50.「マズイことになりました!」
不味い。…いや、料理の失敗とかではなく。
不味いことになった。…いや、失敗談にできるような笑い話でもなく。
非常にマズイことになってしまった。
申し開きも出来ないほどに稚拙で愚かで怠惰な若槻鱗が悪いわけだが、それでも言い訳だけはさせてもらいたい。
事の経緯を話すとすれば、とある不運の連続が重なってトイレで孤独死するという最後を迎えた若槻鱗。目覚めると目の前には羅馬男児と隆々たる四肢を持つあんこがたの力士を掛け合わせたような男、真実の神が鎮座しており、再び生きろと言われてしまった。
なし崩し的に始まった第二の生。前世の如く他に傾いて生きる汎用の自己、【若槻鱗】としてではなく「真実に生きてほしい」と願われた若槻鱗は真実の神に与えられた「かえる」力と不思議な剣を手に新たな世界へと降り立った。
「かえる」力によって火から生まれた愛娘、アキ。
窮地を救ってくれた騎士にして恩師、ベルマー=ガルディアン。
悠久の時を生けるエルフ、アダルティー。
様々な出会い。多くの日々。決死の戦いを経て、天地の神々が作った世界を知り、歴史を知り、自らが犯した罪を知った若槻鱗はアダルティーと共に世界を知る旅へと向かった。
…わけなのだが。
乙女として生きている以上、どうしても避けられないアレがある。
ある日とつぜん「大人になれ」と遺伝子に刻まれた本能が叫び出して、無垢な少女は大人になることを抗いようもなく求められる。
「大人になれ」と言われ続けた少年だった彼も少年には戻れないのやもしれないが。
とかく「大人になれ」と外的/内的に求められた少年/少女時代。大人になった彼ら/彼女らは決して子どもには戻れない。
そんなこんなで若槻鱗にも赤き月が舞い降りた。
「水洗いだけで済む衣類って何なんだろう」
裏地が赤黒く滲んだ下着を小川で洗いながら一人呟く。
初めて服を洗ったときに気づいたことだが、真実の神に与えられた衣類は水で濯げば簡単に汚れが落ちる。濃く張り付いた汚れも水に浸せば匂いともども消え去り、数度あおげば乾いてしまう。
ただ汚れは落ちても赤き月は終わらず暫く続く。月光は重い方だし何度も自分の赤を見ると気分は沈む。
「せめて痛みがなければなぁ」
同性であれば共感を得られる悩みを打ち明けて水面に映る自分を見つめる。
重くなった気持ちが水底から跳ね返ると忘れじの罪を引き上げてくる。
「知らなかった」が故に犯してしまった自らの罪。まだそれを諫めようとするモノが現れてくれるだけでも、この世界は優しいのだろう。
「またスライムが現れたら…」
緑色の軟体。地の大神のスペルマ。地の大神の忠告。
あの時は無我夢中で気づかなかったけれどスライムを結果的に倒したのはアキだった。
その結果として御使いの地龍が現れたわけだけれど、それを倒したのは恩師であるベルマーだった。
あれ以降、地の大神から鱗を狙うような行動は起きてはいないのは二人のおかげだったのだと今では考えられる。
アキは、この世界の木を燃やして生まれた地の大神に由来するもの。
ベルマ―は、この世界の人間。大神の孫に当たる存在。
いずれかを(まあ、天地が返っても無理な話であるが)鱗の手で倒してしまっていたら…と考えると二人には感謝してもし足りない。
「スライム…スライムか」
あの軟体生物スライムは痛みを感じるのか。ふと、そんな疑問を思い浮かべる。
痛みを感じない体。こんな時だからこそ思うが、それが羨ましいと感じてしまうのは自然なことだ。
「はあ~スライムになりたい」
水面に映る自分に向かって何気なく呟く。
貝になりたい。鳥になりたい。魔法使いになりたい。そんな細やかな願いを口にした途端に若槻鱗の体は倒れた。
(—――――!?)
唐突な視点移動。最初は貧血で尻もちをついただけかと思われたが明らかに視点が低い。
尻もちというよりも地面に突っ伏して顔だけ上げたような低さ。芋虫ごっこをしていた時の…どこか懐かしいような視点。
(う、うごけない。)
手足の感覚がない。呼吸をしても肺の膨らみを感じない。そよ風の涼しさも陽の暖かさも何も感じない。
ないない尽くしの感覚から鱗は初めてアキを生んだ時の事を思い出す。
身体の力が抜けていって何も出来なくなる…あの脱力感。
けれど、あの時と違うのは苦しさを感じないこと。ただ在るだけの何かになった気分。
(転がるぐらいなら、)
せめてヨコへ…と左右に体を動かそうとすると妙な出来事が起きた。
頭を動かさず体が横へ移動したのだ。
視界は固定されたまま、体だけ誰かに押されたような感覚。転がれば視界も回るはずなのに、どうやってこの体は動いたというのか。
(まえに。まえに…)
意識を前に向ける。今は手足の感覚が麻痺しているだけだと信じて前進するよう意識すると次第に視界が動き始める。
這いずるにしても地面を掴む感覚があるはずなのに、やはり何も感じない。
(だんだん慣れてきたぞ…)
前に右に左…と動き自体には慣れてきたところで目前に小川が迫る。
(あぶない、下がれ下がれ…)
後退のため振り返ろうとすると再び奇妙なことが起こる。
首を回そうと後ろに意識を向けたところで視点がグルリと真後ろに切り替わったのだ。
撮影機の視点切り替えのような機械的な感覚。自分の体は一体どうなってしまったのか…。
(もう一度…うしろに)
後方に意識を送ると視点は切り替わり、先ほどの小川が映る。
よくよく考えれば、なぜこの異常事態にもかかわらず冷静でいる自分がいるのか。
いの一番に助けを求めて声を上げるべきではないのか…疑問は浮かべど行動には移さない。冷静というよりも思考停止に近い感覚。
(もう少し――)
前進して小川の端へと辿り着く。まるで自分が自分でなくなったような気がしながら、おそるおそる首を伸ばして水面を覗くと。
(・・・は?)
