悲しいかな
1章
公衆トイレの前まで来ると、朝夏は念のために例の足跡をもう一度調べた。だがいくら探しても、入った足跡しかない。トイレから出て行った足跡は見つからない。
「ふーん」
朝夏は迷わず女子トイレに踏み込んだ。石の地面に点々と泥がついている。これをたどっていけば、居場所を突き止められるだろう。
それにしても、と朝夏は思った。ここのトイレは随分綺麗だ。涼しい空気がちゃんと通っているし、床には砂があまり積もっていない。やや暗いけれど、嫌な虫ひとついない。普通の公衆トイレときたら、空気がこもって嫌な臭いがするわ、床が泥だらけだわ、蛾や蜘蛛がまとわりついてくるわ、散々なものだ。だから朝夏は絶対に公衆トイレは使わないと決めていた。しかしここは、妙に綺麗すぎる。犯人(?)はここならば隠れてもいいと思ったに違いない。
泥は一番奥の個室の手前で終わっている。個室の扉は閉まっていない。朝夏はゆっくりと個室の前まで歩いた。そして、中でうずくまっている(そこのトイレは和式だった)わりと短髪の人間の肩をポンと叩いて、
「悲しいかな、奉孝…じゃなくて高茶。頭隠して尻隠さずだよ」
高茶はおそるおそる顔を上げた。
「まさか、泥がついてたなんてな〜」
トイレの外で靴の泥を落としながら、高茶はいまいち残念でもない様子で言った。
「気づかなかったの?」
「うんまあ、どこに隠れようか考えるのに夢中で」
「それにしちゃ、ちょっと単純な隠れ方だけどね」
朝夏は苦笑いして言った。
「で、これからあたしはどうしたらいいの」
「公園で待ってて。すぐに終わる。あと三十分もしないうちに、全員見つけてみせるよ」
「待っときゃいいんだね。…あーホッとした」
「何が?」
「いやね、さっき見つかった時さ、『悲しいかな、ナントカ』って声掛けられてまじでびびったの」
高茶は恐ろしげに身震いした。
「あん時の朝夏の声、まじで怖かった。すごく迫力あったよ」
「そこまで?」
「うん。でも、これからあたしはびびらなくていいのさ。もう見つかったんだし」
高茶は壁にもたれた。
「じゃ、お気張り」
「うん」
朝夏は、そのまま北に向かった。森に近づくにつれ、さっきの場所より蝉の鳴き声がやかましくなる。今度は、この森を探してみるつもりだった。