傷跡
「こ……れは、難しいわね」
「慣れれば無心でひたすら、ただひたすら編めますよ。“編む”というか、正確には“織る”なんですが。これを経糸、こっちを緯糸と見てください。ほら平織り」
「うわぁ本当だ! てことは、綾織り重ね織りも……」
「当然あります」
「気が遠くなるっ……」
小さく悲鳴を上げたのはプティー。
熟練の刺繍工で、その腕一本で自分と息子の食い扶持を稼いでいる。本日お休み。
彼女の部屋にお邪魔したカナエは、砂色の壁に飾られた額縁をチラ見する。
風景画と思いきやあにはからんや、プティーの手による刺繍作品というから驚きだ。超大作。
カナエは刺繍もそつなくこなすが、これは無理だ。それこそ気が遠くなるし、そもそもカナエは絵が描けない。
「とはいえ、最初は太めの綿の経糸だけで、ひたすら同じ意匠を織りまくるしかないですね。ちなみにその名も雑巾編み。先日渡したりぼんもそれです」
「可愛いのにひどい名前!」
「わたしが名付けたんじゃありません。え、なんでそんな目で見るんですか? 心外です」
プティーの薄い水色の瞳が胡乱げに細められるなんて、カナエはとっても悲しくなった。
最近、こんな目で見られることが多い気がする。
「ヒルデから聞いたわよ。害虫相手の大立ち回り」
「奴は……一匹いると、三十匹はいるといいますから」
キリッとした狩人の顔で、カナエは決然と頷く。
「だからって部屋中ひっくり返して大量虐殺なんて頼もしすぎて恐怖だわ。あのヒルデが少女のようにしくしく泣きながらウチに避難しに来たのよ……槍が降るかと思ったわ。私の部屋にも出たらお願いするわね。私も息子もアレは駄目で」
「――お任せください。アレと共存するくらいなら、最悪素足で踏みつぶすことも厭わない」
「落ち着けやめて想像させないで! 平気なんじゃなくて、大っ嫌いを通り越してるだけなのね……!」
「アレが好きな女はいないっ!!」
だが、素足で踏みつぶしてでも殺す女は極少数だと、ドン引きした幼なじみが脳内で呟いたが――、無視。
プティーの部屋は、刺繍工らしい手の込んだ数々の布製品と、数は少ないが飴色の家具で統一された、居心地のよい空間だ。
こんなところにアレが現れたらと想像しただけで――鬼神にもなれそうだ。
「あぁ気持ち悪い。綺麗なものを見ましょ。ねぇ、貴女が編んだ作品はないの?」
青ざめたプティーに話を逸らされて、カナエ自身も超野菜人になりかけたところだったのでありがたく乗る。
「大きな作品は……ないですね。手元にあるのは、これくらいです」
カナエは己の深緑色の下衣の裾から覗く下着につけた透かし編みを摘んだ。チラ見えが正義なのだチラ見えが。
さほど複雑な作りではないが、りぼんよりは技巧を凝らしている。
自分で作るから、自分では付け放題なのだが、あまり大々的に飾っているとあら不思議、歩く鴨ネギになってしまう。身ぐるみはがされるだけだ。
「あ、すてき。重ね着が上手ね」
「まー、こーゆー服なんですけど」
襟刳りの深い胴衣は下衣と共布の深緑。編み上げでの皮紐できゅっと締めて、胸元の開いた白い表着の上から着込む。
農婦の服なので、前掛けは必須。
「これはどうやって編むの?」
「これはですねー」
プティーに席を譲られて、着席する。
故郷の透かし編みの優れたところは、特別な道具がいらないところだとカナエは思っている。
もちろん専用の道具があるし、使い勝手も段違いだが、他で代用できないことはない。
現に今も、織り台代わりにプティーの小さな座布団に、支点となる針をブスブス刺したものと、ただの木の棒に糸を巻いて基本の基本を伝授している。
「…………あれ?」
簡易糸巻きを摘んだ指が、動かない。
「? どうしたの?」
「いや、なんか……あれ?」
凍り付いたようにぴくりとも動かず、血の気が引いて一気に指先まで冷え切った。
編み図は頭に入っている。
思い起こす必要もないほど、指に染み着いている――はずだった。
母から三番目に教わった、村に伝わる基本の意匠。
「指……が、うごかない?」
思うようには全く動かないのに、寒さに怯えるように、カタカタと小刻みに震えだした。
右手も左手も。
「……ちなみに、貴女の生涯(今まで)で一番の力作は?」
