人魚の住む沼
長めの話
メダカのブリーダーをしている同僚がいた。
同僚の名前をYとする。
一度家に遊びに行った事があった。
部屋の壁際にパイプの棚があってそこに水槽が並べられている。
壁の1面全てが水槽だった。
最近どこかの沼で珍しいメダカが発見されたらしい。
メダカのブリーダー同士の情報網によるものだと言っていた。
休日に続いて有給休暇を取って今度その沼に行くらしい。
そんな話をYから聞いた。
そして、Yは有給休暇の翌日から会社に来なくなった。
無断欠勤が3日続いて、俺は上司に言われて彼の家に行くことになった。
「彼女を見つけたんだ」
Yが虚ろな目で話し始める。
部屋には大量の水槽。
組み立てられたパイプの棚に4段に分かれて並べられている。
それが4つ。部屋を圧迫するように壁際に並んでいる。
部屋の入り口と真ん中以外は全部水槽だ。
どれも藻やカビが生えて深緑に濁っている。
隣の部屋は確認していないがおそらく同じだろう。
たった数日でYの部屋は様変わりをしていた。
「沼なんてとんでもない。とても澄んだ奇麗な湖だった」
Yの口調はまるで熱に浮かされているかのようだった。
「ボートの上から水の中で微笑む彼女を見つけたんだ」
複数のエアポンプが音を立てて動いていた。
床には大量の電源コードが散乱している。
全ての水槽に酸素を送り込んでいることが嫌でも分かる。
「水から引き揚げた彼女は美しかった。
何故か服を着ていなかったけど、体も奇麗だった。
まさに人魚だよ」
Yが訳の分からない事を言っている。
「でも、引き揚げちゃ駄目だったんだ……。
ボートに揚げた途端に彼女は腐って崩れて泥と水の塊になってしまった」
彼は何か悪い薬でもやっているのだろうか?
前回来た時にはそんな様子はなかった。
たった数日でこれほど変わるものだろうか?
俺は部屋の異様さに押されてYの話をほとんど聞いていなかった。
「ボートに残った彼女をかき集めたんだ。
クーラーボックスやビニール袋に必死に詰めて持ち帰った」
どこからか腐臭がする。
おそらく水槽から臭ってくる。
「彼女はね、増えるんだよ。
毎日毎日増え続けて今はこんなに大量になってしまった」
近くの水槽の一つを見る。
水槽の中には腹を上にして浮かんだ黄色のメダカが数匹いた。
あれほど大切にしていた鰭の形が他と違う何とかっていうメダカだ。
「だからね。会社に行っている暇なんてないんだよ」
俺は我慢が出来なくなった。
Yがおかしくなったのは明らかだ。
精神科でも脳神経外科でもどちらでも良い、病院に連れて行かなくては。
「馬鹿なこと言ってないでさっさと病院にいくぞ!」
水槽に囲まれた部屋の中心に座り込んでいるYの腕を掴んで、無理やり立たせる。
「やめろよ! 彼女が嫌がってるじゃないか!」
抵抗はされたが体力がなくなっているのか微々たるものだった。
ドンッ!
どこかで音がした。
ドゴンッ!
水槽だ。水槽のガラスが叩かれている。
思わず動きを止めて水槽を凝視した。
水槽の中の藻が揺れている。
一番近い水槽に女の顔が浮かび上がった。
水槽の奥にいたものが前に出てきて見えるようになったらしい。
ガラスを通して見えるようになったそれは、見たこともないような美貌をしていた。
外国のモデルやTVに映るアイドルなんて比べ物にならないほどの。
首から下は濁った水に遮られて見えない。
ゴツン!
