この世界の裏側で・8月【7】
「っあああっ! 油断した!」
しかも刀落とした! 梛は頭を抱える。彼女はその場に一人だった。すぐ隣を歩いていた祐真もいないし、前に見えていた透一郎やシェナもいない。
「やっぱり手をつないでおくべきだったか?」
男装でも兄と手をつないでおくべきだっただろうか。最悪、透一郎が明鏡止水に引っ張り込んでくれるような気がするが、梛の方でもどうにかしてみるべきだろう。
ここで千里眼・水鏡を使用してもいいものかわからない。透一郎にも言われているが、使用することで相手の探知網に引っかかる可能性だってある。
幸いというか、梛の『斬る』力は刀に依存しない。無手の状態でも、ある程度の効力が見込める。ただ、梛の意識が刀に依存しているので、刀を持っているときと同じほどの効力が見込めるかわからない。
迷子になったときは動かないのが鉄則だが、ここは動くべきだろう。歩きながら、この状況に追い込まれたときのことを思い出す。
普通に歩いていた、と思う。廊下の右手には鏡、左側には絵画がかかっていた。半分ずれていたが、鏡に絵画が映るようになっており、変な配置だな、とは思っていた。
たぶん、あれは魔術的に意味があったのだ。依織曰く、このホテルは魔術的に閉じられている。結界が張られているとかそういう問題ではなく、ホテル自体が閉じられているのだと思う。梛の『千里眼・水鏡』の効きがよくないのも、結界が張られているからというわけではあるまい。
「もともと、華族の別荘なんだっけ。所有してたの誰よ……」
ぶつぶつつぶやきながら歩く。巻き込まれたのが梛で幸いだと思っておこう。
「……でも、どこを切ればいいんだろう……」
梛の能力はおおよそのものを斬れるし、それは物に限定しない。だが、位相を移動するには空間のゆがみを切るが、起点を切るしかない。先ほどの鏡と絵画が起点だと思うのだが……。
助けに来てくれるでしょ、とは言ったが、全然助けを待つ気のない梛である。祐真の言った通り、自分で出る方が早い気がする。しかし、やはり刀を落としたのが痛い。
しばらく歩き回り、この空間には端がないことが分かった。先ほどのホテルの廊下と同じように見えるが、なんとなく薄暗く、よどんだ空気の場所だ。そして、廊下の端だったと思われる場所でも突き当らない。
「ぐるぐる回ってる感覚はないんだけどなぁ」
つぶやいてみる。本当はわかっている。『千里眼・水鏡』を使わなくても、梛は感覚が鋭い方だ。一つの扉の向こう。そこに、『いる』。
「……何がいるかが問題なんだけど」
何しろ、梛は今無手だ。透一郎のように念動力が強いわけでもないので、本当に素手なのだ。いや、能力的には問題ないはずなのだが。
よし。何があってもただではやられない。死なば諸共だ。絶対に道連れにしてやる。そう気合を入れて旧い造りのドアを開いた。
闇だった。目のいい自信のある梛も、何も見えない。ここで『千里眼。水鏡』を開くのはまずい気がする。これは強力だが、普通に魔眼返しや蛇視除けなどには効く。これは所有者である梛の問題である気がするが、避けた方が無難だ。
一歩中に入る、背後でバタンとドアが閉まった。それを無感動に眺め、梛はゆっくりと歩を進める。強力な力はないが、神式の術なら使える。さすがに室内で雷を落とすのはまずいか。
ゆらり、と闇が動いた。梛は身構える。目を凝らすと、その闇は人の形に見えた。いや、こんな暗闇の中で『視える』はずがない。
「――――ぃ」
何か聞こえた気がした。梛は祐真ではないので、聞き取れない。いや、祐真も耳がいいわけではないが……。
「殺してしまえばよかったのに」
「!」
暗闇の中、浮かび上がったように見えたのは梛自身の姿だった。一瞬目を見開いた梛はすぐに落ち着きを取り戻して目を細めた。
