33.「おねがい」
———ああ。こんなことが前にもあった気がする。
突き飛ばされたことが分かった。
天井が引っくり返る。やけに分厚い、槍のような鍾乳洞がこちらに矛先を向けている。「こわい」と気づくと身体は宙を流れ、浮遊に伴う内臓の空き具合が底なしの気持ち悪さを生んだ。そして今なお腸を握る無重力を忌々しく感じた頃、ようやく身体は無機質な地面に倒れ込む。
濡れた石の匂いがして不思議と澄んだ湿り気が喉の渇きを潤すと、若槻鱗は思い出す。初めて騎士と出会った運命の日を。
「先、せ——」
チカチカと揺れる視界で周囲を見渡す。
小さな炎が揺らめき、禍々しい黒い靄が煌めく湖を背後に佇んでいる。
つぶさに光る壁に目を細めながら周囲を流れ見て、それから光る壁に小さなくぼみを発見する。月に出来たクレーターが想像された。目を凝らして、見ようと思えば辛うじて見える程度の小さな灰色。穴と思われたそれが貼りついた濡れ葉のように剥がれた瞬間、銀色の光が輝いたように思われた。
「ベルマー…さん?」
ガチャリ。落ちた甲冑の音が地底湖に響く。
ガチャリ。ガチャリ。延々と耳の中で繰り返される重い音が身体中に伝播する。
肺は震え、胃袋は縮み、骨が軋む。このまま体内で音を反響させるだけの機械であれば良かったのに…と目を閉じかけたところで、どこかで声が鳴った。
「———ちゃん。———~ちゃん」
記憶を呼び起こす。
『 カミヲユルサナイ 』
あの怪物が言葉にした直後、その体は身を裂くように形を変えた。
蛹の羽化に似た神秘を僅かに感じたのちに…ベルマーに突き飛ばされた。
「マ~ちゃん!」
顔を上げると黒い靄がコチラを見下ろしていた。
サルのような見知った顔が靄から浮かび、渦巻く二本の大角が現れる。
立つことを覚えたばかりのような前傾姿勢でバランスを取るように後ろで黒の曲線が揺らぐ。その動きを目で追っていると背中に大きく羽ばたく闇が見えた。
黒き羽、角、尻尾…その姿形から反射的に浮かんだ怪物の名を鱗は口ずさむ。
「悪魔だ」
命名と共に悪魔は言葉無き産声を上げる。
誕生。否、再誕の儀に笑う悪魔。邪悪な笑みから想像された悪辣な遊戯を予期して鱗は先んじて祈りを唱える。
「天よ。言葉届かぬものに想いを———『天の独り言』」
地上よりもやや長い時を経て、天からマナが降り注ぐと微々たる風に言葉を託して鞘付き剣を構える。
限られた大神のマナ。拙い剣術。震える身体で叶うことは限りなく無いに等しい。
ただ、守るべきものが此処にいる。
逃げ出したいほど怖いけど彼女のためならば恐らく、きっと、若槻鱗は戦えるだろう。
「頼むぞ、私」
二度目の死を未来に描き、掻き消す。
代わりに笑う少女の顔を張り付けて鱗は自らの剣を構えた。
師より与えられた馴染みの剣は行方知れず。故に握るのは自身の剣。
筋骨隆々、豊満肥満、英国風美形面の我が儘な神——真実の神より賜った剣。鞘に収まる限り重くなくなる魔法の剣…。
【 カ ミ 】
この世界の神、天地二つの大神を呪う地底湖の悪魔。ついさっき突き飛ばした騎士のことなど忘れてしまったように悪魔は鱗の剣に注目していた。
「大空よ。流浪の私にたった一度の奇跡を———『大空の片隅で』」
躊躇なく鱗は切り札を出す。
日に一度しか使えない「大空」の魔術。初めて発現させた空を翔る魔術を唱えた直後、悪魔は予備動作もなく尾を振るう。
紙でも返すような柔らかな先制。
当たりどころが良くとも即死級の攻撃に対し、鱗は地面を転がるように打ち払われた死を潜り抜ける。
ここは地底湖。天の大神は遠く、尊く、その愛を受けるには時間がかかる。僅かな時間すら惜しまれるほどの緊張が焦りと無駄な動きを誘う。
「おちつけ、おちつけ」
言い聞かせながら体勢を立て直すと既に止めのの一撃となる悪魔の牙が迫っていた。
「来た!」
天の大神のマナを感じ取り、すぐさま魔術を発現。身体を浮かせ、そのまま地面を滑るように攻撃を回避する。牙が僅かにブーツを掠めながらも足は無傷。唾液と革ブーツの性能に助けられながらも何とか死地から遠のく。
