出茂野ゲートウェイ駅
出茂野ゲートウェイ駅。
五年前、出茂野市の再開発の中心として、高架事業を伴って駅ビルが建て直された。地上十階、地下三階の建物で、六角形をした斬新なデザインは、地元出身の建築デザイナー、来井戸の手による。六角形のビルは直径三百六十五メートルの円の中にスッポリと収まる大きさで、これはプラットフォームの長さを十二両編成の特急列車が停車できるようにと考慮された大きさでもあった。
1階と3階部分には駅舎、土産物屋、ファストフード店などが立ち並び、2階部分が駅のホームと保安設備、4階から上は図書館やギャラリーホール、オフィスとホテルが入居する駅ビルだ。地下は1階が総菜売り場や日用品売り場で2階と3階は駐車場になっている。更に3階の西側からは渡り廊下で隣の百貨店に繋がっていた。
駅ビルのそれぞれの入り口に合わせて大通りが放射状に伸びる街区整備は批判もあったが、今では出茂野市の特色として住民も慣れ親しんでいる。出茂野市長はコンパクトシティ構想を前面に打ち出して、住民を外環状線の内側に居住させ、環状線の外側は田園風景として自然と人工物を分割するような行政を行い、出茂野市は稲穂の海に浮かぶ島のような街となっていた。
出茂野ゲートウェイ駅のビルは開業当初、その目新しさと、新しい街の象徴として賑わいを見せたが、現在は相次ぐ不可解な事故と事件で、別の賑わいを見せている。
「ウンザリするわね」
出茂野ゲートウェイ駅に勤める真野美春は、黒のワイドパンツに、白のブラウスという色気もない服装で来たことを少し後悔した。しかも肩から黒のトートバッグを提げ、髪型もポニーテールでは夏休み中の学生と間違えられても仕方ない。それでも通用口の前に並ぶカメラの砲列を横切らなければならない状況に、彼女はゲンナリしていた。ただでさえも茹だるような暑さが続く時期に、感染症対策としてマスクまでしている状況では気が滅入る。
出茂野市ではここのところ、鉄道事故が立て続けに起きていた。更に街中で発見された変死体の取材に、全国ネットのテレビ局が取材班を差し向けて来ているのだ。
鉄道事故と言っても、信号の誤作動による遅延事象で、人身事故ではない。むしろマスコミの関心は変死体の方だろう。遺体の身元が出茂野ゲートウェイ駅の電気関係を扱う技術職員であったことが憶測を呼んでいるのだ。
「お話を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか?」
女性レポーターがマイクを持って近づいて来た。長身の美春は目立つ存在で、駅長からの指示通り、無言のまま駅員の通用口に逃げ込む。
「いつまで、こんなことが続くんだろ?」
更衣室に向かいながら、溜息をつく。その彼女の視界の隅を黒い影が過った。例の黒い虫かと恐る恐る視線を動かすが、何もいない。左右の壁にも天井にも、虫らしい生き物も、見間違えるような物体さえもなかった。
「気のせいね」
更衣室に向かう彼女の背中には、正体不明の黒い渦が付き纏っていた。
「おはようございます」
更衣室では小柄な女性が先に着替えていた。丹羽多鶴美、美春の三つ下の後輩で噂話が好きな女性だ。ボブショートの彼女はその背の低さも手伝って、ちょくちょく補導されそうになるが、背の高い美春からして見ればそれは羨ましくさえあった。彼女は襟首から胸元へかけてと裾に花が描かれた白のワンピースをロッカーの中へ片付けているところだった。
「おはよう、多鶴美。どうしたの、顔色が悪いようだけど?」
「先輩、後ろ……」
「え?」
多鶴美の印象的な大きな瞳には恐怖の色が浮かんでいる。美春が振り返るとそこには、何もいなかった。
「何もないわよ?」
多鶴美の方へ視線を戻すと、彼女の表情は引きつっている。