「静止なんて聞かずに殺してしまえばよかったのだわ。そのつもりだったのだから」
「……」
梛は相手の出方を見るように闇をうかがう。
「今だってそう。いつまでもくすぶっていないでいっそのこと」
「だからなに? 私は私に恥じる生き方をしたくはない。たとえそれが、私の才能を殺すことになっていたのだとしても、私は過去を悔やみたくはない。過去を変えることはできない。けれど、過去を踏まえて未来を変えることはできる。私はそうやって生きていきたい。生きていく」
どろりと、闇が溶けた。梛が横ざまに手刀を振るうと、急に場面が転換したような感覚に陥り、たたらを踏んだ。周囲を見渡すと、元の空間に戻っているのが分かった。本当に自力で脱出してしまった。
『あら、梛』
声をかけられて驚いた。シェナとルイーザだ。梛は何度か瞬きしてから口を開く。
『ここ、どこですか?』
異空間に迷い込んでしまった場所とも違うし、本気でここが何処かわからなかった。彼女たちがいると言うことは、ホテル内には違いないのだろうが。
ルイーザと顔を見合わせたシェナは梛に向き直って言った。
『大ホールの前よ。今、午前中のオークションが終わったところ。透一郎が探していたわ。行きましょう』
ルイーザに手を引かれて梛は廊下を歩く。シェナは携帯端末で連絡を取っていて、どうも透一郎に連絡してくれているらしかった。
「梛!」
部屋の前で透一郎と落ち合った。レオンが半眼で梛を眺めた。
『とりあえず、本物?』
え、そこから疑われてるの、と思ったが、シェナの指摘は正しい。入れ替わっている可能性が、ないわけではない。少なくとも、あの異空間の『闇』はそのつもりだったと思う。
「梛、香江が泣いていたらどうする?」
「兄さんを殴る」
「……これは駄目か。もし、過去を変えられると言われたらどうする?」
「怪しむし、過去は自分が下した判断の積み重ねだ。たとえその結果がよくないものだったとしても、私は過去を悔やみたくないし否定したくない。その積み重ねが、今の自分なんだから」
なんかこの問答、さっきもしたなあと思いながら答える。透一郎が『本人です』とシェナに答えている。どこで判断したのだ……。
「よかった……!」
透一郎が梛を抱きしめて、これはたぶん泣いている。梛も透一郎を抱き返した。耳元でかすかに嗚咽が聞こえた。透一郎の頭を撫でてやる。
『あとは祐真か』
「え、祐真さんもいないの?」
レオンのつぶやきを聞いて梛はびっくりした。
「お前と一緒に消えたんだよ」
涙声だったが、顔を上げた透一郎が言った。梛も透一郎の背から手を放し、「へえ」と言う。
「そうなんだ……とりあえず兄さん、顔拭きなよ」
イケメンが台無しである。梛はハンカチを取り出して透一郎の顔をぬぐった。結構乱暴だが、されるがままである。
『透一郎、動揺がすごいわね』
『よかったねぇ』
シェナとルイーザが笑って言った。レオンは『祐真はどうするの』とあきれ気味だ。
『ああ、それは大丈夫だと思う』
梛はさらっと答えた。透一郎も梛の肩に手を置いたままレオンにうなずいた。
『問題ないと思う。梛が戻ってきたからね』
梛はもう、この別空間に取り込まれる原理を理解しているので、『斬る』ことができる。祐真を見つけられる。
「あ、いた」
さて、探しに行こうと思ったところで声がかかった。
「え、祐真さん!」
驚いた顔をする梛たちに、声をかけてきた祐真はきょとんとなって首を傾げた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
このホテルのダークサイドな面に入り込んだみたいな感じです。
スター・ウォーズでちょいちょい出てくる、暗黒面に近い洞窟みたいな…。梛はきっと暗黒面に落ちませんね。危ない時もありましたが、乗り越えてますし。




