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第二話

 部屋に迎え入れると、弟子はパーカーのフードをとって、物珍しそうに辺りを見回した。

 

 離別した時にはまだ二十歳に届かない年齢だった、彼。その視線は机の上のチェス盤の所で、ピタリと止まった。


「濡れた服は、入り口のポールに掛けておいてくれ。そのうち乾くだろう、ほら、タオルで拭いておけ」


「ありがとうございます、先生」


 万人が見惚れるような笑みをふわりと浮かべ、弟子はバダイからそれを受け取った。髪から滴る水滴を拭き取る、彼。


「コーヒーでも飲むか、ウィザード」


 自分が与えた名前を呼ぶのに、バダイは幾分か緊張していた。それを相手に気取られないよう、どうすれば自然に聞こえるのか。考えた末の呼びかけだった。


「いいえ、お構いなく。用事が終わればすぐに帰ります」


 タオルをゆっくりと二つ折りにして。バダイの差し出した手にそれを返し、やんわりと話す彼は、以前にも増して美しく成長していた。


「それに、俺は苦いものが苦手です。飲み物でも、薬でも。ご存知でしょう」


「そうだったな。では座るか」


 バダイは彼にソファを勧め、自分は固い木の椅子を出してきて、そこに腰掛けた。


「それで、用事というのは何だ。帝国の参謀が、こんなところまで来るなど」


「やだなあ、そんな刺々しい物言い、やめてくださいよ。それに、うちの参謀はまだ先生ですよ。今は俺が仮に、そこに座っているだけで」


「辞表は出したはずだが」


「先生は今、療養中ってことになってます。貴方が他国につくんじゃないかって、上層部は気が気じゃないみたいだ。貴方がいなくなったことを、ひた隠しにしている。隠し通せるわけないのに」


「相変わらず、馬鹿どもばかりだな」


「ええ、相変わらず」


「それで。探してこい、ということか、お前に。他に適任は居ただろう」


「いいえ、今日のこれは俺の独断です。貴方がここにいることを知ってるのは、多分俺だけです」


 ウィザードの言葉に、バダイは両眉を上げた。


「では、何の用で来たんだ」


「……先生、俺とチェスで勝負してください。昔みたいに」


「十中八九、お前が勝つと分かっているのにか」


「先生が軍を抜けてから、相手がいなくって。俺はこの三年、チェス盤には触れてすらいませんよ。それじゃハンデになりませんか」


「周りくどいのは好かん。何を考えている」


 バダイが睨むと、ウィザードはそれを受け流すように、視線を一度床に落とした。それから再び、バダイの方をしなやかに見据えた。


「もし、俺が勝ったら。先生、一緒に帰りましょう」




「名前は変えなかったんだな」


「ええ、先生に最初にいただいたので。気に入ってるんです」


 彼はほんのりと、口の端をあげた。バダイは、彼と自分の間に挟まれたボードを見る。戦況は五分五分。


「先生はいつだって、手加減してはくださいませんでしたね」


「つまらないだろう、手を抜かれるのは」


「ほら、そうやって虐める。だから俺は、強くならざるを得なかった」


 ポーンを軽く挟んだウィザードの手が、軽やかに盤上を横切る。着盤したポーンを見て、バダイは眼球を左右に動かした。


 ヒタヒタ、と音がする。それは、雨が軒から滴る音か。それとも、王を狙うウィザードの思考の音か。


 バダイは両手の指を組んで、自分の太腿に肘を付き、組んだ手の上に顎を乗せた。互角の戦いであっても、自分の方が分が悪い。そう考えていた。


 ウィザードの若さ、整然とした思考。思い切りの良さ。ラジオから流れてくる彼のニュースが、三年間会わなかった筈の彼の有り様を、バダイに伝えていた。


 前のめりの体勢のバダイ。ウィザードは足を組み、親指を顎に当て、盤を隙なく見つめている。


「上層部はあなたが裏切ったと思っています。療養扱いにした上で、今でもあなたを探している」


「そうか、ご苦労なことだ」


 バダイの無関心な返答に、ウィザードは困ったように小さく笑った。


「ああそうだ、イーグル。あいつは今でも、先生のことを慕っていますよ」


「懐かしいな」


「懐かしいだなんて。未だ三年です、あなたが姿をくらましてから。ねぇ、先生。戻ってきてくださいよ」


「はっ。戻って何をしろと言うんだ」


 思わず、失笑が漏れた。本音だった。自分の後に続くものは作ったつもりだ。


「俺とこうやって、チェスをしてください。それだけでいい」


「あんな辛気臭いところでか」


「酷いや」


 ウィザードがここに来て初めて、屈託無い笑みを見せた。


「貴方を追いかけるのは、いつも、とても大変だった」


「頼んでもいないのに、お前たちは毎度毎度くっついてきたな」


「監視ですよ、監視。先生ったら、あちこちのチェスイベントで問題を起こすんだから」


「起こしてない」


 バダイは手を進めた。ナイトが中央付近に跳ぶ。


「アラシのバダイって呼ばれていたの、まさか知らないわけじゃないでしょう」


 ウィザードの、磨いた黒炭のような瞳に映るバダイが、口をへの字に曲げる。


「それで各地に先生の弟子なんか作っちゃって。俺がどれだけ嫉妬したか、今でもちょっと思い出しただけで腹が立つ。頭の中を見せれるなら見せたいくらいですよ」


「そんな顔をするな。見た目が台無しだぞ」


「ここには、あなたと俺だけなのに、それ、気にします?」


 ウィザードの駒がバダイのポーンを弾いたが、バダイは顔色一つ変えなかった。この動きは想定内だった。向かいに座る弟子は、さあ、ここからどう出ます、と興味深そうな目つきになっている。




