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春の桜【1】











 屋敷が崩れ落ちるのを見た。梛は弟の晴季を抱えたまま息をのむ。斬られた背中が痛んだ。



『梛、晴季を護るのですよ』


『ここは任せて、先に行け!』


『大丈夫、お前なら護れるよ』



 そう言った人たちは、まだ屋敷の中から出てきていない。崩れ落ちた中のどこかにいる。おいてきてしまった。

 それらの言葉がすべて、梛を逃がすためのものだとわかっている。自分はこんなにも無力だ。戦えないわけではない。むしろ、この年齢の少女にしてはかなり強いほうだ。だが、足手まといになるのが分かっていた。

 もっと、父や母や兄たちと並んで戦えるほど強ければ。戦えていれば。何かが違ったのだろうか。無力感、喪失感、絶望。その強烈な後悔が、彼女を強くした。後悔するくらいなら戦う。それで後悔することになったとしても、何もせずに打ちのめされるのは嫌だった。












――*+〇+*――











 梛は、夜中にぽっかりと目を覚ました。まだ夜は肌寒い季節だというのに、寝汗が気持ち悪い。起き上がってひとまず着替えた。

 あの時、梛を送り出した人間は三人いた。母の桐花きりか、長兄の透一郎とういちろう、次兄の彰次あきつぐ。父には会えなかった。正確には、会ったが遭遇したのは父のご遺体だった。

 別荘に遊びに行ったとき、襲撃を受けた。四年前のことだ。梛は末っ子の晴季を抱え、別荘を逃げ出した。次々と襲ってくる襲撃者たちは、両親や兄たちが迎え撃って。梛はただ逃げた。


 あの時、梛がもっと強ければ、戦えていれば。兄たちは強かった。それでも、生きて戻ってきたのは長兄の透一郎だけで、彼にしても身体機能の一部を失ってしまっている。役立たずの自分が死んでいれば、と何度思っただろう。それでも、梛は生きている。


 台所で水を飲んだ梛は、自室に戻らず、兄の部屋に向かった。ドアの外から声をかけると、「梛? 入っていいよ」と穏やかな男性の声から反応があった。

 ドアを開けると、透一郎は起きていた。弟の晴季はるすえを寝かしつけていたらしい。晴季はまだ七歳だ。


「どうしたの? 眠れない?」

「……夢を見て、目が覚めた」


 兄と弟の顔を見て、梛は少し落ち着いた。中に入り、ベッドのそばの椅子に腰かけている透一郎のそばまで行く。

「よく寝てる」

「うん。ちょっとぐずってたけど」

「私が運ぼうか?」

 透一郎は右目をわずかに細めた。

「いや、いいよ。一緒に寝るからね」

 これには、えー、と梛。

「じゃあ私も」

「さすがにそれは風紀的に問題でしょ。許されるのはせいぜい中学生までだ」

「むう」

 わかりやすくすねた妹の手を取り、透一郎は梛をしゃがませる。手の届く位置に来てから、その頭を撫でた。


「大丈夫。怖くないよ」


 柔らかな口調で言う透一郎を、梛は見上げた。左目は黒い眼帯に覆われており、右腕は義手。どちらも四年前に失っているのだ。足も悪くしており、普段は杖を突いて歩いている。

 頭をなでる左手は温かい。生きていてくれてうれしい。だが、失ったものの多さを思うと、平常ではいられない。それは、透一郎も梛も同じだ。

 兄は体が不自由、弟はまだ幼い。元気なのは梛だけ。会社のことなどでは役に立てないが、元気で体の動く自分がしっかりしなければ、と責任感を覚えるのは無理からぬ話だ。

「兄さん」

「うん」

「ギュっしていい?」

「いいよ」

 子供っぽい聞き方。しっかりしなければ、と思っても、兄の前では甘えてしまう。透一郎に抱き着き、一度ぎゅっと力を込めてから、離れた。

「うん、ありがとう。寝るよ。お休み」

「お休み、梛」

 一度見送りかけた透一郎だが、部屋を出る前に梛を呼び止めた。

「今度、晴季も連れて水族館に行こう」

「ああ……いいね」

 穏やかに微笑んでうなずいた妹を見て、透一郎はわずかに顔をゆがめたが、梛は気づかなかった。














 梛は兄と弟とともに水族館に来ていた。七歳の晴季は、こうしたお出かけが珍しいこともあってはしゃいでいる。


「兄さん、姉さん! サメ! サメがいるよ!」

「待ちなさい、晴季! ああ~」


 学校では見せないうろたえた様子の梛を、杖を突いた透一郎がほほえましそうに眺めている。

「梛、私はいいからハルを追って」

「う~。わかった」

 どうしても、足が不自由な透一郎は歩みがゆっくりになる。対して小学校低学年の晴季は元気盛りだ。体力が有り余っている梛すら振り回すってどういうこと。晴季を追いかけると、彼はサメの水槽の前でサメを見ていた。姉が近づいてきたのを見上げて言う。

