30.「孝行」
これは、とある青年のお話。
かつて〈ガルーラ〉と呼ばれていた廃村で生まれた青年は、今にも崩れ落ちそうなアバラ屋で小さい妹と祖母の三人で暮らしていた。両親はいない。彼が幼かったころに二人は病に倒れて地の大神へと捧げられた。
「お前と妹を残しただけでも両親に生きた価値はあるのさ」というのは祖母の口癖だけれど青年にはよく分からなかった。
「残されても食えなきゃ死ぬだけなのに…」
草木も、動物も、人もいない。荒れ果てた土地ではパルファス草さえも芽吹かない。
祖母と共に地面を耕し、陽の光を当て続けてはいるが草花一つ生えた試しがない。
なぜ、こんな荒れ地に祖母は残り続けているのか。
むかし一度だけ祖母に尋ねたことがあったが唯一覚えているのは「待っている」という言葉だけ。何を、誰を待っているのか。言葉の断片だけが青年の記憶に深く根付く。
「もう、木の根も飽きたな」
適当な地面を掘って、名も知らない木の根を湯がいて食べる…その繰り返し。
家の辺りの根も散々食べ尽くしてしまったし、このままいけば一家全員餓死する未来は見えている。だから、決断しなくてはならない。
‶ 俺は冒険者になる 〟
祖母に否定された言葉を地面に書き残し、青年は誰もいない大地へと旅立つ。
老いたとはいえ祖母にも魔術の心得はある。食料調達は少し大変になるけれど一人分の食料が減ったのだから妹の飢えも少しは満たせるはず‥。
「いってきます」
寝静まった夜。家を出る青年の背後から小さく「…にいちゃん?」と聞こえた気がしたが青年は振り返ることなく荒野へと姿を消した。
それから幾度も孤独な夜を迎えた。
くすんだ大地は一向に色を変えず、陽の現れだけが刻々と時の経過を告げる。視線の先に延々と続く景色が自身の未来を示しているようで徐々に青年の精神は蝕まれていく。当然ながら食糧はない。飢餓を紛らわすために爪を噛んでいたが気づけば指を噛み千切りそうになっていた。
「・・・あ”。」
あるとき視界の先に黒を捉えた。闇夜に揺れる奇妙な膨らみ。
歩を進めるほど揺らぎは鮮明になり大きさを増していく。
「あー。あー。ああああああ! ‥‥あ、ああ、あ、あ、あ、あ、あ!」
走って、転んで、這いずって、気絶。
目覚め、目に映った緑が夢でないと悟ったとき青年は理性を失った。
人であることを忘れたように四つ足で地面を駆けて、手の爪を剥がしながらも突き進む。見つけた木に縋りつくと大きく口を開けて木に齧りつく。歯の破片を零しながら噛んで、噛んで噛んでかんでかんでかんで噛み潰す。
「み”ず!」
きらめく透明を視界の端で捉えると勢いよく頭を突っ込んで溺れ飲み、失神。
再び目を覚ますと大きな黒い鳥が顔を覗き込んでいたので、その長い首を迷いなく圧し折る。初めて生き物の命を奪ったという無駄は微塵も介さない。血濡れた歯で獣は噛みつき、血肉を啜り、やがて羽根と骨と臭い臓物以外の全てを貪り尽くした。
「げぇぇぇっ…ぷっ!」
血と胃液と油が混じった痰を吐き出し、獣は深い眠りにつく。
生まれた雛鳥が卵にいた頃を思い出したように丸まって眠る獣の姿は人間に戻るための儀式にも見えた…。
翌朝。目が覚ました時、青年が最初に行ったことは体を洗うことだった。
何枚か剥がれたボロボロの爪で血と油と土と垢を掻き落とし、血濡れたミュートの羽根と骨を集めると青年は付近の家を訪ねた。「なにか食べ物と交換できれば…」と一握りの望みを懸けて青年は初めて家の戸を叩く。
「はい?———君、一体どこから‥いや、まずは服だな。これでも飲んで待っていなさい」
「え、あ、あう」
家の中から現れたのは年老いた男だった。
祖母と妹以外で初めて出会った人に青年が言葉をつぐんでいる合間、老人から温かい飲み物が入ったコップを手渡される。それが野菜スープだと気づいた頃にはコップは空になっており、なぜか両頬が火照ったように熱くなる。
湯気で濡れた生だろうと手の甲で頬を拭うが湿り気が全く取れない。恐る恐る頬をなぞるように指で辿ると、それが自分の目から零れ続ける涙なのだと気づく。
「よっぽど大変な目に合ったんだね」
衣服をテーブルに置きながら青年の顔と空いたコップを交互に見合うと、再び老人は家の奥へと向かいスープの入ったコップを青年に手渡す。「今度は味わって飲んでおくれよ」と一言添えて。
「それで。君はどこから来たんだい」
「‥ごく。ぼ、僕。俺、村から、ひと、一人で来たんだ。ガ。ル、ガル…ガルーラから」
「あの終焉の地から!?一体どうやって生きて…家族は? 家族はいるのかい?」