「わ、私の見間違いです。何でもありません」
慌てたように否定する後輩に不可解な様子を感じたものの、着替えて身支度を整えないと朝礼に遅刻してしまう。
「そう言えば先輩、あの話は聞きましたか?」
「何の話?」
多鶴美の問い掛けにピンと来なかった美春は尋ね返した。
「電気の内木さんの話ですよぅ」
電気の内木とは、変死体で見つかったという電気関係の技術職員だ。
「ビルの屋上で見つかったらしいんですけど、まるで飛び降り自殺したような状態だったらしいですよ」
「飛び降り自殺?」
高いビルから低いビルへ向かえば、そのような状態にもなるだろうが、問題はどのビルの屋上なのかだ。
「その見つかったビルが、北町のオフィスセンタービルらしいんですよ」
オフィスセンタービルはこの出茂野市で最も高い、三十階建てのビルだ。サテライトオフィスの需要を見込んで建設され、入居率は九割を超える優良物件で、警備体制も万全のビルだから部外者が侵入するのは不可能に近い。
「空から降って来たというの?」
美春の疑問に多鶴美は苦笑した。
「先輩のそういう発想、好きですよ」
「揶揄わないでよ」
後輩に笑われ美春は赤面する。着替え終えた美春は椅子に腰掛け、その黒髪を多鶴美が櫛で梳く。駅員の女性は長髪が邪魔にならないように結い纏めておく必要があった。そうでなければ多鶴美のようにショートカットにしてしまう。
「けど、ここのところ、自殺とか多いですよね」
多鶴美の言う通り、出茂野市では少し前から自殺や変死体が増えている印象があった。
「私は日勤で帰りますけど先輩は?」
「私は今夜、泊まりね」
列車の運行は二十四時間体制の駅員によって支えられている。
「夜中に幽霊が歩いているとか、怖いですよね」
「多鶴美、私がその手の話が苦手なの知ってるでしょ?」
「夜に帰宅したら、部屋の扉の前に少女が座り込み……」
「ちょっと、やめなさい」
美春は状況を想像するのでさえ嫌がる。
「その少女は、吸血鬼だったのです」
多鶴美は髪を纏めて露わになった美春の首筋に噛み付く素振りを見せた。美春が身体を硬直させると、プッと吹き出す。
「なんちゃって。急がないと、朝礼に遅刻ですよ。お先に行ってます」
多鶴美は逃げるように更衣室から出て行った。完全に揶揄われてしまい、モヤモヤした思いを抱えたまま、美春は朝礼に参加し、日常業務に向かう。駅員の業務は正確なダイヤで列車を運行させることと、利用客の安全確保だ。
出茂野ゲートウェイ駅の構造は広めのプラットフォームの両側に線路がある1面2線のいわゆる島ホームだ。プラットフォーム上には売店やベンチなどの施設はなく、利用客を極力プラットフォーム上に滞在させない構造になっていた。売店や待合室は1階と3階の改札内側と外側に設けられ、階層の移動はエレベーター二基とエスカレーター三基を案内している。
「おはよう、真野さん」
プラットフォーム上で通勤客の安全を見守っていた美春に柔らかい女性の声が掛けられた。
「おはようございます、後茂利さん」
美春に声を掛けたのは妙齢の美女で、駅ビルのギャラリーを管理している後茂利という。彼女は中東系の顔立ちで、長い亜麻色の髪と左目尻の泣き黒子が印象的な女性だ。細身の身体を包むのは黒いスーツで、大胆に膝上までスリットが入ったミモレ丈のペンシルスカートと合わせ妖艶な色気を醸している。黒のピンヒールを履いて長身の美春とほぼ似たぐらいの背丈だった。
その後茂利と共にいる若い男性は華奢という表現が似合う優男で、ギャラリーで後茂利の手伝いをしている。七分袖の空色のシャツにグレーのスラックス姿は、長身故に決まって見える。彼は朱鳥と名乗っていた。
「朱鳥さん、どうされました?」
眉根を寄せて美春を見詰める彼に尋ねる。
