壊れた箱庭
ローゼ・リーチェニヴァ・ル・シェリズは大きく息を吸い、細く長く吐き出して肺を空にする。
あの日から、時々呼吸の仕方を忘れてしまう。頭と胸腔を虚ろにして、始動の状態に戻すという行為を繰り返し、気を抜くと早駆けする心臓を宥めすかす。
あの日。
宝剣を授与され、将軍家の娘との結婚の“許可”を得た竜殺しは、礼装のまま王都を駆けた。
そして、見たのだ。
彼と彼女の箱庭の残骸を。
その直後――叛逆もせず、抗命もせず、沈黙したまま――すべての思惑を台無しにする彼の行動により、王都の状況は膠着している。
いとも容易くその情勢を作り上げた彼自身は、睨みをきかせながら王都から動かない。
平民騎士が、竜を殺した。
それは――王からすれば。
より大きく、より壮麗かつ堅牢な城を築かんと、地盤を固め図面を引き、古い物は取り壊し、使える物は改修している最中の己の庭から、特大の爆発物が見つかったに等しい出来事。
今回はたまたま降ってきた隕石を一蹴したが、今後もそうであるとは限らない。
功に報いるのは、当然のこと。
そして、決して放置できない強大な力を、己が秩序に組み込んで、適正に管理せんとするのも当然のこと。
それぞれの立場が、それぞれで用意していた腹積もりが何一つとして噛み合わず破砕するに至って――その起点となる“彼女の出奔”を招いたローゼに、訓練は厳しくても普段は優しい父親は、言葉少なに謹慎を命じた。
自室に籠もり――深呼吸しながら自らを省みる。
竜を殺した英雄は、所を得ておらず、その力に見合う地位と権力を与え責任を課すために必要な小片として、ぴったり当てはまるのがローゼだったこと。
ただ嬉しくて、頷いた。
見ていたから。
――ずっと、見ていたから。
練兵場で、王宮で、偶然すれ違うのを楽しみにしていた、声をかけることも出来なかった、背中を。
いつも探して、見つけたときは心躍って、ずっと見ていた――遠くから。
平民上がりの騎士がいる――。
それは半信半疑の噂話で、一笑に付す者と、興味本位で探そうとする者に反応は分かれた。
ローゼは、後者であった。
それとなく周囲を窺い、探し始めた。
王が、平民兵士を対象に、騎士への昇格試験を設けたのと、ローゼが王国初の女性騎士に叙任されたのは同時期――同じ、試験だった。
実力主義の国王は、無能を嫌う。
領地経営を代官や家臣に丸投げし、署名のための己の名しか書けないような貴族を、特に嫌っている節がある。
その証拠ではないが、領地や家を継げない貴族子弟の掃き溜めと嘲りを受ける近衛軍の入隊試験は、実技だけではなく、筆記がある。
文盲の貴族など、絶対に受からない。
武一辺倒でも、決して受からない。
嘲笑われても、金食い虫と眉をしかめられようとも、近衛軍の騎士は、王により選別されたという自負がある。
ローゼは武の名門シェリズ家の一人娘。
本人の希望もあり、騎士になるための教育は十分に受けられた。恵まれた環境にあった。
教育は、裕福な家の子供の特権だ。
それを知っている騎士の半数は、平民騎士の存在を当初信じなかった。
そもそも、昇格試験を設けはしたものの、それは貴族子弟の入隊試験と全く同一のもので、その試験に通る者が、初年度に出るとは考えられていなかったのがその理由だ。
これはと見所のある兵士を上官が見定め、教育を施した上で挑戦させるという段階が想定されていたのだ。
しかし、初年度にその関門を突破した者がいると、風聞は語る。
同じ試験を受けて騎士に叙任された者は複数いるが、平民は一人、女も一人――。
それがきっと、ローゼが“彼”を探し始めた理由だろう。
ローゼと同じ異分子である。目立つはずだと考えていたが、甘かった。
その人は簡単には見つからなかった。
騎士の集団に兵士が一人紛れていれば、絶対にわかる。見た目の問題ではない。その振る舞いで――だ。
近衛軍入隊試験の筆記は、王国の歴史と戦術、計算問題で作られていた。そこに、貴族の振る舞い、礼儀作法などはない。
