眠れる森の侍女
むかしむかし、ある国の若い王子が、見聞を広め、よき伴侶を探すため、一人旅に出ました。
王子は様々な異国の地を巡りました。そこでたくさんの出会いと冒険がありましたが、よき伴侶に出会うことはできませんでした。
王子は更に東へ東へと進み、ある日、黒い森に足を踏み入れました。しかし、その森はとても深く、陽が沈みかけてきたというのに、木々はより一層密度を増していくばかりで、抜け出せそうにはありませんでした。王子はとても勇敢な心の持ち主でしたが、遠くで狼の遠吠えがこだます森の中で一夜を過ごすのはとても危険だと知っていましたので、歩みを速めました。
しかし、森を抜け出せないまま、完全に陽が沈んでしまいました。辺り一面真っ暗闇。獣たちの息遣いが背後に迫っていました。
その時、王子は前方にほのかな明かりを見つけました。
最初は訝しみました。このような深い森の奥に人が住んでいるとは思えなかったからです。もしかして、黒い森に巣食う悪い魔女の家かもしれない、とも考えました。しかし、狼たちの餌食になるよりはましだと思い、そして何よりとても寒かったため、王子は覚悟を決め、明かりのある方向へ向かいました。
その先に現れたのは、大きな城でした。今でこそ庭は荒れ果て、壁も黒く煤け、所々崩れてしまっていますが、かつては立派なお城だったに違いありません。王子は大いに驚きました。
王子は城の扉をノックしました。しばらくすると、扉の向こうからかすかに足音が聞こえ、ギィイイイ……と、大きな音を立てて扉が開きました。そして薄暗い城の中から、黄ばんだエプロンを身につけた、中年の女性が姿を現しました。
どうやら魔女ではなさそうです、王子はほっと胸をなでおろしました。
「旅の者です。森を抜けられず、どうか一晩泊めていただけないでしょうか?」
「それはお困りでしょう、どうぞこちらへ」
女性は抑揚のない声で言うと、王子を城の中へ招き入れました。
とても大きな城だというのに中はとても静かでした。二人の足音以外は何も聞こえません。王子は暖炉のある部屋に案内されました。体が冷え切っていたため、王子はすぐに暖炉の前に座りました。しばらくすると、例の女性がパンとスープを持ってきてくれました。質素ではあったものの、疲れ切った王子の体にとってはこの上ないご馳走に感じられました。
ようやく一息つくことができた王子は、女性に向かってお礼を言いました。
「ご親切にありがとう。このような温かいもてなしを受けたからには、是非、この城の主人にもお礼を言わせてほしい」
しかし、女性は首を振りました。
「申し訳ありません。この城に主人はいないのです」
「どこかへ外出中なのか?」
「いえ。この城は遥か昔に主人を失い、人々の記憶から忘れ去られたのです。私は残された最後の侍女なのです」
「貴女はこのような寂しいところに一人残って、何をしている?」
王子の中で再び警戒心が生まれました。もしかして彼女は本当に魔女なのではないだろうか?
一方、侍女はしばらくの間黙って、考え込むように下を向いてしまいましたが、やがてすっと顔をあげました。
「貴方のように若く立派な方ならば……。旅のお方、私がここで何をしているのか、お知りになりたいのでしたら、どうかついて来てください」
王子は好奇心の強い男で、この城と侍女の正体を暴いてやろうと心に決めました。王子は侍女の誘いに乗り、城の階段を登りました。
そして、一際立派な扉がある部屋の前にやってきました。
侍女が扉を押し開けます。部屋の中央には大きな寝台がありました。その寝台に一人の若い女性が目を閉じて横たわっていました。女性の胸は規則正しく上下し、寝息も聞こえてきます。
「眠っているのか……。彼女は誰だ?」
王子は小声で侍女に問いました。
「私がお仕えしている王女様です。王女様は二十年以上こうして眠り続けているのです」
「二十年だって!」
王子は驚きのあまり大声をあげてしまいましたが、寝台の上の女性はピクリとも動きませんでした。
「王女様は魔女に呪いをかけられ、それ以来ずっと眠ったままなのです」
王子は、どこかで聞いたことある話だな、と思いながらも、寝台に近づき、王女の顔を見つめました。とても美しく、王子の胸が高鳴りました。王女を伴侶に迎え入れられたらどれだけ良いだろう、と思いました。
王子は侍女に問いました。
「どうしてこんなことに……彼女の呪いを解く方法はあるのか?」
「はい。しかし容易ではありません」