「いえいえ、何か変わったことはありませんでしたか?」
「ああ、分かりますか。今朝は通用口の前にマスコミの皆さんが取材活動で並んでいまして、ちょっとした気疲れが……」
美春が苦笑すると後茂利は微笑んで、手元の鞄から何やら取り出した。
「こちら、疲れが取れる栄養剤です。宜しかったらどうぞ」
「いやいや、お客様から物を受け取るのは禁止されていますので。お気持ちだけ」
「あら、そう。じゃあ、お昼休みにでもギャラリーへいらして頂戴。この栄養剤は試供品だから」
彼女は小瓶を鞄へ片付けると、朱鳥と共にプラットフォームのエレベーターで上階へ上がって行った。
改札口は東西南北の四方面に向けて設置されており、駅以外のビルの各階層へはエスカレーターか、ビルの出入り口付近に据えられたエレベーターを利用する。特に中層階のオフィス層とその上層階のホテル層、最上階のレストラン街へはエレベーターを利用しないと下層階からは行けない構造になっていた。
だから昼休み、美春が多鶴美と共に4階のギャラリーへ赴くには、駅舎の区画からビルのエントランスホールへ出て、エスカレーターを利用する。1階から3階まで直通のエスカレーターを利用する人は少ないので、美春と多鶴美は他愛ない世間話をしながら目的地に向かった。4階の東半分は図書館で、西側がギャラリーホールだ。
「いらっしゃい、待っていたわよ」
エスカレーターを昇り切ると後茂利が迎え出て来る。
「こちらへ」
彼女に誘われるまま二人はギャラリーの西側へ向かった。
「お二人には、こちらを」
美春は試供品と書かれたラベルが貼られた小瓶二本を渡される。多鶴美は壁に架けられた絵画を眺めていた。
「天使がたくさんですね」
「気に入った絵があれば、ご購入頂いても構いませんよ」
後茂利が微笑む。しかし絵画の下に貼られた画題と価格を見て、多鶴美の笑顔は固まる。
「私のお給料では買えません」
「どれ?」
興味を惹かれて美春も彼女の肩越しに覗き込んだ。
「ごひゃ……」
絶句する。竜に跨がる天使の絵が百万円単位の価格では、庶民の手が届く代物ではない。その隣の燃え盛る二輪の馬車に乗った天使の絵でもよく似た価格帯だ。
「お昼休みも終わりますので、そろそろお暇します」
「ええ、鑑賞は無料ですから、いつでもいらしてね」
微笑む後茂利に別れを告げて美春たちは勤務に戻った。
何事もなく一日が終わり、日勤の多鶴美は退勤する。日も暮れて夕闇が迫る時間帯、美春がいつも通りに構内巡回を行っていると、間もなく到着する列車を待つ人々から離れて、プラットフォームの端部に一人の少女が佇んでいるのが視界に入って来た。
美春は佇む少女の様子を窺う。緋色の袴のような膝丈プリーツスカートに、上は白の着物スリーブが目立つ、一見すると巫女装束のような服装だ。足元は白のニーハイソックスに木目調のミュールのような履物。髪型は、市松人形を思わせる肩まで伸びたセミロングをパッツンカットにして、大きな紅白のリボンを頭頂に付けていた。
「コスプレイベントなんてあったかしら?」
宵の口にも暑さが残るこの時期に、暑さが増しそうな現実離れした衣装は美春を気後れさせる。変な事件が相次いでいることを念頭に置いて、彼女はさり気なく少女に近づいた。顔が見えないので少女の正確な年齢は分からない。
「間もなく、1番ホームに列車が到着します」
構内アナウンスが流れる。少女の立っている場所は列車の乗降口には遠いので、利用客ならば声かけして移動して貰わなければならない。美春は足を早めた。
少女は何かに気付いたように顔を上げると、美春の方へ振り向く。細面の顔立ちに切れ長の目元が印象的だ。
「危ない!」
少女が右手を上げるのと、美春が体勢を崩すのはほぼ同時だった。転倒した美春の上を何かが通り過ぎてゆく。
プワアーン!
