44.「エルフの耳たぶって柔いですか?」
「少しだけ、考えさせてください」
焚き火を囲んだ昨晩。エルフ、アダルティーの誘いに鱗は保留で答える。曖昧な返事に頬を膨らませるアダルティーであったが「もう夜も深いですから‥」とベルマーが助け船を出してくれたおかげで彼女も納得してくれた。
「おやすみなさい先生」「ああ、おやすみ」
ただ、やはり地底湖での一件からベルマーとは一度も目が合っていない。
…やはり怒っているのだろう。
ベルマーと再会する少し前に地の大神の忠告——スライムに襲われ、倒したこと。
さらに今回のことで若槻鱗が異なる世界から来たことも発覚した。
ベルマーからすれば長いあいだ目をかけていた者たちに裏切られたようなものだろう。
スライムの件は鱗が完全に失念していたせいもある。スライムとは魔法の世界にいる一般的な害獣、という前世の知識が災いして鱗の中の「スライム」の重要度を下げてしまったことが要因となる。
‥蚊に刺された程度で人に報告する奴はいない。もう叩いて殺したのだから、それはもう終わってしまったこと。「なぜ?」と思う好奇心が鱗にあればベルマーに尋ねていた可能性もあったかもしれないが、そうはならなかったのが現在である。
だけど鱗の正体については、自覚がある。
「言わずにいたこと」が「言えなくなった」のだ。
焚き火の乾いた温もりを背に感じながら鱗は思い返す。
ベルマーは命の恩人。そして剣と魔術と知恵を授けてくれた師。何も知らない鱗とアキに真摯に向き合ってくれた。
初めて「かえる」力のことを話したとき、あえて鱗は自身の正体を言わずにいた。
過度な情報は混乱を生む。ただでさえ怪しい力を持つ鱗への疑念が高まれば、あのまま草原でアキと二人で過ごすことになっていたかもしれない…。
『あんちゃん、私を助けてくれ』
『申し訳ないけど、それは厳しいかな。これから大都で仕事なんだ』
それに最初に助けを求めたときベルマーは一度断った。
ベルマーだって人間だ。見ず知らずの人の頼みを聞くほど聖人ではないし、彼は義務を重んじる責任のある人物。騎士という多くの人の生活を背負った立場上、一時の事に身を割くことはできない。
結果として彼は自身の教本を貸し与え、さらには再会を約束してくれたが彼が疑り深い性格であったら、あのまま草原に一人ぼっちでいる可能性もあった。
…教本がなければ、アキは生まれず。
…再会できなければ、地龍に殺されていた。
ベルマーは命の恩人。文字通り彼の存在が若槻鱗を救った。
だからこそ、彼に見捨てられることを心のどこかで恐れて「言えなくなった」…のかもしれない。
「———明日、ちゃんと謝ろう」
そして目覚めた翌朝。いつもより早く目が醒めた鱗は小川の上流で顔を洗い、髪の汚れを落とし、身体を拭く。しかし一向に気分は晴れず、憂鬱としながらも拠点に戻ると既にベルマーの姿はなく、すれ違いを感じながらもアキを起こして朝の瞑想へと向かった。
「げんきだしていくぉ~」
鱗に手を引かれながら小さな手を柔らかに振り上げるアキ。
「…元気出して、ね」言葉を繰り返す鱗の顔は僅かに笑みを浮かべた。
今日謝る、だけ。たったそれだけのことだと高を括って‥。
「先生———おはようございます」当然のように言葉は出てこなかった。
いつもの『ワカツキ』がそれらしい挨拶を述べるだけでベルマーと共に大神への祈りを済ませると鱗は逃げるように朝の森へと走り去っていった。
地面を蹴り、的を見つけ、剣を抜いて、打ち込む。
気持ちのせいか昨日よりも剣が重い。剣の振りがおざなりになって的を切るというよりも勢い任せで叩き割るような剣筋になる。
『気の発散で剣を振ってはいけない』
剣を握った最初の頃にベルマーから教わった言葉が思い出される。
剣というものは身体の動きを真に「断つ」という結果へと導くもの。
身体の動きが揃えば剣は自らの真価を発揮し、ズレが生じれば名剣も鈍らと化す。
熟練の騎士は心と身体を切り離し肉体の記憶と感覚だけで剣を振るうが、鱗のような未熟者は心が乱れれば剣筋にすぐさま心象が現れる。…そうなってしまえば剣筋を見切るのは容易いと、一昨日の剣術訓練でベルマーは語っていた。
パガン―————パガン―——!
