最終話
ウィザードが覚醒したとき、真っ先に目に入ったのは、白い天井だった。
体がうまく動かない。
目玉だけを右に動かせば、そこに見えたのはバダイではなく、不機嫌そうな友人の横顔だった。その顔を見た時に彼は、失敗したと気づいた。
自分のため息の暖かさが、口周りに溜まる。機械音を耳が拾い始めた。それで、ウィザードは自分が機械に繋がれていることが分かった。
かろうじて、足の指先くらいは動かせる。生温い風呂のような。毒抜きの水槽かと思うと、苛立ちが腹の奥底から湧き上がってきた。
「大丈夫そうだな、取るか」
同意する前に彼の友人、イーグルは、書類を片手に持ったまま無造作に、ウィザードの酸素マスクを取った。
「……君、乱暴じゃない?」
「動けないのは我慢ならない質だろう。ある程度毒も抜けたようだ。ベルトも外してやるから、起きれそうだったら起きろ」
イーグルがそう言うと、ウィザードは聞こえよがしに舌打ちをした。慣れた雰囲気で、イーグルはそれを綺麗に無視し、機械のボタンを押した。
「お前、今日から一週間、謹慎だそうだ」
「へぇ。よくそれだけで済んだね」
「他人事のように言うな。毒を盛られてなかったら、もっと厳しい罰則が適応されていたかもしれないんだぞ」
「なるほど」
一歩間違えば、軍に多大なる影響を及ぼしたであろう行為。それにしては軽すぎる処分。要するに、今はバダイを追うな、ということなのだろう。
ウィザードは、自由になった腕を顔の前まで持ってきた。青くどろっとした液体が、ぼた、ぼた。と指先から落ちた。
ウィザードの勝手な行動のせいで、バダイの行方は分からなくなってしまった。師がどこまで読んでいたのか。イーグルは改めて、師に畏敬の念を感じた。
イーグル、という名もまた師が与えたものだ。琥珀色の瞳が猛禽類のようだから、と。ウィザードと同時期にバダイの下に付けられた男。喜怒哀楽をあまり外に出すことがない彼は、師を探した挙句、勝手に会いにいったウィザードに、静かに腹を立てていた。
ウィザードが消えた、という報告と、探しに行け、という命令はほぼ同時に、イーグルの手元に届いた。
ウィザードのバイタルサインが低下した場所は、隣国。それが把握できている時点で、失踪の可能性は限りなく低い。姿を消すなら、あいつはもっと上手くやる。つまり三年前に、彼らの師が逃亡した時とは、状況が違う。
イーグルは瞬時にそう結論付けて、部屋を出た。
それから半日も経たないうちに、イーグルはウィザードが倒れているアパートにたどり着いた。
部屋は空調が効いていた。うっすら漂う甘酸っぱい香りに、自然と鼻がひくつく。
倒れたウィザードには、毛布が掛けられていた。
散らばったチェスの駒。飲みかけのコーヒー。ラジオは小さな音でジプシーキングスを流していた。
部屋の中をぐるりと巡ると、香りの元が分かった。カミツレと一緒に、吾木香が活けられていた。瞬きを数度。イーグルは久しぶりに、季節を見た。
ここには居ない師に、仕事のしすぎだ、と苦笑された気がした。
「死なずに済んで、よかったな」
「俺もそう思う」
水槽内部で身体を起こしたウィザードは、真面目に頷いた。
自分の癖を利用するという、古典的な手法で毒を盛られた。まさかこの時代にそんな方法で躱されるとは夢にも思わなかった、と同時に、殺せばよかったのに、と。師がそうしなかったことに、ウィザードは何故だか嬉しくなった。
「何をニヤついているんだ、気色の悪い」
「先生の手札はあと、どれっくらいあるのかな」
「お前な。いつか師匠に、本当に殺されるぞ」
「そうかもね」
ふふ、と頬を染めるウィザードに、イーグルはうす気味悪さを感じた。
ウィザードはずっと、バダイに付き従っていた。幼い頃は親を追う雛のように。成長してからは、敬虔な信者のように。盲目にバダイを追うウィザードの感情は、イーグルから見ると、唯の師弟関係を超えたもののように思えた。尤も、師には、その気は一切なかった。
しかし。
ーーよかった、裏切られなくて。
イーグルは、師が逃亡し果せたと聞いた時、安堵したのだった。
ウィザードは口ではバダイに軍に戻って欲しいと言っているが、そうなったら、酷く幻滅するだろうと感づいていた。もちろん、イーグル自身も。
自分達の慕っていた、強かな師のままでいてほしい、しかし近くに在りたい。今ではもう、その思いは並行しては成り立たない。
「師匠は敗者復活のあるトーナメントが、お好きだったな」
「それがどうかした?」
「強く在ることはもちろんだが、屈しない精神をご覧になられていた気がする」
「この仕事やってると、敗者は復活できないっての、嫌でも思い知るからね。環境の要因が大きいよ」
「その考え方が、師匠とお前の違いだな」
「そうだね、俺は先生みたいにはなれない」
渦に呑まれれば、行き着く先は皆同じ。戦争という渦に乗っている自分たちは、結局のところ、この底に行き着くのだろう。そこに師がいない、という事実に苛まれる。いっそ、一緒に沈んでほしい、というウィザードの思いは受け入れられなかった。
「俺たち、いつまでここにいるんだろうね」
「さあな」
その声は相変わらず素っ気ない。しかし、イーグルはその、素っ気ない口調で続けた。
「あの後の調査で、毒はチェスの駒だけに仕込まれていたことが分かった」
「だから、何」
ウィザードは水槽の縁にもたれ掛かって、不機嫌そうにイーグルを睨んだ。青い薬湯から出ている、白い両肩が艶かしい。
まだ師に、してやられたことに苛立っているのか、とイーグルは嘆息した。
「お前な、本当に分からないのか」
「はぁ?」
「師匠は、自分の居場所を突き止めるならお前だ、とお考えになっていた、ということだ……何だ、その顔。本当に腹立たしい奴だな」
惚けたようなウィザードにぶつけたかったのは「何故いつも、師の一番はお前なんだ」ということだったが、イーグルは、それはぐっと飲み込んだ。
更に。
あの部屋で見たカミツレと吾木香が、師と魔法使いのようだと、一瞬でも思ってしまったことは、記憶から抹消したかった。
「まあ、ここが嫌になったら、出ていけばいいだけだろう。師匠だってそうしたのだから」
「……そっか。そうだね」
「簡単なことだ」
実際、全く簡単ではないのだが、彼らは、そうしようと決めた。
「ねえ、イーグル。この後は晴れるかな」
「謹慎中にそれを気にしてどうする」
「んー。先生、雨の中消えちゃったから。風邪ひいてないといいなって」
師が聞けば誰のせいだ、と怒るだろうことを、平気で口にするウィザード。その様子に呆れつつも、イーグルは天気を確かめた。
嵐の後は、快晴であった。