1-7 浴場騒動
湯船に身を沈めると全身が心地良い暖かさに包まれ、今日一日で溜まった疲れが癒されていくようだった。
健康には半身浴が良いとはよく耳にするが、唯としてはやはりこうして全身を沈めた浸かり方が好ましい。
タオルで髪をまとめた頭がすこし重かったり、胸の辺りがふわつく感覚にも最近ようやく慣れてきた。
洗うのも手間がかかる長い髪はいっそのこと短くしてしまいたかったが、それは紗耶香によって止められてしまった。
1Rの男子寮にあったものとは違い、今の住まいは浴場も広々としている。
スポンサー契約を結び住居にこの高級マンションをあてがわれた時は気後れするあまり辞退しようとしたが押し切られてしまった。
まだ何の成果も出していない内からこんな厚遇を受けるのは実に後ろめたかったが、存分にくつろげる環境が嬉しくないかと言えば嘘になってしまう。
足を伸ばしてもあまりある浴槽で身を落ち着けていると、思考に浮いてくるのはまず転校初日の出来事。
質問責めに遭いこそしたが幸い男子も女子も、クラスメイト達は好意的に接してくれた、問題はその後の入場審査。
やはりというか当然と言うべきか、悪目立ちしてしまうことは避けられなかった。
予想されてしかるべきだったが、オーガとの融合により女性となった唯の肉体は常人のものとはかけ離れたものになってしまっている。
紗耶香の手配により支給された重量にして五十キロオーバーのAMAGI製大鉞『雷覇』。
AMAGI製の探索員武装、斧系列と同様に雷の文字が入った名称ではあるが特注の一点物だ。
それを片手でも自在に操り、かつ振り回されることもない身体能力は探索員であってもはっきり異常としか言い表せず、周囲から奇異の目で見られることは避けられないだろう。
素性に裏のある香乃唯が怪しまれることは紗耶香にとっても都合が良く無いはずであるのに、まるで目立たせようとしているかのような得物を持たされたことは未だに疑問である。
そして悩み事はもう一つ。
あれから一週間、自身の身に起こったことを伝えられていない、どう伝えればいいのか分からない、家族のことだ。
メールやSNSで連絡を取ることはできても今のままでは会話することも出来ない。
ダンジョン内には個人の電子機器を持ち込めないので電話に出れないことぐらいなら今までにもありはした、だがあまり長い間通話できない状態が続けば何かあったのではないかと心配されるだろう。
――そういう心配をしてくれる人達だということを唯は知っている。
そうしていつものように答えが出せないまま、気分を落ち込ませてしまう唯だったが、その耳が浴場の扉越しに玄関が開かれる音を聞き取る。
鋭敏になっている唯の感覚がやってきた人物が家の中を巡り、浴場の方へ向かってくる気配を感じ取り、やがて脱衣所から響いてきたのは予想通りの声だった。
「あら、お風呂タイムだったのね」
「ああ……ごめん、紗耶香さんすぐ上がるから」
「いいわよ、ちょっと初日の話を聞きに来ただけだから、ゆっくりしてて」
この一週間ですっかり聞き慣れた少女の声、来客はやはりこの家の合鍵を持つ紗耶香だった。
深刻な用事があるようではなさそうだったがあまり待たせるのも悪いと立ち上がった矢先――脱衣所の方から鼻歌に交じり聞こえてくる衣擦れの音に目を剥かされる。
「え……ちょ……紗耶香さん、何をして――」
「お邪魔しまーす」
慌てふためく唯が問いただすのも待たずに扉が開かれ、堂々と紗耶香が浴場に足を踏み入れてくるのだった。
前に出した腕に掛けられたバスタオルのお陰で全てを見てしまうことはなかったが、視界に映る少女の眩しい肌色に唯は顔を真っ赤に染め、ぐるりと回れ右をして再び湯船に身を沈め込む。
体が女性のものになろうと精神は未だ年頃の青少年であり、無防備に過ぎる紗耶香の姿は目に毒過ぎた。
「な……何をやってるんですか!?」
「何って私もお風呂まだだし、折角だから一緒に入ろうと思って」
「一緒にって、紗耶香さんは知ってるでしょう、俺は、その……」
康哉という少年は異性との交遊経験こそ無かったが、女性に対して興味が無いというわけではない。
どうしても異性、とりわけ紗耶香のように容姿もスタイルも図抜けているような相手の今のような姿を見て平静でいられはしなかった。
唯となって数日は入浴時に姿見で自分の姿を見ることすら気恥ずかしくてしょうがなかったぐらいである。
そんな心境を知ってか知らずか、紗耶香は唯にゆっくりと歩み寄るとタイルの床に膝を下ろし、そっと向けられた背中に手を触れさせた。
「また敬語になっちゃってるし、ほら、俺って」
「あ……」
「まあ今のは私もずるかったよね、ごめん。でもね、こういうの今のうちに慣れておいたほうがいいって思ったんだ。
ゲートとかで更衣室なんかに入る機会はこれからいくらでもあるでしょ?」
その言葉には唯も胸を衝かれてしまう。
言われる通り、確かに今後は女性に対する耐性をつけておかなければ身が持たなくなるかもしれなかった。
そのことを鑑みればむしろ事情を知りながら体を張ってくれている紗耶香には感謝しなければならない。
しかし素直にその厚意を受け入れてしまう前に唯には言わなければならないことがあった。
「……ありがとう、でも紗耶香さんも――無理はしないで欲しい」
「え?」
虚を突かれたように目をしばたかせる紗耶香に背を向けたまま、唯は言葉を続ける。
「俺のことを知ってるんだから、紗耶香さんだってこういうことするの恥ずかしいんでしょ?
……なんとなくそういうのが最近、分かるんだ」
背後の紗耶香の顔は見えていない、けれども彼女がやってきたときから表に出さず恥ずかしがっているのをどうしてか唯は感じ取っていた。
思い込みではないと確信できる、そんな感覚を覚えることが近頃よくあるのだった。
付き合いはまだ短いが、相手に対して引け目に感じさせまいとするように余裕がある様を装いながら手助けしてくれようとするところがある彼女の人となりを知りつつある唯は無理をさせてまで甘えたくはなかった。
それきりしばらくの間、二人互いに押し黙ってしまっていたが、やがてしみじみと感慨深そうに紗耶香が囁きを口にする。
「はぁ、まったく……コウちゃんは、そういうとこだよ?」
「そういうとこって……どういう意味ですかそれ」
「んー? そうだね、そのうち話してあげる」
困惑する唯を楽しそうに眺める紗耶香の顔には飾り気のない微笑みが浮かんでいた。