「いも、妹、そそそ祖母。」
飢えは人を獣に変え、孤独は人としての機能を失わせる。
老人との会話を通して青年は元の人間へと戻っていく。
陽が三度縮んだ後、青年はアスカテーラに辿り着いた。
ネルバの大木に囲まれた大都アスカテーラ。廃村出身の青年からすれば、その偉大さに圧倒されるばかりであったが怯んでもいられない。他の通行人に倣って青年は関所付近にいる若い門兵に声をかけることにした。
「キミ。大都への入都は初めてかな」
薄い口髭を生やしたメガネの若い門兵の案内に従って入都への手続きを済ませると最後に手数料を求められた。無論、イゾルテの一粒だって持ち合わせてはいない。
「では手数料の代わりに、そちらを頂きましょう」
事情を話すと手持ちのミュートの骨で門兵は手を打ってくれた。
聞けば、無一文の入都希望者は存外多いらしく大概が職を求めての入都となるため手荷物や装備を担保の一部にし、後から手数料を支払いに来る場合もあるのだという。
「で、でも。あ、危なくないのですか。と、途中で逃げられたり、し、してしまったら…」
「ああ、それは問題ありません。入都された方には契約が施されていますから」
ニコリと笑って門兵は答えてくれたが、それ以上の事は何も教えてくれなかった。
無事に関所を通り、街の人に尋ね歩きながら青年は遂に冒険者集会所へと辿り着く。
見知らぬ場所に怯えながらも扉を開くと入り口正面のテーブルに立つ若い女性と目が合い、自然と会釈する。
「ようこそ、冒険者集会所へ。新規の方ですね?」
ボサボサの髪。荒れた肌。何本か欠けた歯。砂土で黒ずみ欠けた爪。血走った目に淀んだクマ。借りた衣服を着ているとはいえ、このような身なりの者に嫌な顔一つせず受付嬢は青年を迎え入れてくれた。
…いつか自分の妹が彼女のように健やかに育ってほしい、と突拍子もない妄想を浮かべながら青年は頷き肯定する。
「分かりました。それではこちらにご署名を——あ、書けなければ私が代筆しますよ。———はい。カニエ=ソジェールさん、ですね。ありがとうございます。そ・れ・と。これは簡単な質問なのですがカニエさんは何のために冒険者に?」
「い、妹と祖母を養うため、です」
「ご家族のために、ですか。ちなみにご出身は?」
「ガ、ガルーラという廃村です」
「ガルーラ‥‥すみません。どの騎士家系が管理していた村か分かりますでしょうか?」
「ご、ごめんなさい。ぼ、僕が生まれた時から廃村だったもので。そ、祖母なら何か知っているかもしれませんが」
「いいえ、大丈夫ですよ。では、最後になりますが宿はお決まりでしたでしょうか。それと自前の武具などはお持ちで?」
首を横に振ると受付嬢は「では、先に集会所の宿にご案内しましょうか」と元気に答え、他の受付嬢に何やら言伝を頼んで青年を案内する。
「カニエさん。剣を握ったことはありますか」「い、いえ。ありません」
集会所を出て間もなく、突然彼女が話しかけてきたので青年は上擦ったような声で答える。剣なんて振るったことなど無い。祖母が話してくれた御伽話に出てくる騎士様に憧れ、妄想の剣を振り回していた程度だ。
「なるほど、でしたら初めは採取や採掘などの簡単な依頼から始めていきましょう。一つ一つの依頼の報酬は少ないですが他の依頼と合わせて受注も出来ますので、上手くいけばご家族への仕送りも少しずつ出来ますよ」
「でも。や、宿が…」
「ああ、宿の使用料ですね。着いたときにお話ししようと思ったのですが宿代は基本的には無料です。もちろん条件付きにはなりますが、カニエさんでしたら大丈夫だと思います」
程なくして青年たちは宿に辿り着く。集会所と比べると少し年季が入ったようにも見えるが実家のアバラ屋と比べれば大都の建物はどれも立派だ。
「これがカニエさんの部屋の鍵です。寝具など生活に必要なものはある程度揃っていますが何か困ったことがあれば集会所を訪ねてください。そ・れ・と。これは依頼受注時限定になりますが集会所の方で簡易的な装備も貸し出しています。分からないことがあれば気兼ねなく私に尋ねてください」
「‥‥あ、あの。どうしてそんなに親身になってくれるのですか」
何から何まで至れり尽くせり、という状況に青年は安堵よりも不安を募らせた。
「カニエさんが家族のために頑張った人だから、ですかね」
頑張った人。頑張る人でも頑張れる人でもなく。
「長いこと受付で人と接していると、手を見るだけで人となりが分かってくるんです。カニエさんの手は水や土をよく触る農夫さんの手に似ています。それから極度の栄…いえ。きっとここに来る前から大変な思いをされたのかと」
