4.「リスポーン地点に最強の龍が現れました」
宇宙を駆け、星を越えて、光の一柱は世界を渡る。
目に見える星々は点から軌跡を描き、黒い宙をなぞる線となる。
黒板を無数の白チョークで書きなぐり続けていくものだ。目まぐるしく乱雑に引かれる様は鮮烈にして壮絶。白銀に煌めく軌跡の数々にただただ圧倒されるのみ。
彼方に消える星々。
そして新たに上書きされる軌跡。
その繰り返しを眺めているうちに頭の中で〝銀河〟の二文字が浮かぶ。
流れゆく星の軌跡。新たに生まれる星、母星、命‥‥。
「銀河ステーション~‥」
膝を抱えて口ずさみ、映りゆく景色を静観する。
明けることのない夜を待つ気分になって、そのままジッと座り込んで目を瞑る。
しばらくそのままにして次に気がつくと宙の星々は大きく数を減らして視界の多くを果てなき黒が埋め尽くしていた。数えられる程度の星たちを見つめながらも、それを数えることもなく先頭のみをジッと見つめる。
やがて激しい閃光に襲われた。
両目をつむると目蓋の裏で走馬灯が一周し始め、それが終わる頃になると大粒の涙が二筋だけ溢れながれた。…きっと強い光を浴びたせいだろう。
・
涙が落ち着いた頃になると耳元で心地よい風が囁く。遠くから木々のさざめきが微かに聞こえ、風に舞い上がった草花の香りが鼻を優しくくすぐる。
「…くっ、しゅん!」
可愛いクシャミが放たれたところで若槻鱗は身体の違和感に気付く。
筋肉痛や偏頭痛といった体調面ではない妙なぎこちなさ。新品の制服やスーツ、成人式の振袖を着たような慣れない感覚‥。
「なに…これ?」
手のひらから手首、肘、腕…と全身を見回す。
カフスの付いた白シャツ。慎ましい胸を納めた胸当て。
膝丈まである黒スカートと、その下に履かれたショートパンツ。
謎の短冊が付いたベルト。焦げ茶色のブーツ。
胸当てを突くと、どうやら革製のようでブーツやベルトもすべて同じ素材だ。制服のスカートを縦カットしたような短冊が付いたベルト——レザードレスは短冊部分の用途が全く分からなかったが西洋鎧にある腰当ての簡易版のようなものだろう…などと推測しつつ鱗は自身の格好に困惑していた。
「問題は…コレだよね」
その場にしゃがみ込んで腰元の物に目を見やる。
男の子の憧れ。侍持ちした傘。竹刀欲しさに選んだ体育の選択科目…。
この衣装、この装備に相応しくも若槻鱗には分不相応な異物。
「剣だ」
鞘に収まった一物に手を添えて鱗は事実を述べる。
丸い柄頭が少しだけ可愛い剣。握りの部分は僅かに丸みを帯びた楕円で握りやすいように加工された弾力のある革が巻かれている。
鍔は尖りのない丸みを帯びたもので日本刀のような鍔迫り合いに応じた芸も西洋の剣が持つ格式高そうな派手さもなく、総じて言えば実用性を追求した地味な剣。鞘の長さからして刀身は鱗の指先から肘ぐらいだと推察された。
「マジか…」
衣服とは何か。おしゃれか、はたまた恥部を隠すためのものか。
鱗は自らが纏う衣服によって真理を得た。衣服とは文化を表すもの。環境を解するため標であり、ひいては世界を知る目印なのだと。
「ここはそういう世界なんだ」
弱肉強食。武器がなければ外を出歩けないような厳しい世界。
平和な日の下で、惰性を貪っていたインドアヴァンパイアには過酷すぎる世界。それが「二」の世界なのだと鱗は予感した。
「それにしても凄い景色だ‥」
そして、鱗は世界を見た。
辺り一面を覆うのは緑豊かな草原と密やかに咲く小さな花々。
草原を見渡せば巨大な樹木が生い茂る大森林があり、その延長に山々が連なる。
雄大な青空には大きく膨らんだ積雲が群を成し、煌々と照り輝く黄金の陽が天上に浮かんでいた。
「良い天気だ」
陽の光に心地よさを感じたのはいつ以来か。
他人の目を気にせず鱗は身体を伸ばして深く息を吸い込む。
「空気が美味い。」
ふぅ~と大きく息を吐いて、ありきたりな言葉を新しき世界への賛辞として贈る。
勿論、返答はない。
軽快な風が柔らかに鱗の髪を撫でて草原を波立たせるばかりである——。
「…なんだろ…あれ」
それから不意に立ち上がった鱗は奇妙な雲を目にする。
