弱虫の決起
9
その日は、誰もが、運が悪かったとしかいえなかった。
僕が告白しようと芹澤さんを待ち伏せていた時、芹澤さんと僕が、マレビトに出逢ってしまったからであるし、熊崎が前の担い手を何者かに殺され、マレビトに追われていた時、沢田とクサナギ計画の発案者にこちらも出会ってしまったからである。
どうして、そうなったか?
理由は知れない。
ただ僕が覚えている記憶は、路地裏で息を潜めていた自分が、芹澤さんの悲鳴を聞いて路地から飛び出してからである。
飛び出した僕が見たのは、遠くで悲鳴を上げた芹澤さんではなかった。
それよりも、狂暴な犬型のマレビトの姿であった。
――はじめは、極上の冗談だと思えた。
アンナモノ、いるはずが無いのだ。
こんな事を考えてたんじゃないだろうか?僕は。それから、直ぐに僕はパニックになった。助けるべきか、助けないべきかで、悩んだんじゃない。どう逃げるかで、僕は悩んだのだ。
まったく最低だと、自分でも思う。
それで、芹澤さんが僕の存在に気付いていれば、話は違ったかもしれない。だが、その時。彼女と僕の距離が遠かったのと、芹澤さんの注意がマレビトにひき付けられていたことが、僕の言い訳をより強固にした。
本当に、男児としてあるまじき行為だった。
僕は静かに、なおかつ、素早く逃げ出した。
本当に、僕は芹澤さんを置いて逃げた。
怖かったよりも、畏れたのだ。
訳の解らない事に、何時ものように目を逸らした。それだけの事だ。格好よく苦難に立ち向かう、物語の主人公のごとき胆力なんて、僕には持ち合わせが無かった。
危ないから逃げる、凡人として当然の感情だった。
逃げた理由は簡潔である。
命が惜しかった。
そして、よく解らないことから、一刻も早く逃げたかった。
だから、悪い夢の中にいる気分で、無我夢中で走った。しかし、そうそう、脚が続くものでもない。やがて僕は、マレビトに追いつかれ(もしかしたら二体いたのかもしれない)、組みふせられた。
今でも薄く残っているが、その時、僕は脚を斬られた。
その明確な痛みと、流れ出た血の感触で、僕はコレが現実だとやっと観念した。
観念と同時に、ドッと恐怖や脅え、それと混乱が襲ってきた。
誰がこのような死に方を想像でも描くのだろう。通り魔や事故、テロ。そういった、半ば無意識的に『我が身には起こらないだろう』と、凡人が思っている出来事でもなく、僕は出来の悪い怪奇小説のような死に方をしようとしている。
死ぬ事が怖かった。
あまりに印象の薄い、二十歳に達さない人生でも、惜しかった。その時は、普段死んだ方がマシだなんて、後ろ向きの考えは綺麗さっぱり消えうせて、ただただ見苦しく、生きたいと願っていた。
だから、万が一のためにポケットに入れていた十得ナイフ、失礼カッターをマレビトに突き刺したのは、悪足掻きだった。―――ところが、窮鼠猫を噛む、とまで僕の幸運は届かなかった。刺した筈のナイフの感触は、石にでも当てたかのように固く、刺した筈のマレビトには傷一つ与えていなかったからである。
これに僕は驚いた。
全くの無力、と言う物を、俺は初めて経験しながら、マレビトが咆哮するのを眺めていた。何故、眺められていたのかは解らない。
ただ、自分を客観視しているような感覚の中、俺の首を目掛けて噛み付こうとする牙を見ていたのだと思う。それで僕は自分が殺される事を確信したのだが、その確信は瞬きする前に消え去った。
何故なら、沢田が、マレビトに切りかかったからである。
棒状の何かが、マレビトを叩く。
その弾みで僕はマレビトの馬乗りから解放された。
「大丈夫か」
彼は、まるで英雄のようにそう言いつつ、僕を引き起こした。
それから僕に背を向け、奴は何処で拾ったのか、汚らしい角材を構え、マレビトを向き合った。良く見れば、沢田は何者かと喧嘩した後のように傷だらけだ。それで僕は、沢田が既に目の前のような何者かと、殺されかけてきたのだと知った。
