1-2 無謀の結末
馬鹿な事をしているとは康哉自身思っていた。
日本のダンジョン事業は他の国と比べ特にリスクを排して進められており、制約も多いが慎重に徹するならば危険が及ぶことはそうあることではない。
それでも稼ぎを求めて危地へ向かう探索員は自ら無用ともいえるリスクを負っているのだから、救難信号に応じられなくても恨み言は言えないのだ。
第一にそんな危険地帯へ十分な準備も無い者が飛び込めば余計な被害を招いてしまう恐れすらある、無暗に救助へ向かおうとするなど無謀とすら言える行動だ。
残された仲間に迷惑までかけてしまうことを承知している康哉にとってこれは困っている人が居れば助けるのが当たり前などという義侠心に駆られた行いですらなく、我儘と言っても差し支えない衝動だった。
ただ嫌なだけ、康哉に思い切らせたのはそれだけの気持ち。
父親を早くに亡くし、母子家庭で育った康哉だが自分の身上を不幸だと思ったことは無く、むしろ恵まれているとすら感じている。
今は居ない父親も、母親も、常は優しく温厚で暴力を振るうようなことは無く、幼いころに過ぎた悪戯をしてしまったときは叱ってくれた、言うことを聞かせる為に理不尽な説教を押し付けることも無かった。
決して裕福では無かったが、康哉にとって家族はかけがえのない存在で、だからこそこうして今では実家への仕送りのために高校生の身分にありながら収入を得られる探索員の道を歩んでいる。
そんな恵まれた自分が仕方ないのだ、これが賢い生き方なのだと、綺麗事を諦めることを、彼は許容することができなかった。
そうでなければ今の世の中が情も無い、本当にろくでもないものになってしまったかのようで耐え難かったから、あえて康哉は感情任せの愚行に踏み切る。
――見つけた!
幸いなことに道中で一切他のモンスターと遭遇することもなく、康哉は救難信号の発信元へ辿り着く。
駆ける岩肌まみれの細道の先、少しばかり開けた空間にその姿はあった。
手負いらしき探索員装備に身を包む同年代の少年少女――それに相対する二体のオーガ。
記録映像ではその姿を見たことのあった康哉だが、初めて実物を目にするとゴブリンやコボルトとは段違いの迫力に足が竦みもつれそうになる。
二メートル前後の赤黒い体躯は筋肉らしきもので隆々と膨れ上がり、剥き出しの牙が瞳孔の無い赤眼と相まって、まさしく鬼そのものといった凶相をかたどっている。
「っ!」
歯を食いしばり、萎縮してしまいそうになる意気地に自分で活を入れると康哉は腰の後ろに保持された予備武器、手投げ斧を手に取ると走りを全力まで加速させて振りかぶり、疾走の勢いを乗せて投げ放った。
刃を軸に旋回しながら宙を飛んだハチェットは今にも目の前で膝をつく少年を薙ぎ払おうとしていたオーガの首に横合いから突き立ちその身をよろめかせた。
思わぬラッキーヒットとなった牽制の一撃、康哉は機を逃さず駆け走り抉られた首に狙いを定め、メイン武器であるコンバットアックスを抜き放ち強襲を敢行する。
「おおおっ!」
いざという時に両手で扱えるよう長めの造りになっている柄を握り締めて康哉が見舞った振り下ろしは過たず第一撃の入った傷跡を捉え、顔と変わらない程に太いオーガの首を完全に斬り落とした。
不意打ちからとはいえ単独でのオーガ狩猟は探索員として大金星だったが、浮かれている間が無いことを康哉は覚えていた。
首を落としたオーガに蹴りをくれその反動を利用して飛び退がり油断なく盾を構える。
仕留められたはずのオーガはそのまま崩れ落ちるかと思いきや、まだ意思があるかのように体勢を直し数歩歩いたところで足を滑らせようやく倒れ伏した。
これもオーガの脅威の一つだ。
ゴブリンやコボルトであれば首を落とされればすぐに死に至るが、オーガともなると少しの間なら動けるらしく、仕留めたと安心して油断した探索員が大怪我を負わされた事例は少なからず起こっていた。
一体を仕留め、残りもう一体。
見据える先のオーガが今倒したものと比べいくらか線が細く見えることに女型か、と康哉は胸の内で一人ごちる。
オーガはその見た目に男性的な特徴を有する個体、あるいは女性的な特徴を有する個体の二種類が存在する。
人間そのものとまではいかないが、肩幅の広さや腰回りの細さなどその差は一目瞭然だ。
体躯も女型の方がいくらか小柄で、常識で考えるならばこちらの方が膂力は低いだろうと推測できるが、ダンジョンではそんな理屈が通用しない。
むしろ女型による攻撃の方が重かった、と語る探索員も多いという。
それに加えて――
……やりにくいな、やっぱり。
女型オーガと対峙する康哉は緊張のあまり口の中が急速に乾いていくような錯覚を覚えた。
仲間、という認識があるのか分からないが、同じ種族を打ち倒されたオーガは唸りを漏らしながらその赤眼で康哉を睨み据えつつ、まるで隙を窺っているかのように膝に溜めをつくったまま動きを見せない。