「…………結婚式の為に編んでいた、面紗……です……ね」
プティーの白い手が、戦慄く指先を暖めるように、カナエの指を握り込んだ。
「それは…………無理もないわね」
――どうやら。
頼みの綱であった透かし編みが、何故か、どうにも、出来ないらしい。
何故か。
――何故もなにも。
カナエは他人事のように、手から転がり落ちて床に落ちた糸巻きを見つめてぼんやりと――現実を見つめた。
「――だが腹は減る。人間だからなっ」
故に、働かねばならない。
別段今すぐ生活に困るほど手持ちが乏しいわけではないが、困窮してからでは遅い。
貯金は大切。
だが、金を稼ぎたければ、まず金を使わねばならない。金は回さないと食べられないし、増えない。
人は働けば一月で病むが――俗に言う五月病――無職は一日で慣れる。
人間の本質は遊戯ってやつだなと、ホイジンガに失礼なことを考えながら、うむうむ頷く。
気遣わしげに昼食に誘ってくれたプティーの親切を断って、カナエは真昼の街に繰り出すことにした。
帽子をかぶって、なるべく前髪も押し込んで、お財布を腹に隠す。
「あれー、どこ行くのー?」
一階薬屋の勘定台で頬杖をついていたヒルデが、目敏く声を上げた。
酒は飲んでいないようでなによりだ。
キュアノは席を外している。昼休みだろうか。
「お昼ご飯です。おすすめはありますか?」
「この時間帯なら、広場で軽食の露店がたくさん並んでるわよー。自炊するならー、実は庭に台所があったりする」
「あの小屋! 台所だったんですか!」
集合住宅の一室に調理場はついていない。寝台の他に二、三家具を置いたら一杯だ。
そんな面積事情もあるし、火事の心配もある。三階から出火しようものなら、桶中継で間に合うものではない。火事は恐るべき災害なのだ。
火事オヤジ雷地震。ときどき竜。
この世界での災害頻度だ。オヤジ強し。
規模で並べると、地震アスファル竜火事雷オヤジ……などと羅列して、うっかり吹き出した。
アスファル強し。
「女しか住人がいないのに、誰一人料理もしないなんて嘆かわしいっ! ってばーさんが建てたの。そー言われてもさー。広場が目と鼻の先じゃない? 買った方が早いじゃない?」
「しかも、みんな基本一人ですしね。一人分の料理なんて手間と労力がほんっと割に合わない。火を熾すだけで本日営業終了の札を立てたくなりますね」
火をつけるのは、多大な労力を要する。
だから一般的には、灰に埋めた熾火に蓋をして、決して絶やさぬように努める。
王都では――今までは、着火男がふふんと毎日魔法で点火するという非常に横着な生活が可能だったので、火事を恐れて毎回完全に鎮火していたが、ここでは――これからは、そうもいかない。
「でしょでしょー。だからアタシの分も作ってくれていいわよ? おなかすいたー」
「今日は外食の気分です」
「えー」
眠たげなヒルデの戯れ言を切って捨てる。
不満げな吐息も色っぽいが、同性相手にはだから肩をすくめて寄せて上げても無駄なのである。
「探検と、職探しも兼ねてるんです。出陣です」
まだ冷たいままの拳を握りしめ、ふんすと鼻息を鳴らす。
「足ー、まだ完全に傷が乾いてないんだから、あんまり歩き回るんじゃないわよー」
「了解です」
薬の劣化を防ぐために薄暗い薬屋の扉を開けると、影を指す陽の光がまっすぐに伸びた。
「いってらっしゃーい」
ひらひらと、ヒルデが手を振ってる。
振り返そうと上げた手のひらに、一瞬目を落とした。
この手が、握りしめたはずのものが力無くこぼれ落ちるのも、奪われたわけでもないのに忽然と失せるのも、真正面から奪われるのも――慣れるほどじゃないが、どれもこれも初めてでもない。
絵が描けなくても、透かし編みが織れなくても、足掻いた分だけ、まだ引き出しがある。
なんたって、どーしたって腹は減る。
朝ご飯は旅で余った型焼きパンを水で流し込んだだけだ。
もったいないから食べたけど、実に後悔した。
あれは荒む。本当に荒む。
――胸を掻きむしりたくなるほど、もどかしい疼痛に苛立って、血が湧くのだから――ついででいい。
肉よ、踊れ。
「――いってきます」
空っぽの手を振って、見知らぬ街に傷だらけの一歩を踏み出した。