その時の沢田の背中は、どうしようもないほどに、非力だった。
普段の態度は微塵も無く、クラスの乱暴者と言えど、この状況では震えを押さえるので精一杯だった様だ。
僕は、その時、沢田と残りマレビトに立ち向かうことも出来た。
もしかすれば、二人なら勝てるかもしれない。しかし、確証がなかった。
――だから、僕は戦う事をせず、僕は沢田を犠牲にして逃げることにした。この時、僕はこの場に残る事も出来たのに、逃げた理由は簡単である。またしても、自分の命が惜しかったのと、沢田の行為に非常に偽善の匂いを感じたのと、酷く不快感を覚えたからだ。
僕は自分が利己主義者だと知っている。
自分の身が一番可愛いし、俗物だから死ぬのも実際怖い。
お金持ちになりたいし、できれば名誉も名声も欲しい。
…だから、沢田の行動が賞賛に値する勇気ある決断だとは理解できるさ。
だからこそ僕は、彼の行為を非常に不愉快に感じた。
なぜなら僕らは兵士でも、ましてや英雄でもない。男は敵と戦うとは相場が決まっているが、怖いものは怖いのだ。そして勝てないことを、傷つけられないことを僕は知っていた。だから、僕と共に逃げればよかったのに、アイツがソレをしなかったことを、僕は非常に不快に思った。
こんな時まで、プライドなど持ち込まねばいいのに、奴はクラスメートにいい格好をみせたかったのだろうか。それか、怯えを僕に悟られたくなかったか?
…どちらにせよ、彼は無様に生きるよりも雄雄しく死ぬ事を選んだ。
僕はソレが嫌いだった。
死んで何になる、生き恥曝しても、僕らは生きるしかないと言うのにだ。それなのに、沢田は逃避しやがった。僕は、沢田も切羽詰れば、自分と同じ行動をとると踏んでいたから、よけい彼の行動は理解できなかった。
そうして、残してきた沢田の事を考えながら逃げていた僕は、またマレビトに襲われた。再度、組み伏せられ、今度こそ万事窮するはずだった。
先程のようにエイユウモドキが助けにくるとは思えない。
これ以上、都合の良さそうなことは起こらない。
そう思った。
ここで、ジエンド。
ゲームオーバー、
あるいはチェクメイト。
だが、意外なところで巻き込まれるのが人生であった。
僕は、意地汚く最後まで生きようともがいていた。それが、偶然を巻き起こした。マレビトを突き飛ばそうとした瞬間だ、逆さ向きの視界の隅に、誰かが見えた。
マレビトは、僕を組み伏せたまま、そちらを見た。
そうして、行き成り僕の上からはなれたかと思うと、低い唸りをあげて、遠くで構えた。ワケがわからないその行為に、僕は、非常に驚いた。
もちろんソレは、余命が延長された事についてだったが、その誰かも気になった。
慌てて体を起こすと、そこには――嶋の外套を着ていた、熊崎がいた。
またしても(今度は男物のトレンチコートを引っ掛けただけの女だった)、自分を庇う為にマレビトに立ち向かった人間に、僕は少なからず驚いていた。そして、怪物を警戒させる女が、自分にこう話しかけてきた時には、もう僕は限界だった。
「ねえ、生きていたい?」
僕は、いっそ笑い出したい気分だった。
怪物、美人、想い人の危機、それから恋敵。
色々な事が頭を掠めたが、僕はその時、どうでも良かった。
今なら、自暴自棄に他ならないと言えるが、その時の僕には目の前の女に答え、縋るのは当然の流れだった。―――死にたくない。それに類する返答を、僕はしたのだろう。滅多に笑顔なんて見せない熊崎だが、その時だけは、彼女もまた、観念したように微笑んだ。
ひどく疲れた暗い笑みだった。
そして、彼女と僕は、契約した。
契約といっても、大袈裟なものではない。簡易式の酷い奴だった。契約の呪詛は僕らを繋ぐ。確かに契約は果たされ、僕と彼女は、担い手とその応化儀杖としての呪いを、受理した。
そうして、僕は初めてながらも、マレビトを切り殺す事に成功した。
横一閃、今でもあの感触を覚えている。