山の一角をそのまま写し取ったような巨大な雲。
そこから雲の糸に絡まれながら落ちる「何か」。
引き千切った綿みたく薄白い軌跡を残しながら落ちる「何か」は糸を断ち切るたびに細かに輝いているようにも見え見えてみえてみえてみえてみえてみえてみえて。
・・・鱗は【死】を見た。
輝く何かが雲の糸を断ち切るよりも先に、それは現れた。巨大な積雲を乱雑に破り散らし、空を引き裂き顔を出す邪なるもの…。
「————あ」
戦慄する。
白き雲に相反する黒き顎が、喰らった白雲の断片から垣間見えた鋭い歯牙が、捻じり立つ二本の大角が、羽ばたく両翼が——生存本能を喪失させるほどの恐怖が強制的に種付けされる。
「星の、龍…」
星々を閉じ込めたような美しき黒鱗によって言葉が引き出される。
星の鱗を持つ黒き龍。世界さえも脅かす黒い死…。
「 伏せろ! 」
誰かの声が聞こえると同時に鱗の身体は地面に倒れていた。勢いよく倒れたわりに身体に痛みはなく背に弾力のある何かを感じながらも手足を動かそうとするが、何かが覆い被さっているようで身動きが取れない。
「‥だ、れ?」
揺れる焦点で声の主を見ようとすると視界が暗転する。恐怖。驚き。身動き取れずで、お先真っ暗。パニックになりかけた鱗が声を上げようとすると、
「大丈夫。落ち着いて。ゆっくり息をして」
絞り出された精一杯の優しさが心を平常にする。強張って固まった感覚が柔らかさを取り戻すと、じんわりとした生温かさが目蓋と額を包むのを感じる。
薄く目蓋を開くと陽光に混じって微かに差し込む影と薄紅と肌色。
…誰かの手で目を覆われているのだと、ようやく鱗は気づく。
「目を閉じて。ゆっくりと立ち上がるんだ」
それから少し経って優しく語りかける男の声が聞こえると身体に被さった何かが離れるのを感じる。言われた通りに鱗は目を閉じながら身体を横に倒し、四つん這いになってから立ち上がる。‥‥遠くで、柔らかな風の音が響いた気がした。
「もう大丈夫。でも、空を見上げないように」
背中越しに聞こえた男の言葉に従って鱗は目を開ける。
偶然か雑草に隠れた薄紅の小花と目が合った。
「君‥大丈夫?」
囁くような若い青年の声に鱗は驚きながらも静かに振り返る。
「突然ごめん。でも、あれがいるのに君が空を見上げていたから‥」
こめかみを人差し指で掻きながら謝る青年の姿があった。
短めの黒髪。蒼と白を混ぜた空色の瞳。ふわりとした顔の輪郭は女性的とも捉えられる柔らかさを持ち、肌の整い具合が一層女性らしさを際立たせている。
…よく見れば左目の目じりに小さな泣き黒子が浮かんでいた。
「いきなりで驚いたよね。俺はベルマー。ベルマー=ガルディアン。田舎の騎士ガルディアン家の———」そう言いかけて「いや‥」と青年ベルマーは少しだけ悲しそうな顔をしてから「〝龍殺し〟って言った方が早いかな」と呟く。
「えっ、と」
何か重要なことを言っていた気がするが鱗の頭には何も入ってこない。
端麗な顔を持つ青年、ベルマー=ガルディアン。
そんな彼の格好に鱗の意識は集中していた。
履いている靴は皮と靴底を接ぎ合わせたもの。皮は足の可動部に合わせて動物と樹皮を使い分けており、靴底は樹皮の繊維を捻じった糸を撚り合わせ、さらに編み込んだ縄の塊で構成されている。造形は少し荒いがエスパドリーユという草鞋に足を覆う布を併せたような靴に似ていた。
衣服は半袖の白シャツに黒の短パン。
大きな円盤が付いた皮のリュックを背負っており、腰元には一本の剣。
そして、頭の上には鱗の視線を一心に集めた大きな麦わら帽子。
「どうして空を見上げてはいけないのですか?」
「〈空に黒が現れたら跪け〉…聞いたことぐらいあるだろう?」
鱗が尋ねるとベルマーは妙な諺を持ち出した。
「霊柩車が通ったら親指を隠せ」みたいな感じだろうか。鱗が首を振るとベルマーは目を見開きながら少し仰け反る。
「空にいるのは龍族最強と謳われる龍。名は「龍黒」。…龍帝の次女にして、最強の魔眼を宿した龍。あのエルフ族ですら手が付けられないと言われている生ける伝説で————」
「はあ‥最強の」
何やら熱が入り始めたベルマーをよそに再び鱗は空を見上げる。すると、