列車の警笛が鳴り響いて、急ブレーキの音が続けて発せられた。ゴシャという鈍い音が聞こえる。先程の少女がカラコロと音を鳴らして美春に駆け寄って来た。
「大丈夫ですか?」
美春は転んだ拍子に膝を打ちつけていたが、その他に痛みはない。
「お客様に心配させるとは、申し訳ありません」
「いえ、それよりも、すぐに逃げて」
逃げるとは、何からなのか、この少女は何を言っているのだろうと美春は不思議に思った。ふと近くに落ちていた帽子に気が付く。
「この帽子、お客様のですか?」
リボンの付いたつば広の白いメッシュ帽だ。尋ねかけられた少女は首を横に振り、列車の前方を指差した。
「あの人の」
言われて美春が指先の方向を見ると、列車が緊急停止していた。その列車の前から、何かがプラットフォーム上に這い上がって来ようとしている。
「先輩、酷いじゃないですかぁ」
聞き慣れた声に続いて、右手がプラットフォーム下から現れた。唖然として眺める美春の視界にはボブショートの女性の頭が入る。
「多鶴美?」
プラットフォームの下から這い上がろうとする女性の声は多鶴美だった。血塗れの右手がプラットフォームの上に幾つもの手形を付ける。見え隠れしていた彼女の顔、額から血を流し右半分が見えたところで視線が合う。続けて全体が現れると美春は息を飲んだ。多鶴美の左目は眼窩から飛び出し、ユラユラと揺れている。彼女が右手で身体全体を支えているのは、プラットフォームの上に挙げられた左腕の肘から先が千切れているせいだ。真っ白だった彼女の膝丈の袖なしワンピースは朱に染まり、凄惨さを際立たせている。
「どうして避けたんですか、先輩ぃ?」
「ひっ……」
這いつくばって全身をプラットフォーム上に現した多鶴美の左足は、あらぬ方向に曲がっていた。白いミュールサンダルも真っ赤に染まり、その姿のまま美春に迫る。
「先輩ぃ!」
「悪しき者よ、動きを止めよ、急々如律令!」
美春の隣にいた少女が呪文を唱えた。彼女の手元から御札が飛んで多鶴美の顔面に貼り付く。それで多鶴美の動きが止まった。
「早く逃げないと、貴女もああなるわよ」
改めて這いつくばっている多鶴美の姿を見た美春は、腰が抜けて立てない。ふと列車の方へ顔を向けると、運転士が震えていた。この現実離れした状況は夢ではないようだ。
「もう、遅いか」
少女が呟くと、駅構内に激しい風が吹き荒れる。
「た、助けて!」
コロコロと転がって、美春は2番線のプラットフォームから、線路内に落下した。
「間もなく、2番ホームを列車が通過します。危険ですので足元の黄色い点字ブロックの内側までお退がり下さい」
この状況でも列車の運行は止まっていない。美春の視界に貨物列車の先頭が見えて来た。だが彼女は腰が抜けていて足に力が入らない。貨物列車の速度は時速八十キロメートル。その勢いのままに列車が迫る。美春は懸命にレールを掴んで身体を動かし、プラットフォーム下の空間へ転がり込んだ。
プワアーン!
