5.「剣なんて握れません…だって女の子だもん(笑)」
巨木生い茂る大森林の入り口で若槻鱗は佇んでいた。
先ほど出会った青年騎士ベルマー=ガルディアンの跡を追って草原を突き進んだまでは良かったものの、いざ見知らぬ森を前にすると足が竦んで前に進めない。
それなら、せめて危険の有無を見極めようと鱗は森の奥をジッと見つめていると奇妙な音が聞こえた。「ポコ…ポコ」と口を閉じながら舌を鳴らしたような音が響く。それが一定の間隔で鳴り続け、そして唐突に消える。気まぐれからなった沈黙が緊張を生み、確かに感じた生命の気配が再び鱗の足を臆病にさせる。「森」というものは不思議なもので、風向き一つで喜び楽しくさざめいたかと思えば陽に雲が掛かるだけで途端に怖い顔をする。
知らない世界。知らない場所。
植え付けられた黒い恐怖だけが渦巻いて一歩踏み出す勇気が出てこない。
「衣・食・住だ」呪文のように唱える。
もうベルマーの跡を追うことはできない。彼が戻ってきてくれることを信じて今日を無事に乗り越えることに鱗は注力する。衣はある。住処は森。当面のあいだ念頭に置かなくてはならないのは、やはり食料だろう。知らないことだらけの世界だけれど人間はいずれ適応する生き物。慣れて、親しんで、知ってゆく他ない。
「いざとなればコイツの出番もあるかも…」
それらしい台詞を吐き、右腰に携えた鞘をなぞる。
何事も慣れ親しむには時間を要するもの。
ましてや剣。端的に言えば武器。言うなれば凶器…。
いきなり本番で抜刀するのも気が引けると、慣れない手つきでベルトから鞘ごと抜き出そうとすると途中で固定具が外れてしまい、大きな音を立てて剣は地面に倒れた。
「あ~あ…」力ない声を上げながら倒れたままの剣を観察する。
丸い柄頭。革の握り。地味な鍔。鞘口の黒帯。片手分に当たる白磁の鞘。
鞘の材質は金属よりも木材に近く、滑らかな感触をしている。
「なんだろ、これ?」
巻かれた黒帯を視線でなぞりながら剣を返すと奇妙なものに目が止まる。
鞘に埋め込まれた黒い石だ。大きさは鶏の卵ぐらいで異様に透明感がある。重厚な光を秘めた宝石というよりも軽く黒を垂らしただけの安っぽいビー玉に似ていて不思議と子供心が掻き立てられる。
「…抜いてみますか」
再び鞘をベルトに固定し立ち上がる。わざわざ腰元に剣を戻したのは実戦で使用するのを想定しただけ。…別に腰元から剣を抜くことへの憧れなどではない。
右手に鞘。左手で柄を握って、ゆっくりと引き上げる。
白磁に艶めく鞘から銀の刀身が徐々に姿を現し、そして止まる。
鋭い両刃を前にした主は剣を抜くのを一時躊躇い、唾を飲み込む。
鞘口から指を出さぬよう注意しながら鞘を握り、左腕の角度を修正。ついに鞘から刀身が放たれ、
「抜け—————…え?」
…白光を帯びて現れるはずだった剣はスルリと抜け落ちるように手から離れ、そのまま革ブーツの上を僅かに掠めて地面に突き刺さっていた。
風が激しく枝葉を揺らし、森が笑うようにさざめく。
不自然に宙で固まったままの左手と掠めた右足を見比べ、ようやく片足を失いかけたことに気がつくと鱗は腰を抜かしていた。
「重っ!」さらに左手に残った感覚に鱗は苦い顔を浮かべる。
包丁、出刃包丁、蕎麦包丁…調理で扱う刃物ですら用途に応じて重さが変わる。ましてや目の前にあるのは成人女性の片手分にあたる刃。重くないわけがない。…だというのに鱗は今に至るまで剣の重みを感じていなかったのである。
「や゛っば、お゛も゛い゛!」
このまま〇スターソードみたく刺しっぱなしにするのは宜しくない。
急いで剣を握り大根抜きの要領で勢いよく剣を引き抜くと、そのまま勢い余って背中から地面に倒れ込んでしまう。
「…何やってるんだろ。私」
抜いた剣を抱きながら青天を見上げる。
チリチリと耳元で雑草がこすれる音が心地よくて、若槻鱗は両目を閉じる——…。
真実の神が、なぜこんな重たい剣を授けたのか分からない。悪戯か、嫌がらせか、失敗か…と思索しながらも旅立つ直前までの彼との会話を思い出して鱗は首を振った。
「不憫だ」
剣を地面に置き、腰ベルトから外した鞘を剣先に合わせて慎重に納めていく。
「よし」と気合を入れなおして万全の体勢で剣を抱え上げる。ところが今度は重さを感じることもなく軽々と剣を持ち上げてしまっていた。
「・・・なにこれ?」
やはり、剣の重さを感じない。玩具の剣でも持ってるみたいに軽い。
剣の性能を知るべく鱗は実験を試みる。
まず鞘から剣を抜いては、戻し、抜いては戻す。
次に鞘付きの剣を持ち上げ、振って、落として、放る。
今度は外した鞘だけを振ったり、落としたり…と試行を繰り返した後、ようやく鱗は理解する。
この剣は鞘に納められているあいだ〝重くなくなる〟のだ。
「重さが無くなる」ではなく「重くなくなる」。
鞘に納められた剣は確かに重さを無くすが、あくまで所持者への重さ(もしくは負担?)を無くすだけで剣本来の重さが失われた訳ではない。それは鞘付き剣と鞘のみを落とした際に見た地面の凹み具合や落下速度などから判別ができる。
勿論、鞘に収まった剣では切ることはできないが貧弱な鱗でも使える武器であることに間違いはない。
まさに〝おじいちゃんスマホ〟ならぬ〝おじいちゃんソード〟
…いや、この場合は「おばあちゃんソード」か。
「…って、誰がおばあちゃんだ!」
白昼の下。
少女の声が大森林を駆ける。
吹き流離う風が草原と大森林を往復するように幾度も草花を舞い上げ、枝葉を激しく揺らす。それが少女を嘲笑うためのものなのか。または何かに向けた警鐘なのか。今は、誰にも分からない。