慣れない「剣」に振り回される感覚。
それがまるで剣を握った頃に戻ったみたいで鱗は少し笑い、それから自身を叱りつけるよう律して気合を入れ直す。二週間ほど前は重くて持ち上げることすらできなかった神の剣。それが今では多少なりとも振るえるようになったのだ。この程度の重さで集中を乱してはベルマーに良い顔ができない…。
「ただいm…」
やがて剣の感覚を取り戻したあたりで草原へと戻ると鱗は異様な光景を目にする。
ままならぬ悔しさに顔を伏せながら、わんわんと泣き叫ぶ幼女アキ。
その幼女を厳しく見下ろしながらも寂しさを漂わせる全身泥だらけの騎士ベルマー。
負けてはいけない一戦に敗したようなアキの壮絶な泣き姿に鱗は困惑していた。
人知れず行われた二人の魔術戦。
泥と炎の焦げ跡で塗りたくられた地面から煙と共に草花が舞い上がる中、鱗に気づいたベルマーが口を開く。
「おかえり、ワカツキ。少し休憩したら俺と模擬戦をしようか」「…ハイ」
久々に彼と目が合い、絞ったような声を出す。
曇った空色の瞳。今にも雨が降り出しそうな彼の瞳に言葉が詰まる。
「ぅうううぅう、ん~ん!」
ベルマーが立ち去った後、堪えるように泣くアキの元に駆け寄ると、アキは一度だけ鱗に泣きつこうとするが思い直したように再び地面に突っ伏して泣き叫ぶ。
「自分だけの感情だ」と独り占めしているように思えて、かける言葉も見つからないまま泣き疲れて眠ってしまったアキに『ふぅ~』と息を一吹き。そのままアキを連れて拠点に戻ると通達通りにベルマーとの模擬戦が始まった。
・・・アキの泣き姿。ベルマーの悲しげな瞳。
草原で見たあの光景が頭から離れず、大きく集中を欠いた未熟な剣士は騎士の慈悲なき木剣の殴打によって意識を失うこととなる。
・
次に目覚めた時、耐えがたい空腹が腹を鳴らした。
早朝から何も食べていない事に気づくと木剣で打たれた頭部から僅かに痛みが走る。
「あら。ようやく目覚めたのね。おねむりちゃん」
陽が縮みかけた夕刻ごろ。枝葉の隙間から差した薄い光線に照らされながら美女アダルティーが現れる。アキは食料でも取りに行っているのか姿が見えない。
「ベルマー先生は何処に?」「…もう、彼なにも言わなかったのね」
尋ねるとアダルティーは頬を膨らませながら鱗が眠っていた間の出来事を話してくれた。
鱗との模擬戦を終えた後、ベルマーとアダルティーはネルバ大森林を越えた先にある王都アスカテーラに赴き、冒険者集会所・所長コウウラに依頼の報告を行った。
「―—ああ。そうそう…これ、貴方に手土産だって…彼女から」
話が冒険者集会所に入ったところでアダルティーは思い出したように折り畳まれた紙包みを鱗に手渡す。
「焼き菓子よ」「クッキーだ」
中身を見た二人の言葉が重なる。それから首をかしげるアダルティーと一拍遅れて口元を押さえる鱗。この世界の食べ物はどれも見慣れぬものばかりで思わず紙包みから出てきた見知った物を知っている名で呼んでしまった。
「くっきぃ…?なんだか可愛い呼び方ね」
そう可憐に笑いながら「クッキ、くっきぃ、クーッキ、クッキー」と音を探るようにアダルティーは発音を繰り返す。
「もぐもぐ…おいしいですね、この焼き菓子」
空腹と誤魔化しも兼ねて焼き菓子を一つまみ。食感は少し固めだけれど、この世界の食材が元から美味なためか「クッキー」に劣らぬ甘さと香ばしさがある。材料の乳は以前ベルマーと食べた干し肉のクザのものだろうか。砂糖とは違う優しい甘さがあって手が止まらなくなる。