これまで、貴族であることは前提であったから試すまでもないと省かれていた事項だ。
――目立たない。それは、兵士上がりでありながら、貴族子弟で構成される近衛軍で“浮いていない”と言うことだ。
ローゼは探し方を変えた。
これまでは、黒い烏の集団から白い烏を探すように目を凝らしていたが、それらしき人物が見つからなかった以上、その人は見た目や挙動からは判別出来ないと認めるしかない。
目ではなく、耳に頼ることにした。
そもそもきっかけは、聞くともなしに聞こえた噂話。
ローゼには、職場で会話を楽しむような間柄の人間はいない。
同じ部隊の騎士たちは、ローゼの存在を“お転婆なお嬢様の暇つぶしをかねた婿探し”と定義しているのを知っている。軽薄に近づいてくる者と、遠巻きにする者に極端に分かれ、正直そのどちらも扱いに難儀した。
職務上の事務的な会話以外で、口を開いたことはない。
聞き耳を立てるなんてはしたない行為だと思ったが、好奇心が勝った。
同じ部隊にいないことはわかっている。
ローゼの職務は要人警護で隊員は少数だ。
入隊には実家の権勢が信頼として物を言う部分がある。
要人すなわち有力貴族であるため、そんな人たちの近くを警護する任にあたる部隊の構成は、ローゼを含め、有力貴族の子弟で占められている。
平民騎士は、魔物討伐部隊だ。
その他大勢、騎士の中でも玉石混合で、名を馳せる者もいれば、うだつの上がらぬ者もいる。
「おい、ル・ステナー! 兵舎の雨漏りの修繕は騎士の仕事ではない! ただの嫌がらせだろうがっ!!」
三階建ての兵舎の屋根へ向かって吼える青年の声に、練兵場へ向かうローゼは足を止めた。
「はぁっ!? 超得意!? ~~~いいから降りてこいっ! 普請の者の仕事を奪うなっ!!」
青空に響く大きな声に、渋々屋根から顔を出した青年の髪が、黄金のように輝いている。
平凡なはずの金髪が、あまりにも美しく足を止めた。
「はっ!? ちょっ――」
一瞬惚けて空を仰いでいたローゼが我に返ったのは、怒鳴っていた青年の泡を食った声。
「え――嘘」
後の竜殺し――喜々として屋根を修理していた金髪の青年――アスファル・ル・ステナーが三階の屋根から身を乗り出し、階段の最後の一段を足を揃えて飛ぶような身軽さで―――ひょいと飛び降りた。
間に合う距離でもないし、受け止められる体躯でもない。
それでも咄嗟に落下地点へ駆けだしたローゼの目の前で、彼は自重を知らぬかのような身のこなしで危なげなく着地してのけた。
歩けば十歩の距離で、手を差し伸べたような不格好な状態で固まったローゼを一瞥した彼は姿勢を正した。
そして、堂に入った物腰で、胸に手を当て一揖し、音もなく踵を返した。
その手には、剣ではなく金槌が握られていたが。
「だ・れ・がっ!! 飛び降りろと言ったっ!?」
「ジルヴァ」
「言ってない。俺は降りてこいと言ったんだ。梯子を使って露台に降りて、室内から階段を使って降りてこいと言ったんだ!」
「言ってないだろう」
「常識だからなっ! お前は山猿か!?」
額を押さえて良識を説く銀髪の青年に、彼はふと唇を綻ばせた。
「――……にも、よく言われる」
「つまり、嫁公認の山猿。改めろよ。人類に進化しろ」
「森林狂猿は山林檎が好物。林檎は俺も好きだ」
「何故、猿との共通点を述べる……」
噛み合わない会話を交わしながら金と銀の対照的な二人は去っていった。
その日の訓練に遅れたローゼは、初めて上官に怒られた。
近衛軍の中でたった一人の女として、家名を背負い、肩肘を張っていたのに気が抜けていた。
邪魔にならぬよう、長い髪は後頭部に編み込んで纏めている。正面からだと短髪のように見えてしまうを、毎朝鏡で目の当たりにして、知っている。
女性らしいふくよかさは、仕事の上では必要がない。ないとはいえ、華やかなドレスを纏っても様にならず、背が高いわけでもないので騎士服を着ても薄っぺらく護衛対象に安心感を与えられない中途半端な身体は、少女としても騎士としても悩みの種だ。