間一髪、美春の横を貨物列車が通過して行く。レールの継ぎ目を越えるガタンゴトンという轟音と、車体が軋む音、車輪の転がるガラガラという音が彼女の耳を襲う。あの車輪に巻き込まれていたら、彼女の身体は容易く挽き肉になっていただろう。頭から血の気が失せた。
永遠とも思える貨物列車の通過を待って、美春はこの後をどうするか考えようとするが、何も考えがまとまらない。
「先輩ぃ、どこですかぁ?」
プラットフォームの上から多鶴美の声が聞こえて来る。助けてくれたあの少女は、どこかへ行ってしまったようだ。
「先輩~ぃ」
ズルッ、ズルッと肉を引き摺る音が聞こえて来る。それに混じるように固い音、聞き間違いでなければハイヒールで走る音が聞こえた。
「あなた、だ……」
多鶴美の声が途切れる。プラットフォームの下で震えていた美春の目の前に、ドサッという音と共に黒くて丸い物体が落ちて来た。
「先輩、見ぃつけた」
線路の上には多鶴美の生首、飛び出していた左目は線路上に転がっている。彼女はニイッと微笑んだ。
「いやー!」
美春が走って逃げようとすると、ズボンの裾に多鶴美が噛み付く。思わぬ重さに彼女はつんのめって転倒した。
「いや、離して!」
俯せの体勢から身を翻しながら、大きく足を振って生首を振り落とそうとするが、多鶴美は食い付いたまま離れない。助けを求めようとプラットフォームの上に視線を移すと、頭を失った多鶴美の身体がフラフラと動いていた。その向こうに窓ガラスが割れた列車が見える。
美春は涙目で駅構内の現状を見た。窓ガラスが割れた列車の車内では乗客たちが閉じ込められたままで、運転台には首を失った男性の身体が座っている。
プラットフォーム上にはフラフラ動いている多鶴美の身体、そして長い黒髪を靡かせて疾走する一人の女性。その女性が先程の足音の主だ。彼女の手元がキラリと光る。
彼女が追い掛けているのは翼を広げた男性だ。空中に浮いているその男性に向けて、長髪を靡かせ跳躍する。
ガッキーン。
甲高い音を響かせる彼女たちに目を奪われている間に、多鶴美は咥えていた美春のズボンの裾を離していた。
「先輩ぃ、逃げないで下さいよぅ」
「ひっ」
首だけになった彼女を改めて見て、美春は言葉を失う。
「先輩ぃ、寒いよう」
多鶴美はガチガチと歯の根を震わせ始めた。
「温めて下さい。先輩の、血で」
クワッと歯を剥き出しにして、美春の足に噛み付こうとした多鶴美を、美春は反射的に革靴で蹴飛ばした。
「先輩、酷いですぅ」
レールの間を転がる多鶴美の生首を無視して、美春は蹌踉めきながらも立ち上がった。膝が恐怖の余りガクガクと笑っている。美春は自分自身を叱咤して線路内をヨロヨロと歩いた。プラットフォームの上に登るには、備え付けの梯子を使うのが早い。少し離れた梯子に向かうと、彼女の視界に黒い影が映った。
「後茂利さん、ここは危険です」
プラットフォームに立ち、美春を見下ろしていた黒スーツの彼女に退避を促す。彼女は亜麻色の髪を片手で掻き上げながら、眉根を寄せた。
「お前は何故、生きている?」
上から美春を見下ろす後茂利の視線は冷たい。その黒いスカートのスリットから見える白い素肌が綺麗だなと、美春はボンヤリと考えていた。
「お前は何故、生きている?」
再び同じ質問が飛んで来るが、美春は何を言われているのか理解できない。
「薬を飲んでないのか?」
後茂利の目がスーッと細くなった。普段の妖しいながらも穏やかな雰囲気が消え、ただならぬ危険な香りが漂い始める。彼女は懐に右手を入れた。次にその手が表に出た時には、細長い何かを持っている。それは構内照明の光を反射していた。
「ならば、殺すのみ」
彼女が持つのはナイフが三本。刃を指の間に挟んで保持している。後茂利の視線は氷よりも冷たく、美春は蛇に睨まれた蛙のように身じろぎ一つできない。
「死になさい」
後茂利がナイフを持った右腕を振り被った。
ドウン、ドウン。
