2.「その者、真実の神なれば」
〝とても長い時間が経った〟
内側が疼き、意識が再起し、そのように自覚する。
重い何かが覆い被さったように身動きは取れない。視界も閉じたままだ。
だけど、頭を電子レンジにかけられたような苦しい感覚はない。
「きっと時間が経って脳ができあがったのかもしれない」と、お馬鹿な考えが浮かんだところで聞き慣れた音が耳に入り込む。
ガサガサ…。パリッ、パリ…。
フィルムとポリエチレンの合成袋が擦れ、油と塩分と芋の匂いが漂う。
続けて聞こえた咀嚼音から頭の中でアレの銘柄が数種浮かび上がる。
「チ」で終わり「ポ」で始まる三文字のアレ。
薄く切って揚げただけのジャンク。
味付け次第で無限の可能性を秘めたcalの悪魔。
スーパーで見かければ「コンソメ味は絶対に僕しか‥」と有名な台詞が浮かぶアレ。
「ハニーバターは私のものだ‥」
寝言のように口から零れたのは鱗が好きなポテチの味付け。
…開口一番の言葉にしては恐ろしいまでのダサさである。
〈 これは私のものだ。…というより、そもそもこれは〝こいじお〟だ 〉
返ってきたのは男の声だった。
聞き応えのある深い声色からは心配も驚きも嫌味も感じられず悠然とした態度の中に欠片ほどの期待感が芽生えた程度。ただ妙に響いて聞こえた男の言葉が演劇の台詞のように感じられ、次の台詞を待っているうちに反応が少し遅れてしまう。
「なんだよ‥「こいじお」って‥」
〈うすしお味のポテチに粗塩を振ったものだが?〉
当たり前だろうと言わんばかりに男は答えるとポテチを一口。パリパリと軽やかな食感の中には確かに小さくコリッとした音も混ざっている。
「あら、じお…」
塩分過多。しょっぱいの暴力。うすしお味への名誉棄損…言葉は浮かべど口に出すほどの気力はなく、ただ一言「…むくむぞ」と弱々しく突っ込む。
くきゅ~
すると、ジャンクの匂いに釣られて腹の音が鳴る。
驚いた鱗は反射的に腹部を抑えて目を開く。腹部を押さえる両腕。慎ましい胸。見慣れたルームウェア。日光を浴びていない白い太もも。そしてツルツルの固い床。
「石の床…?」鱗はゆっくりと上体を起こす。
今の状態では状況把握に今一つ欠ける。このままだと、ここが某ファーストフード店だと言われても納得してしまうだろう…。
「ドコココ?」
そうして顔を上げると驚きのあまり鶏みたいな声が上がる。それから急いで立ち上がろうとするも思うように身体が動かず上手く立ち上がれない。
「なんだ。ここは…」何とか膝立ちという形に落ち着き、鱗は周囲を見渡す。
果てなき暗闇が辺りを覆っていた。
暗闇は暗闇。闇があれば光があり、光がなければ闇はできない。
その暗闇を薄青く灯すのは暗黒から氷柱の如く垂れ下がった水晶のシャンデリア。豪華な造りにかかわらず田舎の電柱に設けられた電灯みたく物寂しそうに空間を照らしている。
「あれは‥」
そして正面には気品ある椅子が一つ。
湾曲した立派な足。ダイヤ型に膨らんだ赤い革製のクッション。
バームクーヘン並みに丸め込まれた木製の肘掛けと異様に幅広い背もたれ。
まさしく玉座と呼ぶべき場所には一人の男が鎮座していた。
『 おお、鱗よ。死んでしまうとは情けない… 』
明らかに用意されたであろう台詞を男はそらんじる。
玉座から放たれた男の声は暗黒の果てを覆っているであろう見えない壁を反響し、シャンデリアの真下にいる若槻鱗の耳へと届く。耳元で囁かれたような感覚と玉座にいた男の姿が合わさって鱗は叫んだ。
「アんbらシア…!」
悲鳴。奇声。出したこともないようなへんちきりんな声。
それを上げさせたのは玉座の男——主にその奇妙奇天烈な容姿であった。
