青天の霹靂
目の前が真っ黄色に染まった。
不快に明滅したかと思うと、端からじわじわと不透明な白い膜が侵蝕し視界を覆っていく。
両目をかっ開いているはずなのに、何も見えない。
頭痛と耳鳴りが襲いかかり、指先が一気に氷のように冷たくなった。
全身の毛穴という毛穴が開いて、どっと冷や汗が噴き出す。
倒れそうになり、しかしカナエは踏ん張った。
か弱くぶっ倒れている場合ではない。
「立ったまま話すようなことではございませんので、中に入ってもよろしいかしら?」
まだ少女らしさを残した声が、断られる可能性など微塵も抱かずに形だけの疑問系を用いて“命じて”来た。
あまりの図々しさに今度は頭に血が昇る。
明らかに脳貧血の症状だっただけに、家出していた血液が帰還すると視野も正常に戻ってくれた。そうとわからぬように取り縋った玄関の扉から手を離してまっすぐに立つ。
冷たい目で睨まぬように軽く目を伏せ、カナエは半身になって中を示した。
「……どうぞ。なんのもてなしも出来ませんが」
そうしてカナエは招かれざる客を招き入れざるを得なかった。
――塩を撒いて追い返すという選択肢は、与えられていない。
たとえそれが、先触れなしの電撃訪問初対面の開口一番に名乗りもせずに玄関先で「わたくしと、アスファル・ル・ステナー様との結婚が決まりましたのでご挨拶に参りました」と宣った、脳内お花畑娘であろうとも。
相手は貴族で、カナエは庶民だから。
たとえアスファル(それ)が、カナエの婚約者の名であろうとも――。
玄関開けたらすぐに居間兼食堂。台所と食卓は背の高い籐の衝立で仕切っている。この他に寝室と書斎、小さいながらも庭がある。路地の突き当たりの平屋の一軒家。
若い男女の二人暮らしには贅沢な物件なのだが、貴族のお嬢様から見れば衣装部屋より狭いだろう。
出会い頭の一言を鑑みれば、カナエは下手に「狭いところですが」なんて謙遜もできない。
お姫様には事実狭いだろうし、家主はカナエではなくアスファルだ。控えめに振る舞ったと通じなければ、それは単にアスファルの甲斐性を揶揄する台詞と取られ、彼女の未来の旦那を嘲ったと認識されれば、カナエを始末する口実にすらなる。
そう、ぶっ倒れている場合じゃないのだ。
カナエは今、婚約者を奪われるだけにとどまらず、命の危機に瀕しているのだ。
小さな食卓に二脚の椅子。
刺繍を施した麻の掛け布の上を占領するように、編みかけの花嫁の面紗が鎮座している。
雪の結晶のような花とへら状の葉は、故郷の短い夏に咲くラウデ。主に腹痛に効く薬草でもあり、薫蒸などにも用いられる。
その白い姿形から、純潔の象徴として、故郷では花嫁衣装の意匠の定番だ。
二十個もの糸巻きを駆使した複雑な透かし編みの面紗は、いつの間にかとても長くなっていた。
十七の時に両親を亡くした。
家族になろうと落ち込むカナエを励ましたのが、隣の家の、二つ年下の男の子。
一緒に遊び、一緒に育った。
遅かれ早かれ、いつか一緒になるのだとお互いが思っていたから頷いた。
しかし予想外の非常識な横槍が入り、カナエとアスファルは手に手を取って故郷を出て、王都へやってきた。
ツテもなにもない田舎者二人の王都生活は手探りで、ギリギリで、今までの暮らしとはまるで違った。
お互い懸命に働いたが、なかなか結婚費用が貯まらなかった――貯まる度、何かと物入りになり、持ち出しざるを得なかったのだ。
だから、カナエとアスファルは五年も共に暮らしながら、法的には未だ赤の他人。
式が延期になる度に、カナエは面紗を編み足した。
面紗は長ければ長いほど、二人は幸せになれるという。
故郷では当たり前の女の手仕事である透かし編み。冬の間に内職した編み物は、町で飛ぶように高く売れる。
透かし編みに長けた女は、生活に困らない。だから男にも末永く大切にされる――そのあたりに端を発したと思われる縁起だ。
少女の視線が卓の面紗に釘付けになっている。
王都では糸の宝石とすら呼ばれる透かし編みだ。有名なのは隣国のヴェニアの透かし編みで、カナエの故郷のそれとは趣も技法も異なるが、熟練の技術と作製に長い時間を要するのは共通している。
六年の歳月をかけて、幸せを祈り、丹誠込めて編み込んだ。王族ですら纏えないだろう長さの、引きずるほどの純白の面紗だ。貴族のお嬢様とて、目を奪われるだろう。カナエは村一番の編み手だったのだ。
おそらく売れば、カナエは十年遊んで暮らせる。
しかし他の誰でもなく、この小娘にだけは売るはずもなく、少女も欲しいとは口にしない。
奪うものと奪われるもの。貴族と庶民。
負けるとわかっている勝負でも、気絶することも逃げることも許されない。
奪うものと奪われるもの。貴族と庶民――だからでは、ない。
女の意地と矜持が、カナエ自身が。
目を閉じて耳を塞いで、縮こまることを許しはしない。
こう見えて――年齢の二倍は人生経験のある、転生女ですので――っ!