に、無感情に、パクパクと、あっという間に。
止めようもない白い濁流が世界を埋め尽くすのを鱗は何もできずに呆然と眺めていた。そして、いつの間にか轟音が鳴り止んだ頃になると世界は銀を孕んだ白波に覆いつくされていた。森の木々は押し倒され、緑生い茂る大地は見る影もなく姿を変えた。
「・・・あ、アダルティーさん!アキ——!!」
静寂ののち雪を弾いて飛び出した枝葉の音に驚いて体の硬直が解かれると鱗は雪布団が掛けられた大地へと飛び出した。
「集中…。集中しないと…はっ、はっ」
冷めぬ感情を切り離し、数度の呼吸から自らのマナを知覚。逸る鼓動を鎮めつつ脈打つ鼓動に意識をゆだねて前方向に魔力感知を伸ばす。緊張と積雪に苦闘しながらも伸ばした自身のマナに意識を集中させていると。
「…赤!」
視えた色を口にすると同時に雪布団から細い火柱が打ち上げられる。
アキが飛ばした火球か。アダルティーの魔術か。どちらにせよ二人の場所は把握できた。
「大空よ。孤独な私に空を駆ける許しを—――『大空の足元で』」
徒歩では雪に足を取られて時間が掛かると判断し、浮遊の魔術を行使する。
ベルマーとの真剣勝負以降、初めて使う魔術。気が急いているせいか普段よりも天からのマナが遅く感じられる。
「きた…」
魔術の発現と共に上昇すると上空からの景色に目を奪われる。
山頂付近から下りてきた雪崩によって山脈の麓からネルバ大森林の間にあった大地は悉く白に埋め尽くされていた。
陽の光に照らされて疎らに輝く銀雪。雪に飲み込まれたことで生まれた静寂。
閑静な雪の美しさに魅了される間もなく自然の無慈悲さに只々圧倒される。
「アダルティーさん!アキ!」
火柱の上がった地点まで滑空するとアキを抱えたアダルティーが佇んでいた。少し険しい顔をしながらもコチラに気が付くと安心したように顔をほころばせて手を振ってくれた。
「貴方は無事だったのね」「はい。私の目の前を雪崩が通り過ぎていって…」
「くるよ!!」互いの安否を確認していたところで抱えられていたアキが大きな声を張り上げる。
「何が…」と尋ねる間もなくアキの反応と同時にアダルティーも警戒態勢を取る。ところが、
「ウロコ。あらかじめ伝えておくけれど…私には期待しないで頂戴」
敵の正体を知っているのか。その顔には諦めの表情が浮かんでいた。…やるせない顔とも呼べるかもしれない。
「あれは天の母様の吐息。この世界を流れる「風」の一端を統べる純粋な天の母様の子よ」
雪原と化した大地を無色透明の風が奔る。
空を裂く音。その軌跡を描くように舞い上がる粉雪。まるで不可視の鎌を振り払ったようだった。