「なんだ。思ったよりも元気そうじゃないか」
不敵に笑う男を鱗は訝しむように観察する。
まず、顔は文句一つないイケメンだ。
系統でいえば美術室にある彫刻や石像のような彫りの深い立派な顔立ちをしている。
髪は癖のある金髪で短髪。ピンッと伸びた金色のまつ毛から覗く柘榴の瞳は薄暗い部屋の中でも宝石の如く輝く。ただ、あまり長く見つめていると全てを見透かされそうで何だか怖い。
服装はリビングカーテン並みに大きな白い一枚布を纏っているだけ。
その着こなしは古代ローマのトガという衣服に似ている。
イケメン、金髪、柘榴の瞳、トガ…これだけであれば目の前の男を『イケメンローマ紳士』などと称していたかもしれないが、それを捻じ曲げるほどの要素を男は抱えていた。
隆々たる筋肉を蓄えた手足。
それからオタマジャクシみたいに大きく膨らんだ腹だ。
異常に発達した筋肉だけならば未だ飲み込めたかもしれないが、懐で今にも破裂しそうな腹がそれら全てを一掃する。…「英国力士」なんて言葉も浮かんだけれど、こんなに大きな腹をしたアンコ型はいないだろう。
顔はイケメン。手足は筋肉。腹は脂肪。
まさしくアンバランスな男が玉座に座って(というよりも、ハマって)いたのだから奇声の一つも上がる。各部位の比率がバグっているせいで遠近感は乱れ、気づけば「イケメンとは?」と定義まで再確認し始めている始末‥‥明らかな容量過多だ。とても寝起きの頭で処理できる代物ではないが、どうにか鱗は男を言い表す言葉を捻り出す。
その名も〝 イケメン英国風紳士(身体は七福神・恵比寿)〟
鯛の代わりにポテチを持っているけれど男を表現する言葉はそれしか思いつかない。
そして「七福神」を例に挙げた以上、男は間違いなく〝神さま〟に違いなかった。
【—————だって、若槻鱗は死んだのだから】
「あ、あなたは誰ですか?私、どうしてこんなところに…」
鱗が尋ねようとすると、男はポテチの袋から油まみれの手を抜き出し、丁寧に袋を折りたたみ始める。半分の半分。二回折りした袋を結び合わせて小さくまとめたものを懐に納めると、
「私は〝真実の神〟だ」「…え。あ、はい」
まるで手品を見るみたいに男の手元を凝視していたせいで反応が僅かに遅れた。
「神が私に何の用です?」
「鱗よ。私は真実の神だ。「神」の名称を持つのは唯一人のみ」
神は神だろう、と言い返そうとして止めた。人間を名前ではなく「人間」と総じて呼ぶようなものだと考えれば少しだけ納得できる。
「 じゃあ「神」って何ですか? 」
「単に言えば、この世全てを想像し創造せしめる存在だ」
想像を形にする、みたいな神様なのだろうか。
「それって…どんな存在なんです? 姿とか性別とか」
「すまない。会った記憶も話した記憶もあるが「神」に関する情報は全て消えてしまうのだ」
「あぁ・・・何となく分かります」
鱗にも似たような覚えはある。
昨年、成人式で昔のクラスメイトにあった時のことだ。
「こういう事したよね」「あの時はこうだったよね」と言葉をかけてくる彼女達。
「あったね!」「懐かしい…」と、それらしい言葉を返す一方で鱗の記憶には当時の彼女らの顔すら浮かばない。むしろ「そんなことあったっけ?」と尋ねたくなるのを堪えていたくらいだ。
「——鱗よ。」玉座の柘榴石が静かに若槻鱗を見つめる。
「何のために貴様を呼んだのか、であったな?」
交差した逞しい腕を腹に乗せながら男は尋ねる。
どうやら腹部が大きすぎるせいで上手く腕が組めないらしい。
「真実を述べよう。若槻鱗よ。もう一度だけ、私は貴様に生きてほしいのだ」