その美しい顔を持った頭が水槽の中で揺らめき、ガラスにぶつかった。
まるで俺の行為に抗議しているかのように。
だけど、水槽に人が入れるスペースはない。
中に入れたとしても頭だけだ。
頭だけで生きていられる人間はいない。
「ああ、ああ、ごめんよ。僕はどこにも行かないから……」
Yは俺の腕を振り払うと、顔が浮かび上がった水槽に這いよって頬ずりをした。
ボコン
音と同時に、今度は別の水槽に左手が浮かび上がった。
ドンッ、ボコン、バコン
それを皮切りに水槽の全てから音がし始める。
数個の水槽が揺れて少し中の水がこぼれる。
部屋に腐った臭いが広がる。
ドン、ドンッ、ボコ、バン、バゴン
そして音と同時に水槽にその姿が浮かび上がった。
右手、左足の裏、肘、膝、胸、腰、尻、左手、左足の甲、指、頭……。
それらが水槽の内側からガラスに当たり音を立てている。
数が合わない。
それは人間1体分より多い数の部位だった。
「大丈夫、大丈夫だよ。すぐに一緒になれるから。待っててね」
Yは揺れる水槽を体で押さえようと濁った水に濡れながら棚に張り付く。
恐ろしい状況の中で、恍惚の表情を浮かべるYの顔がとても醜く見える。
俺は言葉を失ってその場を逃げるように去った。
翌日に上司に呼び出されて聞かれた。
「彼の自宅へは行ったのか?」
「ええ、でも彼はおかしくなってしまったようです」
怪訝な顔で上司が俺を睨んでくる。
「おかしくなった? それでどうした?」
「とにかく、俺は彼の家にもう行きたくありません」
色々聞かれて色々怒鳴られたが、俺はもう彼の家に行くことだけは嫌だと言った。
自分の責任になるのが嫌だったのだろう、上司は文句を言いながらも自分で彼の家に行く事を宣言した。
その日、俺は普通に仕事をして帰った。
上司は早めに仕事を切り上げ彼の家に向かったようだった。
帰宅途中の電車の中で上司から電話があった。
なんだかよく分からないが興奮している。
とにかく警察署に来いという話だった。
俺が警察署で担当から聞かされたのは、上司がYの家を訊ねた事。
チャイムを押しても反応がなかったので、ドアを叩いたら鍵が開いていてドアが開いた事。
Yの部屋の中に入ったら、水を吸ってブクブクに膨張したYの遺体があった事。
部屋にあった大量の水槽からは水がなくなっており、空になっていた事。
緑に薄汚れた水槽の中には、大量の骨が残されていた事。
そして、Yが生きている時に会ったのは俺が最後だという事。
俺は正直に全てを話したが、警察は信じてくれなかったようでアルコール検査や薬物検査などをやらされた。
検査が終わって俺の容疑が晴れた頃に事件の詳細を聞かされた。
どうやらYの部屋にあった骨は全部女性のもので、連続殺害事件の被害者らしい。
まだ全ての捜査が終わっていないので、全体の人数は明かせないが骨の数を見て3体分以上の数がYの部屋の水槽に入っていたらしい。
Yの死因はおそらく「水中毒」。
大量の水を飲んだために脳が膨張して亡くなったのだろうと聞かされた。
Yの体は胃に大量の泥水が入っているばかりでなく肺も泥水で満たされていたが、おそらくそれは死後に体内に入れられたものだと言われた。
とにかく大量の水の所為でYの遺体はブクブクに浮腫んでいたらしい。
大きな事件なので口外しないようにと厳しく注意された。
警察から解放されて家に着いたときにふと思った。
「Yはあの女と一緒になれたのだろうか?」
水槽に浮かんだ絶世の美女を思い出して少し羨ましいと思った。
ピンポーン
少しまどろんでいた時にチャイムの音で起こされた。
玄関に出ると宅配便だった。
ダンボールの中には大量の緩衝材と緑色の液体が入った瓶が一つ。
差出人はYだった。
連続殺人事件の犯人が捕まったので、吐き出しついでに書き込みました。
犯人はYが行った沼に死体を沈めて証拠隠滅をしていたそうです。
Yは自殺で片付けられました。
Yは沼で白骨死体を見つけて持ち帰り、変態的思考の末に自殺したらしいです。
争った形跡がないことや他者の指紋や靴跡がなかったからだと思います。
ところどころフェイクを入れているので、特定はされないと思います。
おそらく俺とYが見た絶世の美女は大昔の湖の精霊か何かで、湖が沼になってしまってその性質が変化したものだと思う。
死体を沈められた所為で凶悪な何かに変わったんだ。
だってこんなに美しいのだから。
それでは皆さん、さようなら。