「か、かしこく生きられなかっただけです。僕たちは、精いっぱいだったから…今日、その日を生きることに」
「カニエさん、賢くなくたって良いじゃないですか。今日を生きられない人だって沢山います。昨日に挫けた人もいれば明日に怯える人だっています。精一杯今日を生きるのは誰にでも出来るようで一番難しいことなんですよ」
その日から青年は冒険者として活動を始めた。
受付嬢マルスの助言通りに簡単な採取依頼を複数受けて生活費を稼ぎ、その翌日から生活費と家族への仕送り分を稼ぎ始める。
採取の依頼は主にネルバ大森林での素材集め。
ガルーラ方面とは正反対の方向にあるネルバ大森林への門には立派な口髭を蓄えた兄弟の門兵おり、そのうちの一人——兄リング=リンドンには昼食を分けて貰ったり、ネルバ大森林について色々教えてくれたりと大変世話になった。
さらに依頼をこなし続けること数十日。
行商人が背負うような大きなリュックと中古の短剣を買い、少しずつ装備を揃えていく。自分で稼ぎ、自分に投資し、また稼ぐ。過度に近い疲労の代わりに得られる達成と満足から来る充実が日々を少しずつ豊かにしていった。
そして、運命の日が訪れる。
普段着より若干分厚い布装備に身を包み、少し手に馴染み始めた短剣を引っ提げて宿を後にする。宿の鍵を受付嬢マルスに預けて依頼を受注し、ネルバ大森林方面の門を出る際にリングと言葉を交わす。
「お、今日も採取か?」
「そうなんですけど…今日はいつもと違うんですよ!」
「なんだよ、あんちゃん。今日はヤケに機嫌が良いじゃねぇか」
「実は受付のマルスさんが特別に用意してくれた依頼でして、簡単な依頼なんですけど報酬がかなり良いんですよ。」
「‥‥ほーん」
「ですので日頃のお礼も兼ねて依頼が達成できたら今度美味しいパンと肉をお二人にお持ちしようかと」
「ほんほん! そいつは楽しみだ。‥あ、でも良いのか。家族のために稼ぎに出たんだろ」
「じつは生活も落ち着いてきたので今日の依頼が終わったら一度ガルーラに帰ろうかと。」
「なんだよぉ。寂しくなるな」
「いえ、家族を連れてまた戻ってきますから。その時は祖母と妹を紹介しますよ」
「それじゃあ」とリングたちに別れを告げて青年はネルバ大森林に入る。
その道中で朝早くから働いていたネルバ木の大工職人たちと挨拶を交わし、その後も森を進むと山から流れてきた小さな川を発見。その川を遡り、山道を登ると大きな穴が不愛想に口を開けて青年を待っていた。
「ここがガラティア洞窟の‥」
稼業を始めて間もない者がこの大穴に足を踏み入れるとき初めて彼らは自らが冒険者たる所以を思い出す。その身を危険に冒すことで生活を営んでいることに。
「な、ん、だ」
大穴に踏み出す直前、突如として青年は異変を感じ取る。
自分を囲う世界そのものが歪むような感覚。
咄嗟に青年は自らの身を抱いて、その場にしゃがみ込む。
体を燻るのは未知の感情。ここから逃げ出したいと身体全体が軋む感覚。子どものころに抱いた「こわい」とは明らかに違う生命に訴えかける本能の叫び。
「なにか、いる」
大穴からではない。自身の後方―—ネルバ大森林方面に突如現れた巨大で、恐ろしくて、果てしない存在。真相を知ろうにも青年に振り返る勇気はなく、結果逃げ込むように洞窟の中へと駆けこんでいった。
受付嬢マルスが勧めてくれた今日の依頼はスラガ鉱石の採掘。
ガラティア洞窟は初めて訪れる場所だが新米冒険者が度々訪れる程度に危険度は低い。小瓶の原料となるスラガ鉱石は需要が高く、定期的に採掘依頼が出されるのだが前回‥前々回‥と依頼を受注した新米冒険者達が集会所の武具を借りたまま逃走してしまい、急遽青年のもとへ依頼が回ってきた。
〝採ってきたスラガ鉱石の分だけ報酬が増える〟という通常とは異例の一攫千金の機会。世話になったマルスの頼みもあって青年は迷うことなく依頼を受注した。
「‥やっと家族と暮らせるんだ」
薄暗い洞窟を進みながらも青年の目は期待に満ちていた。
勝手に家を出て、死にかけて、人の手を借りて、拙いながらも始まった大都での生活。書置きだけ残した祖母にも随分と苦労をかけてしまった。
「今度は、ちゃんと話をしよう。それから美味しい食べ物と‥‥妹の服も…」
明るい未来を数えながら青年は洞窟の奥へと消えた。
家族のため。そして今までお世話になった人たちへの恩返しのため。
その細やかな願いが自らを滅ぼすことになるとは、つゆ知らず。




