春の桜【4】
風が気持ちいいので、梛は外で鍛錬をしていた。紺の袴に真剣を差し、低い姿勢で身構える。
「はっ!」
息を吐き出しながら刀を鞘走らせる。居合で切り落とされた縦に置かれた丸太は、彼女が納刀してから斬られた部分が落ちた。いや、映画とかではなく、本当にあるのだ。こういうことが。お前の剣筋が鋭すぎるせいだと言われたことがある。
「精が出るね」
声をかけてきたのは入側縁からこちらを見ている透一郎だった。弟の晴季と手をつないでいる。
「姉さん、かっこいい!」
「ありがとう」
苦笑を浮かべ、目をキラキラさせた晴季に言った。顔の一致率が九割、と言われる梛と透一郎とは、あまり似ていない。この二人は父親似なのだが、晴季は母親似なのだ。亡くなった二番目の兄もそうだった。
「どうかしたの?」
兄が稽古を見てくれることはよくあるが、晴季を一緒に連れてくることはめったにない。どうしたのだろう、と思っていると、兄は持ち手の付いたおぼんを持ち上げた。
「佐崎さんからどら焼きをいただいたんだ。というわけで、かっこいいお姉さん、ちょっと休憩にしない?」
「そうだね」
どこかおちゃめな言い方に、梛は笑ってうなずいた。ちなみに、佐崎さんとは水無瀬家の通いの家政婦さんである。気の良い中年の女性だが、口が堅い。
軽く汗をぬぐい、手を洗ってから縁側に腰かける。透一郎は義手で器用にお茶を入れてくれた。梛もやっと兄のこの機械の腕を見慣れてきた。
晴季が大きな口を開けてどら焼きをほおばっている姿に癒されつつ、梛もどら焼きをほおばる。餡の味が優しい。
「梛ももう高校三年生だね。進路は決めた?」
突然一般家庭の一般的な保護者のようなことを言われ、梛は目をしばたたかせた。
「まあ、一応は。物理か生命科学かなぁって」
「うーん、君も理系か」
「理系かはわからないけどね」
どちらも興味があるのだ。術をくみ上げるのに使えそう。そういえば、透一郎の義手は祐真が整備しているが、彼が人体工学を学んだのも、戦いなどで体が不自由になった人を見てきたからだと言っていた。
祐真ははぐらかしていたけど、たぶん、透一郎が右腕を失ったのを見たからだと思う。本来の志望は知らないけれど。
「どうかした、梛」
「……うん。彰次兄さんの年に、追い付いたんだなって」
次兄の彰次が亡くなったとき、彼は十八歳だった。つまり、もうあの事件から五年が経とうとしているのだ。
十三歳の梛は、本当に使えなかった。自分でも、今と十三歳のころでは、ゼロと十ほどの実力差がある。弱かったわけではないが、それは周囲と比べると、だ。兄たちは、あんなに強かったのに……。過去形であることが切ない。
むに、と頬をつつかれた。透一郎の生身の左手の人差し指が、梛の頬をつついている。
「難しい顔になってるよ」
「考え事をしていたからね。クールで素敵、って結構評判なんだけど」
「梛、女の子にもてるタイプだね」
否定はできない。お茶を飲んでいた晴季が、自分だけ置き去りにされているのが寂しいのか、「兄さんも姉さんもかっこいいです!」と大きな声で言った。兄と姉は微笑んで末っ子の頭をなでる。
「梛お嬢さん」
呼びかけられて、梛は「うん?」と顔を向けた。言動が『お嬢さん』という感じではないが、家政婦の佐崎は彼女をこう呼ぶ。
「祐真さんがいらっしゃってますよ」
「お邪魔している」
縁側を歩いて祐真がやってきた。晴季が「祐真さんだ」と嬉しそうにはしゃぐ。家に元気な大人の男がいないので、幼い彼は力の限り遊んでくれる祐真が大好きなのだ。
「いらっしゃい、祐真。研究所はどう?」
「……まあ、何とか」
好きなことじゃなかったらやっていけてません、とわかるような表情で祐真は言った。透一郎と梛が笑う。
「稽古中だったか」
「まあね。今は休憩中。時間あるなら、一本付き合ってよ」
「かまわん」
祐真も休憩に途中参加である。隣に座った祐真の横顔を見上げ、梛は尋ねた。
「というか、何か用だった? 兄さんの義手の調整はまだ先だよね」