「姉さん、サメだよ!」

「そうだねぇ」

 たまたま真正面から見ることになったサメに、梛の脳裏に某有名なサメの映画がよぎる。いや、実は見たことがないんだけど。


「姉さん、サメに勝てる?」

「えっ」


 なぜそんなことを聞くんだ、と問い返すのは七歳には酷だろうか。たぶん、晴季は梛が武術を学んでいるからそんなことを聞いたのだと思うけど。

「うん……どうかなぁ。きっと、透一郎兄さんなら勝てるよ」

「ほんと!?」

「こら」

 とん、としゃがんで晴季と視線を合わせていた梛の頭の上に、杖が乗った。乗っただけで、痛くはなかった。

「変なことを吹き込むんじゃない」

 追い付いてきた透一郎だ。ごめん、と謝りながらも、梛は兄にできないとは思っていない。

「二時半からイルカショーをするらしいよ。見に行かない?」

「行く」

 たどり着くまでに情報収集をしてきたらしい透一郎に言われ、梛も晴季と一緒にうなずいた。

 透一郎が一緒なので、どうしてもゆっくりになるのだが。

「ほら、ペンギンがお散歩してるよ」

「ほんとだ。かわいいねぇ」

 何とか透一郎と梛で晴季の気を引きながらゆっくりとイルカショーの会場へ向かった。そうしなければ、晴季がまた駆け出してしまう。


 イルカショーを大いに楽しみ、体験コーナーに移った。透一郎は義手であることもあり、見ているだけだったが、梛は晴季とともに水槽を覗き込んでいた。

「姉さん、ヒトデだよ」

「ほんとだねぇ。裏に口があるんだよ」

 おもむろにひっくり返して晴季が「気持ち悪い!」と裏面を見て言った。ヒトデが水槽に帰される。

「ああ、ほら。サメもいるよ」

「小さい……」

 大きいほうがよかったらしい。それでもサメを撫でているけど。さっきもイルカに乗りたいと言っていたし、大きい生き物のほうが好きなのかもしれない。

 だいぶはしゃぎまわったからか、帰るころには晴季は眠そうに目をこすっていた。


「抱っこー」


 両手を伸ばされ、梛が晴季を抱き上げる。昔はもっと軽かったのに、思ったよりずしりと来て梛は弟の成長をしみじみと思う。

「大丈夫? 私がやると言いたいところだけど」

「言われても代わらないからね」

 きっぱりと言い切った梛に、透一郎は肩をすくめた。たぶん、今でも単純な筋力は透一郎のほうがある。しかし、彼は足が悪い。晴季を間違って落としてしまったときが怖い。

「大丈夫だって。私、普通の女性より筋力あるし」

「そういう問題でもないけど」

 いつの間にかすよすよと眠っている晴季を抱きかかえなおす。それを目を細めて眺めていた透一郎が言った。

「次は、動物園にでも行こうか」

「ハルは遊園地に行きたいと言っていたね。兄さんには言っちゃダメ、とも言ってたけど」

「……そうか」

 なんとなくしょんぼりした様子で透一郎が肩を落とした。彼は、自分のせいで梛や晴季があまり外出できないことを気に病んでいる。梛が連れて行ってもいいのだが、やはり女で未成年であることがネックになる。

「どうしてもって言われたら、私と祐真さんで連れて行くし、気にすることないよ」

「それはそれで怖いね……」

「どういう意味」

 と言いつつも、梛は自分が兄にとても心配をかけていることはわかっている。結局兄も、自分の目が届かないところに、妹が行くのが怖いのだろう。その気持ちはよくわかる。


 もちろん、透一郎の心配はそれだけではないのだが。












ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


前回までが導入部分で、今回から本編という感じですね。

梛の兄妹はかなり年が離れています。亡くなった次兄を含め、透一郎から梛までは年の差が9歳くらいでそんなもんですが。全員同じ両親から生まれています。


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