「…アキちゃんにも分けてあげるのよ」
即座に手を止めて紙包みごとリュックにしまい込むと話は所長コウウラへの報告に戻る。
ベルマーが鱗と再会する前に出会ったコウウラという女性。
彼女からの依頼によってベルマーと鱗たちはガラティア洞窟に向かった。道中で男性冒険者の痕跡を発見し、洞窟の最下層にある地底湖にまで辿り着いたのだが、そこで現れたのが。
「血の化身…」
所長コウウラの推測。地龍の亡骸を取り込み続けた地の大神から目覚めた新たな大神―—地の大神から力を奪った龍の怨みの累積、血の大神。それが意志となり、形となって地上に現れたのが地底湖の怪物―—血の化身。
「あくまで仮説、ね。地の母様の力が奪われるだなんて…私には到底理解できないのだけれど」
怪訝そうな顔で語るアダルティーであったが彼女もコウウラの推測を完全に否定できないらしい。鱗もこの世界の歴史について完全に把握しているわけではないが「龍」という種族が両大神から「かなり迫害されている」という事だけはベルマーの熱弁によって理解している。
「…大神は龍を恐れていたのでしょうか?」
あの朝。ガラティア洞窟へ向かう際に抱いた問いを言葉にすると、アダルティーは「ウロコは面白い考え方をするのね」と草原に残る地龍の傷跡を見回しながら答える。
「地の母様は恐れていたでしょうね。九つに割いた龍の子孫たちですらエルフ族を凌駕する個体がいるわけだから。…でも天の母様は分からないわ。本当に龍族を恐れていたならば龍族を繫栄できなくさせればいいわけだから生殖できなくしてしまえばいい。翼を奪えるのだから、きっとそれもできたはずなのよ。」
「つまり「タメシ」には、他の意味合いがあると…?」
「そうかもしれない。けれど、その真意を知るにはやっぱり母様に聞かないと分からないのよね…」
寂しげに遠い空を見上げるアダルティー。
もう会えない誰かを思うような儚げな表情に少し見惚れながらも鱗は尋ねる。
「もしかして…アダルティーさんのお母さんは、もう―—?」
「いいえ。老いてしまっただけで死んではいないわよ。…もう暫く声も聴いてないけれど」
「すみません」
野暮なことを聞いた。そう謝ると彼女はただ柔らかい笑みを浮かべた。
「別に怒らないわよ。それに…知りたいということは私に興味があるって事でしょう?」
色香を纏った声で切り返すと、くねくねと指を躍らせながら意地悪そうな顔で鱗の方へとにじり寄ってくる。そういえばガラティア洞窟で出会う前に、とある生娘の純潔を奪ったと話していたか…。
「ええい!」
淡い不安に目をそらしていると、どこからか聞き馴染んだ声が聞こえた。
「くすぐりぐりだ」
アダルティーの足にしがみつく幼女アキ。
その小さな手がモニョモニョと震えだすとアダルティーが教育上よろしくない声を上げた。
「あはは、アダるん へんなこえ」
興が乗り始めたのか少女の姿になったアキが今度は腰回りをくすぐり始めると、アダルティーは苦悶の声を上げる。
「ずるいわよ。子どもに手が出せないのをいいことに…っ!」
二人の様子を鱗は眺めていただけであったが彼女の台詞とムキな表情に妙な嗜虐心が芽生え始める。
『やっちゃえ、マ~ちゃん!』
心の中で悪魔的なアキが囁く。そして気がつくと鱗もアキに加勢していた。
「ちょっお、耳たぶ! 耳たぶは駄目ぇっ!!」