ル・ステナーと呼ばれていた金髪の青年は、少年にしか見えないはずのローゼに、いとも優雅に“淑女への礼”をとった。
何故か恥ずかしく、どこかくすぐったく、落ち着かずそわそわして座っていられず――嬉しかったのだと、後に、痛みとともに知る。
彼が探していた平民騎士だと知ったのは、その背中を探すのを日々の楽しみにして夢中になり、探していたことすらすっかり忘れていた春の日の話。
言われてみれば、動作は貴族的であるにもかかわらず、行動自体は非常識にもほどがあった。
身分云々の問題ではない。
貴族も庶民も三階から飛び降りたりしないのだから。
――話し声が聞こえたときは、全力で耳を澄ました。
「だから。繕い物は騎士の仕事ではない。押しつけられているんだから、喜んで引き受けるな。馬鹿が図に乗るだろう」
「渾身の合作」
「なんと細緻な薔薇の刺繍――いや、誉めてない。いや見事だが、えぇいどーしてお前が図に乗るんだっ!」
その後。騎士服の目立たぬところに同じ意匠の薔薇の刺繍が施されている騎士たちの道ならぬ秘めた恋が、侍女たちの間で話題になった。
「もーそろそろ面倒くさくなってきたが、一応言うぞ。掃除を押しつけられてるって気づいているか? 気づいているな。あぁ模擬戦よりよっぽど楽しそうでなによりだ」
塵一つないの兵舎の窓辺には淡い色合いの花が飾られるようになり、恥ずかしがり屋の綺麗好きな侍女が近衛騎士のために掃除をして飾り付けてくれていると評判になり、その侍女を探し始めた騎士たちが拳で地面を叩く姿が多数目撃された。
「そんなに掃除が好きなら家でやれ。――……も喜ぶだろう?」
「好きというか、家ではやる隙がなく、兵舎が目に見えて余りにも汚いからつい」
「隙なのな……」
兵士上がりの彼は、些細だが執拗な嫌がらせを受けていた。
そのすべてを飄々と受け流しており、声を荒げたことも、暴力沙汰を起こしたこともないが。
今、想起すれば――むしろ、明らかに、どう考えても、彼は嫌がらせそのものと捻りを加えた報復を楽しんでいたのだが、遠くから見ているだけの頃は――共感めいた、義憤を覚えていた。
そもそもあの日も、ローゼは消えた模擬剣を探して兵舎を彷徨っていた。
私物が消えるのはよくあることで、その程度で済んでいるのは、ローゼがシェリズ家の娘だからと知っている。
「だーかーらー。この山猿! 階段を使え! こんなことで怪我をしても給料は保証されんぞ! 嫁と諸とも野垂れ死にたいのか!?」
「……“よっしゃーまかせろ荒稼ぎだらっしゃー!!”と叫んで――……が働く。俺より稼ぐ可能性しかない。怪我は困るな。階段を使おう」
「理由と嫁が非常識だが、その結論は支持しよう」
その声に耳を傾け――その名前に耳を塞いで。
「――――っ」
彼女を思うと、整えたはずの吐息が一瞬でぐちゃぐちゃになる。
ローゼの職務は、護衛だ。
だから、思う。
護衛対象は、卑怯だと罵られようと、護衛の背中に隠れていなくては困る。
嗜み程度の腕前で、勇敢な振りをして、共に戦うなどと嘯いて前に出られるのが一番迷惑だ。
こちらの力及ばず、身の危険を感じたのなら、こちらにかまわず一目散に逃げ出して安全を確保し、助けを待って、助けを呼んで欲しい。目の前の敵を片づけたなら、この身を賭しても、必ず行くから――。
――長く美しい黒髪を引き千切って、逸散に駆けていった背中――護衛対象として模範的な行動を瞬時にとった後ろ姿に、守られ慣れた、守られる者の誇りを見た。
ローゼは己の肉刺が潰れて固くなった傷だらけの手を握りしめる。
常に美しくあり、己の手を汚さず、助けられたらその綺麗な顔で微笑んで、あの柔らかく白い手で、己のために汚れた護衛は決して厭わずに抱きしめるのだろう。
「――……どこの、お姫様だというの」
どこの。
誰の。
彼女は。
今となっては、この国一番の英雄が、その人生を寄り添って付きっきりで護衛していた――この国一番のお姫様だっ!