この前したばかりだから、これは違うと思う。湯呑を持ったまま、祐真はゆっくりと首を傾げた。
「婚約者に会いに来るのに理由がいるのか」
梛も透一郎もちょっと驚いた表情になった。祐真の位置からは二人の顔が目に入るので。
「……二人とも同じ顔をしているぞ」
「いや、今言うことじゃないよね、それ」
確かに同じ顔をしているとはよく言われるけれども。祐真には真顔になるとよく似ている、と言われているし。
「まあ、私も会いに来てくれてうれしいよ。稽古の相手もできたしね」
にこりと笑って言うと、祐真は目をしばたたかせて、「そうか」とうなずいた。透一郎はほほえましそうに眺めている。
「そういえば、母も梛の顔を見たいと言っていた」
「じゃあ、今度お邪魔しようかな」
「ああ」
そもそも家族ぐるみの付き合いがあったので、梛も祐真の母とは顔見知りだ。かわいがってもらっている自覚もあるが、そういえばしばらく会っていない気がした。心配をかけている自覚もある。
とりあえず、訪問予定を告げてから行こうとは思った。
さすがに真剣は危ないので、立ち合いは木刀である。竹刀でもいいのだが、二人とも実際の刀に近いほうを選んだ。
先に仕掛けたのは梛だ。真正面から切りかかるのを、祐真は受け止め、向かって左に流した。そのまま一歩引いて切り上げられるのを、梛は後ろに飛びのいてよけた。飛び退った勢いで右手を引き、突き出す。鋭い突きはやはりいなされるが、梛も負けじと身をひねり、回転しながら一撃を放つ。これも受け止められたけど。
がん、がん、とおおよそ木刀がぶつかり合っているにしては重い音が響く。力がある分、祐真の一撃は重い。梛がそのまま受け止めれば、腕を痛める。なので、受け流すしかないのだが、祐真も守りの剣は得意だ。ゆえに、二人の戦いは長引く傾向がある。
結局、梛が祐真に木刀を突きつけられたところで透一郎の判定が下りた。祐真の勝ち。そりゃそうだ。梛は、はー、と息を吐いた。
「どうしても祐真さんには勝てない」
「命の取り合いだったら、俺の攻撃がかすることもなく殺されている気がするが……」
「うん。これは稽古だからね」
祐真の言うことはおおむね正しいが、残念ながら、これは稽古だ。試合だ。殺したら相対的に負ける。
「お前の速さについてこられるものはそうそういないと思うが……」
「ついてこられる祐真さんに言われてもね。というか、私は祐真さんのノーモーション攻撃が怖い」
「無拍子のことか? お前もできていると思うが……」
「筋力がないから、祐真さんほどの威力はないんだよね……私は大概のものは斬れるけど、それには『ふり』がいるからね」
俗な言葉で言うところの『溜め』が必要なのだ。一瞬ではあるのだが、そのすきに祐真のような手練れは攻撃してくる。というか、祐真が相手だった、その時点で詰んでいる。
「自分がふがいない……」
「十分強いぞ、梛は」
「うん。ありがとう」
慰めるというより、事実を生真面目に告げたという印象の祐真に苦笑し、梛はうなずく。わかっている。梛は、今の『陽炎』で五指に入るほどの実力を持つ。それでも、往時の透一郎には及ばない。いや、兄に追いつけるとは思っていないのだが、その強さを失わせてしまったことが歯がゆいのだ。
「姉さんも祐真さんもすごい!」
興奮したように晴季が叫んだ。小さな弟は、透一郎に「僕もやりたい!」と訴えている。そうなったら、教えるのは梛になるのだろうな……。
「……俺でよければ、稽古だって付き合うし、遊園地だって一緒に行ってやる。だから、そんな顔をするな」
頬をぬぐうようにされて、梛は自分が顔をしかめていることに気が付いた。驚いて祐真を見上げる。
いつも不思議だ。このおっとりしたおのれの婚約者は、欲しい時に、彼女が望む言葉をくれる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
父親似の長兄・透一郎と長女・梛。
母親似の次兄・彰次と末っ子・晴季。