「 あ 」
何気なしに見上げた|空に件の龍がまだいた。
空と大地。先程よりも両者の距離はかなり離れていたが互いにピントが合ったような不思議な感覚がある。
…人混みの中、知らない他人と視線が重なった時の驚きと奇妙な嬉しさが。
「だからダメなんだって!」
鱗の頬を両手で挟みながら一喝するベルマー。
至近距離で見つめ合う麦わら帽子の青年と乙女の姿がそこにはあった。
「え~と、何がダメなんです?」眼前にある空色の瞳に吸い込まれながらも尋ねる。
「龍黒の魔眼は「見たものを殺す」と言われているんだ」
「つまり…眼を見たら死ぬってこと?」
理解を示すとベルマーは大きく頷く。…未だ彼の両手は鱗の頬を捉えたままだ。
「見たものを殺す。龍黒…」
言葉にすればなんてデタラメな力だろう。
けれども幸いなことに若槻鱗は今も生きている。
その事実に安堵する一方で鱗は自身の体が酷く重くなったように感じられた。
幽霊とかそういう見てはいけない存在を見てしまったせいか。もしくは今になって、あの黒い龍への恐怖がぶり返したのか。しゃがみ込みそうになるのを堪えながら鱗はベルマーに懇願する。未だかつてないほどの必死さを込めて。
「あんちゃん、私を助けてくれ」
「‥‥申し訳ないけど、それは厳しいかな」
青年ベルマーは漸く鱗の頬から手を放す。
「これから「王都」で仕事なんだ」
小学生宜しく律儀にリュックの持ち手を握ってベルマーはその場を去ろうとする。
「私…何にも知らないんです」
よんどころない怖さが鱗の臓腑を震わせる。怖さは足に、手に、肩に、口に、全身に隈なく伝播して鱗は自分がどんな顔をしているのか分からなくなっていた。
「君は一体…」
訝しげに鱗を見つめた後、ベルマーは思い出したように麦わら帽子の影から空を見上げ、それから申し訳なさそうに顔を伏せる。
「そうだ。これを君にあげるよ」
少しだけ明るい声が聞こえると、ベルマーはリュックから取り出した二つの本を鱗に差し出していた。
「これは?」
赤と青の布でカバーリングされた二つの本。
一見すると真新しい本のように見えるが中身を開くとページの端々に折れが見られ、手の油や手汗で黄色くなっている。かなり使い古された本のようだ。
「本当は今日使うための教本だったけど内容は全部頭に入ってるから…」
今日の教本、という語呂合わせに気を取られる鱗。
そんな鱗の手を取ってベルマーは本を手渡した。
「それじゃあ」
短く別れの挨拶を送るとベルマーは鱗の下を去っていった。
先を急ぐように、けれど惜しむように。
早々と、揺蕩いながらもベルマー=ガルディアンは草原を突き進む。
「仕事が終わったら~! 絶対に来るから~!」
その言葉を最後にベルマーは大森林へと向かっていった。
「———仕方ない、よね」
とりあえず鱗は早速ベルマーから貰った本を読むことにした。
教本と言っていたのだから何かしら役立つ情報が書いてあるはず…そう意気込んでページを読み始めると鱗は重要な問題に気づく。
「しまった…」
ここは「二」の世界。
世界の在り方が違う以上いままで築いてきた常識は一切通じない。
自国の言葉であれば読み・書き・会話ができるという若槻鱗の常識は現時点をもって打ち崩される。古いシリーズ物の洋画を見た時に抱いた「話せるのに文字の読み書きができない」というワンシーンに抱いた幼い不思議が、巡り巡って鱗に絶望を与えることになる。
「読めない…」
分からない記号の羅列。厚さ4cmの暗号本二冊が鱗の手元に残される。
いつしか柔らかな風は鋭さを帯び始め、風にあおられた草原から花弁が舞い上がる。微かに流れていた木々のさざめきは徐々に大きくなり鱗の不安を増長させる。
再び大森林を見ると既にベルマー=ガルディアンの姿は消えていた。
草原に残る小さな凹みだけが彼の痕跡を残しているが、明日には綺麗さっぱり無くなってしまうだろう。
「行かなくちゃ」
青年の最後の言葉が幻聴でないことを祈りながら鱗は二つの本を胸に抱いて歩き出す。草原には彼女以外に誰もいない。恐る恐る見上げた空にも黒い龍の姿はなく、散らばった雲が身を寄せ合うように集まり始めていた。