鈍い音が響く。後茂利は反射的に身を翻して、音の発生源に向けてナイフを投げ付けた。ナイフは空を切り裂き飛んでゆく。美春は呆然とその様子を眺めていた。まるで映画のワンシーンのように、拳銃を構えた男性がプラットフォーム上で飛び込み前転して飛来したナイフを避ける。更に横に転がると、彼のいたプラットフォームのコンクリートにナイフが次々と突き刺さった。男性は俯せの状態から再び引き金を引く。
ドウン。
先程の鈍い音が銃声だと、それで判明した。後茂利は身軽に銃弾を躱しているが、人間業とは思えない。彼女を追い掛ける男性は銃口を上に向けて両手で捧げるようにして持っている。全身黒尽くめで頭にはヘルメットとゴーグルを着けていた。時折煌めくのは後茂利が投げるナイフで、男性はそれを巧みに避けながらホーム上を所狭しと駆けてゆく。
「映画の撮影?」
美春は眼前で起きていることが理解できず、全ては映画の撮影と思い込もうとしていた。その彼女の腕が引っ張られる。多鶴美かと思って身を固くした。
「さあ、今の内に逃げましょう」
美春の腕を引っ張ったのは、巫女装束のような衣装に身を包んだあの少女だ。
「江夏主任と秋月さんが足止めしている内に、早く」
「あ、貴女は?」
「私は柊小雪、こう見えても警視庁公安部の警察官です」
コスプレ少女が警察官とは、悪い冗談としか美春は思えなかった。しかし彼女は多鶴美の動きを封じていたのだから、何らかの特殊能力の持ち主と判断する。
「これ、何が起きているんですか?」
「私たちにも正確なことは分からない。けれど、悪巧みであるのは明らか」
プラットフォームの上に戻った美春の目の前では、ヘルメットとゴーグル、更に防弾チョッキを装備した一団が同僚の駅員と共に利用客の避難誘導を行っていた。先程の銃撃していた男性と同じ服装ということは、後茂利を追い掛けて行ったのも機動隊員と推察できる。
「真野くん、無事だったか」
「総括、これは一体?」
利用客の避難誘導をしているのは直属の上司だった。
「警視庁の刑事さんたちと、お客様の避難を行っている。君で最後だ。早く駅ビルの外へ避難しなさい」
「急いで」
小雪に促されて、美春はエスカレーターに向かう。避難はエレベーターではなく停止したエスカレーターを使うよう徹底されていた。避難する団体の最後尾は、総括と美春、小雪の三人だ。
小雪はエスカレーターの最上段で立ち止まると、二度、手を打った。
「掛けまくも畏き伊弉諾大神、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に禊ぎ祓い給いし時に生りませる祓戸の大神たち、諸々の禍事、罪穢れあらむをば祓い給え清め給えと申すこと聞こし召せと畏み恐みも白す」
小雪が呪文を唱えると、エスカレーターのプラットフォーム側に淡い光の壁が出来上がる。
「少しは足止めになると思う」
まるで気休め程度にしか考えていない。しかしエスカレーターは三基ある。美春の不安な視線に気付いたのか、小雪は優しい眼差しを向けて来た。
「他は機動隊で塞いでいるから大丈夫よ。ここも同じように塞ぐから心配しないで」
「先輩ぃ、どこですか~」
再び聞き慣れた声が聞こえて来る。普段と変わりない口調に美春は動揺した。
「総括、丹羽さんが……」
「彼女は助からないそうだ」
総括は首を横に振る。確かにこちらに向かってくる多鶴美は、あらぬ方向に曲がった左足を引き摺りながら歩き、左腕を失って残った右腕に自らの首を抱えていた。その首も、左目を失っている。生きているのが不思議な状態だ。
「彼女はこの世とは別の世界の住人になってしまったのよ」
小雪に言われるまでもない。美春の世代なら彼女の状態を言い表す単語を知っている。しかし、それを認めたくないのだ。
「先輩ぃ、お友達を紹介したいんですよ~」
多鶴美の後ろから、複数の影が迫って来るのが見える。その光景は映画の定番と同じ構図と言えた。
「あの数では勝ち目がない。早く逃げましょう」
動く死体の群れが美春たちがいるエスカレーターに向かって来る。美春は助けられない多鶴美に心の中で手を合わせてエスカレーターを降りた。
声の想定
・真野美春 種崎敦美さん
・丹羽多鶴美 小原好美さん
・後茂利 たかはし智秋さん
・朱鳥 神谷浩史さん
・柊小雪 大森日雅さん