「何、数々の冒険をこなしてきた私にかかれば大抵の困難なら乗り越えてみせよう。詳しく教えてくれ」
侍女は一瞬躊躇するような仕草を見せましたが、事情を語り出しました。
かつてこの城には王様と王妃様が住んでいました。とても仲睦まじく、領民からも慕われておりました。しかし王妃様は王女様をお産みになった直後に亡くなってしまいました。王様は残された一人娘をたいそう可愛がっておられましたが、王女様が成長するにつれて王妃様に似てくると、ますます溺愛するようになりました。それほど王様は王妃様をとても愛していたのです。
王様は王女様に万が一のことがあってはならないと、私を含め大勢の従者をつけました。私たちは王女様の命令を何でも聞くように、と王様から厳命され、王女様がどこへ行くに私はついて回りました。
ある日、王女様は私たち従者を連れて、城下町を歩いていました。そこで、一人の老婆に出会ったのです。しかし、その老婆の正体は黒い森の魔女という、古くからこの地域では恐れられていた存在でした。魔女は王女様に眠りの呪いをかけてしまったのです。魔女は、王女様の呪いを解くには、真に愛する者からの口づけが必要だと言って、姿を消してしまったのです。
この話を聞いた王様は大変嘆き悲しみましたが、すぐに行動を起こしました。王女様を目覚めさせた者には国王の地位と全ての財産を譲るという御触れを出して、国内外から身分を問わず男たちを集めたのです。貴族に平民、それに司祭まで、たくさんの男たちが集まりました。
しかし誰一人王女様の呪いを解くことはできませんでした。そして王様も失意のうちに亡くなってしまいました。主人を失った城からは従者たちはまた一人、また一人といなくなり、とうとう私だけになってしまったのです。
侍女の話を聞き終わると、王子は言いました。
「事情はわかった。だから貴女は私に王女を愛し、口づけをしてほしいと、言うことなのか?」
「そうです、旅の方」侍女は頷きました。
王子は首を振って答えました。「しかしどうやら、王女への真の愛を示すのは私ではないようだ。貴女こそ、それを示すのふさわしい」
「私が、ですか?」侍女は目を丸くしました。「しかし、私は見ての通り女です」
「愛に男女は関係ない。そもそも恋愛だけが愛ではないのだ。恋人への愛、親友への愛、家族への愛、そして主従の愛だってある。貴女は、皆が逃げ出したというのに、一人王女のことを思って長年ここに残っていた。これを愛と言わずしてなんと言おう」
「ああっ、旅の方。貴方は何もわかっていません」侍女はきつい口調で訴えました。「私は愛ゆえにここにいるのでは無いのです」
「ではどうして、貴女はここにとどまり続けるのか?」
侍女は答えました。「かつて私が城へ奉公に出る時、私の母が言ったのです。何があっても主人に仕えるように、と」
王子は面食らった表情を浮かべました。「そ、それだけが理由だと? 王女へ忠誠、愛はないか?」
「全くありません。しかし母の言いつけは絶対ですから」侍女はきっぱりと言いました。「でなければこんなわがまま王女のことなんてとっくに放っぽり出してます。魔女の呪いも元はと言えば、王女のわがままが原因。彼女がいつも従者たちに向かってするように魔女を邪険に扱ったから、その怒りに触れてしまったのです。従者も領民たちも皆彼女の気まぐれと傲慢さに愛想が尽きていたのです。国中の男たちが集まっても誰一人王女を目覚めさせられなかったのも、皆、財産に目が眩んだだけで誰も彼女を愛すことができなかったからです。私は二十年でこんなに老いさらばえてしまったのに、王女は二十年美しさを保ったまま……ああっ、なんて憎らしい!」
侍女の愚痴を聞いた王子は、しばらく開いた口が塞がりませんでした。
寝台に眠る王女の顔を見ました。さっきまでは心奪われる美しさだったのに、今は得体の知れぬ怪物のように思えてきました。
それと同時に、侍女への憐憫が湧いて来ました。
やがて王子は侍女に言いました。
「なんと愚かで醜い。しかし可哀想な人だ。わかった。私が貴女を救ってあげよう」
そして王子は腰に差していた剣を抜くと、王女の喉元に突き立てました。
「これで貴女は、最後の主人も失い、ここにいる理由もなくなりました」
侍女の表情は、ぱあっと明るくなりました。
「ありがとうございます、旅の方。ついにこれで私は自由の身です。この日をどれだけ夢見ていたことでしょう」
そして次の日の朝、王子と侍女は二人揃って、城をあとにしました。
上面だけでも童話みたいなのを書きたかった、だけです。