1.「処女、厠にて死す」
不器用な女がいた。
無垢な愚かさによって大切なものと自分を失い、誰がための〈自分〉を装い、それが崩れぬように汎用的な『自分』を創り上げた女。
【自分】という歌舞伎を演じ続けた女だ———。
□
「この歳で孤独死…か」
真夏の猛暑日。例年の如く最高気温を更新したという日に彼女——若槻 鱗は生命の危機に瀕していた。
遡ること数時間前。
場所は大学から駅4つを電車で乗り継ぎ、それから15分ほど歩いた所に建てられた古いアパートの一室。今日は近隣で水道管工事を行っているため一時的に水道が止まっており現在も工事は進行中。そして、つい先ほど「おい、何やってんだ新人!」と親方らしき人物の怒号と共にバチュ~ンという破裂音が反響していたため復旧には今少し時間が掛かると推測された。
…これだけならばギリギリ許容範囲。
不幸を通り越して逆に幸運なんじゃないか、と開き直ることもできる。
しかし、だ。
自宅のエアコンまで壊れてしまうのだから一つぐらい文句を垂れてもバチは当たらないだろう。
元々旧型だったためか本日未明に急遽寿命を迎えた若槻宅のエアコン。
幸い賃貸物件のため費用は管理人持ちなのだが当の本人とは未だに音信不通。
そういえば、今朝方「今日は当たる気がする!」と意気揚々と出て行ったのだったか。今ごろは競馬・競艇・パチンコ‥いずれかギャンブルの類で金を溶かしている頃だろう。
近くに喫茶店でもあれば非難できたかもしれないが周辺は住宅地ばかり。気軽にコンビニやスーパーへ寄ろうにも長い坂を下り上りしなければならないのが現状だ。
だから基本は大学かバイト帰りに買い物を済ませ、休日は引きこもる。
スマホ一つあれば漫画も映画も見れて時間は潰せるし、大学生らしく課題に勤しむこともある。
…そもそもの話。こんな馬鹿みたいに暑い日に外に出るなど自殺行為なのだ。
窓を開けてみたところで室温は大して変わらない。
昼半ばに達して強まる陽射し。上昇する室温。
あまりの熱さに耐えかねた鱗は昨日スーパーの特売で購入したバニラアイスに手を出した。
甘い誘惑に負けたのである。
ところが、それから数十分経つと鱗の腹は赤子のように泣き出して主人を厠へと向かわせるに至る。「布団も掛けずに眠ってしまったせいか…」と小さな反省をしつつ、大きめのお花を折りかけたところで鱗の脳裏に一抹の不安がよぎる。
「あ・・・断水、してたんだっけ…?」
お花摘みの解放感から、ついうっかりと大事なことを忘れていた鱗は恐る恐るレバーに手をかける。
齢21歳。華ある大学生の乙女が花を手折るだけで終わってはショックが大き過ぎる。
どうか、どうか‥と祈る思いで鱗はレバーを引くと、確かな手応えと共に花は無事に摘み取られたのであった。
「危なかった…」
乙女としての危機を乗り越え、目じりに薄い涙を浮かべながら一時安堵する鱗。
しかし、不幸とは度重なるもの。
〝泣きっ面に蜂〟〝二度あることは三度ある〟と謳うように更なる不幸が鱗の身に降りかかる。
「あれ?」
鱗が厠のドアノブに手をかけた瞬間、妙な違和感に鱗は首をひねる。
トイレタンクのノブを連続で上げたような軽さ。虚しく感じる手応えのなさ…。
「…嘘でしょ?」
扉に語りかけると同時に扉の反対側でカランと何かが落ちる。
世界の滅亡にしては、実に安っぽい音だった。
〇
トイレには二種類ある。タンクに手洗いが有るものと無いものだ。
残念なことに若槻宅の厠は後者に当たる。そして先ほど大花弁を摘んだことでタンクは完全に底をついていた。
「…頭…溶ける…」
閉じ込められて以降、どれほど時間が経ったのかは分からない。
工事音のせいで助けを呼んでも誰も来る気配はなし。
体当たりで何度も扉の破壊を試みたが例年例日インドアヴァンパイアである鱗が扉をぶち破れるはずもなく‥無駄に体力を消耗しただけで終わった。
「ゔ‥‥うゔぅ…」
激しい頭痛、吐き気、倦怠感、虚脱感…総じて鬱陶しい感覚。
乾きと暑さの二重責めによって貧弱な身体は音を上げ始め、すでに悲鳴すら上げられなくなっていた。
「私‥‥何かしちゃぃましたか…?」
壁に預けた体は枝葉の雨粒みたいにずり落ちて厠の床へと横たわる。
水の断たれた灼熱の閉鎖空間。日常に隠れた地獄の中、体力は確実に削られていく。
目に見えない体力ゲージが減っていく感覚があっても、それがどこまで保つのか分からない。
「はっ…は…」
最後の抵抗。人間という動物のあがき。
死ぬのが怖くなった鱗の身体は必死に空気を取り込む。
「ひゅ…はぁっ、は、」
笑うように呼吸するとは、なんとも微笑ましく生気にあふれたフレーズだ。
時に人の必死や懸命は結果的に笑いに通じることもある。
「無様」と自身の悪あがきを嘲る感情はどこかにあった。
「は、はっ…は、はは」
そして、いつしか本当に嗤い出していた。
汚いトイレの床に泣きつくように身を縮める。
死の間際だというのに早々都合よく走馬灯なんて現れてはくれない。
習性として自分を顧みていたせいだろうか。
常に浮かぶのは、大切なものと其れを壊した自分。
それから「大切なもの」を「大切だったもの」にしないよう抗う自分で。
最後に、その反発として【若槻鱗】になってしまった自分。
独りであることの寂しさと一人でないことの鬱陶しさを両立できなかった半端者だけだ。
・・いよいよ鱗の意識は酩酊し始める。
初めてウィスキーを飲んだ時みたいに視界は揺れる。
考えることも出来なくなって呼吸しているのかも分からなくなる。
ピー‥と聴覚検査をするときに聞くような音がしきりになり、ブツ…と一音だけノイズを発する。
若槻鱗の命は完全にこと切れた。
地続きで響く工事の音が徒に鼓膜と脳を揺さぶるだけである。