そこには何もない顔があった。
目も鼻も口もないのっぺらぼう。陽の光すら僅かに透過する体。ぷよぷよと揺れる緑の軟体…。
(私…スライムになっちゃったああああああああ!!)
無音の叫びを上げながら川辺でのたうち回るスライムが一匹。
これは「神」の仕業なのか。なんと若槻鱗はスライムになってしまったのである。
・
散々のたうち回ったついでに鱗はスライムの体の動かし方を学んでみることにした。
剣術修行で得た体さばきと元々の運動神経の良さが合致したおかげか。前進、後退、左右往復、跳ねたり、木をよじ登ったりしているうちに体の扱いには一通り慣れてしまった。
(冷静に考えてみよう。)
こうなってしまった原因。魔術は発現させてもいないため考えうる要素は一つしかありえないわけだが。
(「かえる」力…か。)
真実の神に与えられた力。起こした火から知らずにアキを生み出した際にも作用した「かえる」力。
「火」という現象…魔法をそのままに外装を「人」の器に作り変えた力。本質をそのままに形のみを変える…【変身】の力。
(つまり…自分の体に対して「かえる」力が作用した、ってことかな)
水面を見たせいか。もしくは願ったせいなのかは分からない。ただ原因が分かったのならば、もう一度同じように自分の体を変えてしまえば…。
「スライム…?」
聞き馴染みのある声。視点を後方に切り替えると、そこには愛しき娘のアキが立っていた。
生きた「火」の魔法である彼女はマナの消費を抑えるため普段は少女の姿をしている。しかし感情の抑制が外れると体内のマナに応じた姿になってしまう。今朝がた『ふぅ〜』とマナ供給を終えたばかりで彼女のマナには余裕がある。
「また…マ~ちゃんをいじめにきたの?」
乙女アキの手に火球が浮かび上がる。
火の化身である彼女は詠唱を唱えることなく自らの炎を操れる。味方としては非常に心強いが「敵」として相対すると恐ろしくコワイ。
(まって!違う!)
口も声帯もないスライムの体では話せない。この体では意志を伝える手段が身振り(手は振れない)しかないのだが、こちらを警戒しているアキからは「一歩でも動けば投げる」という強い意志を感じる。
(この状況…かなり不味い。)
一歩も動けない膠着状態が続く中、どうにか誤解を解こうとしているとアキの後方から救いの手が現れた。
「どうしたの。アキちゃん?」
垂れた銀髪を長耳にかけながら悠々とコチラに向かってくるアダルティー。アキのマナが活発化したのを感じ取ったのか。乙女アキをなだめながら地面にいる鱗を見つけると、ピタリと動きを止めた。
「ねえ、アキちゃん。ウロコは何処に?」
「わかんない」と首を振るアキを見ると、アダルティーは集中するように眼を閉じてしまう。
(…私のマナが感じられないのか。)
どうやらアダルティーが来た理由を勘違いしていたようだ。
彼女は活発化したアキのマナではなく突然消えた鱗のマナを感じて此処まで来た。体がスライムになった影響か。アダルティーの魔力感知でもスライムの正体が鱗だと看破できないらしい。
(…もどれ。もどれ。元の私に戻れ!)
魔術の修行を思い出す。
未だ不明の多い「かえる」力も、ある程度この世界の法則に則ったもの。
魔術の時と同じく、重要となるのは揺るがぬ精神と確かな想像。それから強く祈り、願うことだ。
「…戻…った?」
下腹部に感じる月光の重み。目蓋を開くと自分の両手があり、試しに頬をつねると痛みと暖かさが感じられた。
「やった!戻れたぁ!」
痛みが喜びに変わりうる事があっただろうか。
取り戻せた感覚を実感している最中、前方から感じた視線に鱗はギクリっと身を震わせる。
「マ~ちゃん…?」「・・・本当にウロコなの?」
困惑の籠った二つの視線。「あははは…」と乾いた笑いで誤魔化しながら埃を払うようにシャツの裾を叩くと、その場で勢いよく土下座をする。
「怖がらせてごめん。アキ!ご心配おかけしました。アダルティーさん!」
…少し経って、少女アキの拳がポカポカと頭に打ち据えられる。「ごめん!ごめん!」と謝りながら顔を上げると、ぷんすかと怒ったアキの顔が。そして、その後方にいるであろうアダルティーに視線を移すと好奇心に満ちたアダルティーの顔が見えた。
「良かった。本当にウロコなのね♪」
ほんの僅か。鱗の視線が彼女に向かう直前、その表情に翳りが見えたのは…きっと鱗の気のせいだったのだろう。