 バダイがチェスを始めたきっかけは何だったか、単なる偶然だったような気がする。


 当時、軍の司令部にいた彼は、飽いていた。端的に言えば生きることに。幾つもの華々しい戦績をあげようが、何も変わらない。人間の本質が争うことならば、自分がやっていることは何だというのか。


 そんな折に、大統領主催の新年を祝う会で、チェスの余興が催された。


 世界ランキング二位と五位の、自分とそう歳が変わらない青年達が、曇りなく磨かれたテーブルを挟んで座った。

 

 そこはスポットライトの当たる、華やかな世界。吐くような臭いは感じない、場所。


 バダイが戦況を読んでいるのと同じくらいの時間を、彼らはチェスに費やしてきている。五位の青年はトーナメントで一度負けたものの、敗者復活戦で勝ち、そのままの勢いで決勝まで進んだ。


 司会からそういう説明がされ、バダイはふん、と鼻をならした。戦争は負けたら終わりだ。勝つしかない。負けた者の惨めな末路は、踏みにじり続けた過程で嫌というほど見た。


 それなのに、彼らはどれだけ勝ち負けを繰り返しても、惨めにならない場所にいる。そう想像し、バダイは密かに苛立った。


 対局が始まった。


 カツンカツン、と駒が動く度に、美しい足音のような響きがあった。全くルールを知らないバダイも、二人のプレイヤーの間に流れる、張り詰めた雰囲気は分かった。


 白と黒の駒が整然と並んだ形から進軍してくる。ルールに則って、交互に手を進める、それだけのゲーム。戦争に比べたら、複雑でもなんでもないはずなのに、バダイは知らず知らず、二人の戦いに次第にのめり込んでいった。


 冷静な二つの知性が向かい合って座っている。呼吸も変わらない。それなのに、未知の熱さが折り重なっているように感じる。


 集中が場に溶けて、辺り一帯を支配していった。その雰囲気に呑まれる。


 気付けば時間も忘れて戦いを見ていた。


 戦いが終わり、感想戦が始まっても、バダイは観戦していた時の緊張感を解くことができなかった。

 

 それからバダイはすぐにチェスのルールを覚えた。強くなるには、これまでさされてきた手筋を研究するのが良いと知り、手当たり次第に棋譜を読み込み、暗記した。


 バダイがアマチュアの大会に出て上位に食い込むまでに、あまり時間はかからなかった。

 

 戦争とは違う、熱さの正体を追った。


 死なないはずのゲームに、いつしか生を見出すようになっていた。





「三年前、もう、私はチェスではお前に勝てなくなっていた。潮時だと思ったんだよ」


「たかがゲームじゃないですか」


「されど、ゲームだ。感覚が鈍れば戦況に影響が出る。老兵は死なず只消え去るのみ」


 バダイの駒が跳躍し、小気味良い音を伴って、着盤した。


 形勢は未だどちらに傾くか分からない、危うい拮抗を保っていた。ウィザードが、親指の爪をガリリと噛んだ。この弟子は、幼い頃からの癖が抜けていない。集中すると、必ずこの癖が出る。


 可愛い弟子たち、その思いは今も変わらないことに気付く。


 バダイの心に懐かしさが一瞬、去来した。


 そこから更に、数手進んだときだった。盤を見つめていたウィザードの身体が、ぐらりと傾いた。そして、そのままチェス盤に覆い被さるようにして倒れ込んだ。盤の上の駒たちは、派手な音をたてて床に落下した。


 ウィザードがピクリとも動かなくても、バダイは一向に気にした様子も見せなかった。彼は暫し次の手を考えた後、ゆっくりと立ち上がった。


 卓にうつ伏せになったウィザードの状態を確認して、軽くうなずくと、ベッドから薄い毛布を持ってきた。彼の体勢を楽にしてやり、毛布をかける。


「お前のせいで、また寝ぐら探しだ。全く、困った奴だな」


 思わず苦笑した。バダイの、目尻のシワが深くなった。


 バダイは、手袋を二重にはめた。


 それから、部屋の隅に置いておいた小ぶりのボストンバッグを一つ、肩に引っ掛けて、窓からベランダへ出た。コンクリートが雨で濃く染まっている。


 酷い嵐だった。


 しかしそれは、バダイにとって好都合だった。ここからのルートであれば、姿を捉えられることなく逃亡できることは確認済みだ。


 浅い吐息を、ふっと一つ。


 この風雨がうまく隠してくれることを信じて、バダイは思い切り柵を蹴った。彼の姿が窓の額縁から消えた後、彼の名を意味する風が一陣、低く鳴いた。


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