「遙か高みから、見下されたのはわたくしの方――っ!」
全部全部、自分に返ってきた。
ローゼは戦える。
英雄として、否応なく、様々な思惑に巻き込まれる彼の横で、家の権力が彼を守るし、その妻として、自身の身は自身で守れる。
矢面に立てる。
危険は引き受けるから、その代わりに、貴女は後ろに下がって――と。
ごく自然に、何の疑問もなく、そう思った。
綺麗な人は。
とても綺麗な人だったから、これまで通り、綺麗なところで静かに過ごすことを、断るなど――断ることが出来るなどと、思いも寄らずに。
ローゼは戦えることを自負に、無意識のうちに彼女を見下ろしていた。
彼女は守られることを自任し、恣意的にローゼを見下した。
事実――竜を一撃で屠る人からすれば、戦いの場に於いては彼女もローゼも、ただ等しく足手纏いで、お荷物となる。
まさに、嗜み程度の腕前で、勇敢な振りをして、共に戦うなどと嘯いて前に出られるのが一番の迷惑と、己の思考が鋭い刃と化して戻ってくる。
それでも、人間相手には決して遅れはとらないと剣に縋れども、縋れども。
彼女は、王都の知人の元に身を寄せて、竜殺しとの合流をはかるだろうという当然の思考を裏切って、あのまま、あの、着の身着のままで王都を出奔し、“若い女性が一人で街を出ることなんて出来ない”という周囲の思い込みに背いて、見事に消え失せた。
逃亡は立派な護身だと、証明して見せた。
一人で買い物もしたことがないローゼは、一人で王都を出て、それで、何をどうすれば屋根のある所で休めるのか、食事を得られるのか、全くわからない――。
曲がりなりにも“戦うもの”として、“守られるもの”の彼女の思考は追えないけれど、アスファルの考えだけは、彼は無言なのに、嫌になるほど把握できる。
こちらの力及ばず、身の危険を感じたのなら、こちらにかまわず一目散に逃げ出して安全を確保し、助けを待って、助けを呼んで欲しい。
――目の前の敵を片づけたなら、この身を賭しても、必ず行くから――。
「いや!」
嫌がっても、泣いて喚いても、そういうことだ。
でも、嫌だと心が叫ぶ。
守られるだけの、虫も殺さぬ顔をしたお姫様なんかに負けたくないと、喚き散らす。
負けたくない、負けたくないのに、戦おうとしない人に、どうやって勝てばいいのかわからない。
ずっと見ていた。
――見ていただけだ。
騎士になりたくて、騎士になるために、貴婦人の手を捨てて、剣を握り、毎日毎日鍛練を積んだ。そうして騎士になったのに、どうして何の努力もせず、欲しい物が手に入ると――思ってしまったのだろう。
降って湧いた幸運に喜んで、頷いて――彼と彼女がどう思うかなど一切考えが及ばなかった幼さは――粉砕された。
ローゼが壊した、彼と彼女の箱庭の残骸とともに、鏡の破片のようにさまざまな感情を乱反射して、眩しくて暗くて入り乱れて、目眩がする。
「わたくしは、わたくしに出来る方法で、ひとつひとつ頑張ることから、始めるしかない……」
ローゼは彼女ではなく、彼女にはなれないし――なりたいとも思わないのだから、自分なりに、自分の方法で――ぶつかっていくしかない。
これ以上砕け散るものなど、何もない。
同時刻。
クスートン伯爵領ペイジュラの一角で、ひとつの小さな命の灯火が、消えた。
「うちとったりーー!!」
「ちょ、それ持って近寄んな自慢すなあっち行けきゃあきゃあきゃああああぁぁぁぁ!!」
可憐な悲鳴を上げて逃げまどうヒルデに、凶器となったハタキを振るカナエ。
「わたし! これの退治だけはアスファルより迅速的確一撃必殺なんですよ! 台所を預かる主婦ですから!」
「竜殺しを上回る反応速度とか何それこわい。この外見詐欺女! てか来んな、来ないで、お願いします」
「いやでもそのまんまってわけにも……」
「捨ててーーー!! ハタキごと捨てて! 動き回らないで潰れたアレが落ちる落ちるおちっ」
「あ」
「ふぎゃああああああああ!!」
とある外見詐欺女がヒルデを泣かせていた。