しかして現状、若槻鱗に勝ち目はない。
不意打ちとはいえ相手は騎士ベルマーを破った怪物。倒すことよりも相手の気を引いて二人が逃げる時間を稼ぐしかない。
「もう、他の魔術には頼れない」
魔術とは大神のマナを借り受けて発現するもの。
そして、魔術の内容とその維持については使用者のマナに委ねられる。
土の魔術を例に挙げれば、元々自然界にある土を利用して構成した物体は時が経てば崩れて元の土に還る。土壁から家まで作れてしまう土魔術でも形や強度などを維持するためには作る前に多量のマナを込めるか、定期的にマナを補填する必要がある。
ベルマー=ガルディアンが使用する肉体強化や剣を強化する水魔術も同様に魔術の効果時間に応じて自身のマナを消費する。戦闘において、魔術を長時間維持するよりも短期的に魔術を発現させた方が自身のマナ消費も少なく済む。
そのため本来であれぼ必要に応じた魔術の切り替えが求められ訳だが鱗の場合はそうもいかない。借り受けられる大神のマナに制限がある鱗にとって魔術の切り替えは容易にできない。下手をすれば魔術の行使ができず死に直結してしまう…。
「‥このまま時間を稼ぐしかない」
「大空」の魔術による長時間の浮遊。
消費するマナは尋常ではないもののアキ一人分のマナを補っても行動できる自身のマナ。ベルマーに唯一勝るともいうべき自分の長所。自分を信じることが若槻鱗の選択であった。
・
「マ~ちゃん!」
壁から剥がれ落ちる騎士。黒い影を目前にしてもなお微動だにしない母を見た幼女は悲鳴を帯びた声で母の名を叫んだ。
何とか正気を取り戻すと、母は言葉を唱えて何かの魔術を発現させる。
言葉を閉じてから数拍、天からマナが降り注ぎ、母が唱えた魔術が発現された。
〜 先生を連れて逃げて。生きて 〜
不自然な風が母の声を連れて幼女の耳に入り込む。風に自身のマナを含んだためか言葉を聞き終えると幼女の身体は少女のものへと成長していた。
「ベルちゃん…」
立ち上がり、トテトテと裸足で壁際まで向かう。倒れた騎士の甲冑はボロボロでありながらも盾と剣は健在。使い手が意識を失ってもなお騎士の手に握られていた。
「おきて! ベルちゃん!」
ポカポカと身体を叩いても騎士は黙したまま。少女の体では到底運べそうにない。
「むむむ…」
自身に残る僅かなマナを燃え上がらせて少女は乙女の姿を顕現させる。無理やり成長したせいで髪がいつもより短くなってしまったが何とか騎士を引きずれる程度の力はある。
「にげないと…」
引きずって、持ち上げて。どうにか地底湖の入り口にまで騎士の体を運び終えると乙女の体は再び幼女の姿に戻ってしまう。入り口から近かったのが幸いしたというべきか。幼女に戦うほどのマナは残されてはいない。
「マ~ちゃん」
息を切らして振り返ると、怪物の周囲を翔け巡る母の姿があった。
縦に、横にと泳ぐように宙を翔けて。
だけど、その顔は時間を追うごとに酷く苦しさを増していくばかりだった。
『————あの大きな龍が相手でも…?』
かつての騎士の言葉が蘇る。それから「まもる」と口にした自分の姿が浮かんでは消えて、浮かんでは消えていく。
何もできない自分の姿が足元の水溜まりに写る。
遠くで苦しそうな母を見て、それから小さくなってしまった自分の手を見つめる。
「おねがい…」
涙がこぼれた。手で顔を覆っても零れてしまうほどの涙。
本当に、どうしようもないくらいの涙がこぼれて、口から出た言葉は願うことだけ。
「おねがい———」
誰に願う。何を願う。願って何を成す。
見えない何かに地の底から問われる。見えないはずの何かが見下ろしている。
「かみさま。あたし、マ~ちゃんをまもりたい———」
【いいよ】と、いつも感じる大きな存在が答えた気がした。
仕方ないですね、と冷ややかな微風が耳元で揺らいだ気がした。
幼女の身体が緋色の焔に包まれる。