コボルトまでの相手であれば駆け引きも何も無く突っ込んでくるばかりなので慣れてしまえばどうということはないのだが、知性なり闘争本能なりを持ち合わせているらしいオーガは一筋縄では行かなかった。
気を抜けばすぐに襲いかかってくるだろうオーガと向かい合ったまま、康哉は背後へ向けて声を飛ばす。
「走れるか」
「――え?」
明らかに腕が折れてしまっていたり、肋骨でも壊されてしまったのか呼吸するのも辛そうだったりと、助けに入った四人組は遠目からでも重体であることが分かっていた。
一番傷が浅そうな髪色を明るい茶色に染めた少女が康哉の声に反応しきれず気の抜けた声を漏らす。
「先に逃げてくれ、このままじゃ俺も退けない」
「先って……っ!? だ、駄目だよ! だって、救難信号、私達が……」
そこまで言われると理解できたらしく、少女は顔色を真っ青に変え切羽詰まった声で言い縋った。
助けを求めたのは彼女達ではあるが、一人でやってきた康哉にこの場を任せるというのがどれだけ無茶なのかは分かっているのだろう。
しかしいつ気まぐれにオーガの狙いがそちらに向かうか分からない状況は負担となる。
負傷した仲間を庇いながら戦ってもらったとして戦力としても期待できるか怪しい、康哉としては逃げてもらった方が身軽になれた。
「いいから! 君達が退いてくれないと俺も逃げれない、早く行ってくれ」
「……ごめん」
康哉の強い口調に折れた四人は悲痛な面持ちになりながらも健在なメンバーが動くのも辛そうな仲間に肩を貸してその場から離れていく。
これでいい、後はあの子達が地上に帰り着くか他の探索員に助けられるまでの間モンスターに出くわしてしまわないことを祈るばかりだ。
幸いなことに目の前のオーガは随分と慎重な個体のようで四人が離れるまでの間も康哉から目を離さず睨み合ったままだった。
一体目を倒せたのが僥倖に過ぎないことを弁えていた康哉がどうにか足にでも負傷を与えて逃げる隙を見出せないかと考えていたとき、にわかにオーガの見せた挙動が彼を仰天させる。
「おいおい……」
思わずそんな呟きが口を突いて出る。
先に倒したオーガは既にその体を霧散させており、跡に残されていた一対の角、そして投擲したハチェット。
女型オーガはそのハチェットを拾い上げ、自身の得物として瞠目する康哉へと襲いかかったのだった。
一瞬で間合いを詰められてしまった康哉は咄嗟に左手の盾を掲げ振り下ろされる刃を受け止めようと試みるが。
「ぐ……っぁ!」
盾越しに響く衝撃の強さに康哉の体がガクリと傾ぐ。
全く受け止めきれずに盾ごと頭から叩き潰されてしまいそうなところで地を蹴飛ばし、すんでのところで康哉はオーガの目の前から離脱するもその一撃だけで被ったダメージは甚大だった。
盾は刃を受け止めた部分からくの字に折れまがり、保持する左手も衝撃による痛みと痺れでダラリと下がったまま上げることもできなくなっている。
どっと脂汗が噴き出すのを感じながら康哉は自身の想定が甘いものだったことを思い知らされた。
コボルトの突撃でも傷一つなく受け流せるようになっている康哉はいくら強靭なオーガの攻撃でも防御に徹すればある程度は凌げるではないかと考えていた。
だが実際にはこの有り様、自分の防御技術を過信した結果というよりも技量うんぬんでどうこうできる問題では無かったのだ。
いくら高速で迫ってきてもそれがピンポン玉程度の軽いものであるなら素手であっても容易く払い除けられるだろう。
だが迫るのが硬球や鉄球であったなら、受けた手を挫いてしまうのは目に見えている。
捌くという行為には受ける側にも相応の強度が必要になるのだ。
どれほど合気道を極めようと生身の人間がトラックの進路を捻じ曲げるなんてことは出来もしないように。
オーガと人の膂力はそれほどまでに隔絶している、オーガハントに守りに徹する大盾持ちが必須とされる理由を身をもって分からされた。
だが今更引き返すことは出来ない、止めを刺すべく迫るオーガの姿を苦痛に歪む眼で捉えた康哉は肚を括り、前へと――足を踏み出す。
死ぬためにここまで来たわけじゃない、諦めて――たまるかっ!
受け切れない、逃げきれない、ならばと康哉はそこに活路を見出す。
死の淵に追い込まれながら彼はまだ絶望してはいなかった。
迫るオーガ目掛け、あらん限りの力を込めて斧を振るい付ける。
やられる前にと、柄の端を握り間合いを伸ばした一撃はその分安定を欠いたものだったが康哉自身が不思議に感じるほど勢いを増し、叩き付けられた斧刃がオーガの首に食い込んでいく。
しかし――
「――ぁ」
オーガの体躯は大きく、腕も長い、更に武器を手にした大鬼の殺傷範囲は康哉を十分に捉えてしまっていた。
感じたことの無い衝撃を首に受けたかと思うと同時に宙を舞うような感覚に見舞われ意識が急速に薄れていく。
――母さん、恵、ごめん。
走馬灯のように脳裏をよぎる母と妹の思い出姿に詫びながら、康哉の意識はそのまま闇へと沈んでいった。