呼び止めたら
僕は何も言わずに、ただずっと彼女の隣に腰掛けていた。
熊崎が何も言わない上に、僕も何を言えばいいのか、迷っていたから、無駄に時間だけが過ぎて言った。そして、無意味にどれだけ座っていただろうか?
「部屋に、こない?」
熊崎は、ポツリと、そうとだけ言った。
それから彼女は立ち上がると、早歩きで歩き出した。
僕は、熊崎の後を追いかけて、割と大きなマンションに入った。
一緒にエレベーターに乗り、無言で、玄関の前まで来た。
熊崎は、鍵を開けると、部屋の中に入った。
僕は、少し躊躇して、それから彼女の部屋の扉を開けた。
「…おじゃまします」
「気にしなくていい、一人暮らしだから」
そう、熊崎は言って、僕のスリッパを出してくれた。割とシックなやつだ。
「ありがと」
女の子の部屋に上がった経験は無いことは無いが、しかし一人暮らしの女子の家に上がった経験はコレが初めてだった。
廊下を歩いて、ダイニングへと、僕らは入った。
熊崎の部屋は、一人暮らしなのに、僕の部屋と同じで、生活感がまるで無かった。
やっぱり予想は外れていなかった。
熊崎も熊崎で、壊れた家庭で育ったのだろう。
「…勝手に座って」
そう言われたので、僕は近くの椅子に座った。
どうして、こんな事になったのだろうか?
単に、校門前で、熊崎が僕を待っていて、その時、沢田と芹澤さんを見ただけの話の筈だった。けど、熊崎はそれが耐えられなくて逃げ出して、僕が熊崎を逆に捕まえた。そんなカンジなんだろう。
特別悲しいことも無かった筈なのに、なんでコイツは、こんなにも辛そうな顔をするんだろう?
「どうしたんだよ」
僕は、最近の熊崎の情緒不安定な面を心配して、聞いた。
「………あのさ、直江は、」
熊崎は、本当にただの女のような不安げな表情をみせると、何かを語ろうとした。
「いい、止める」
けれど、そう零して彼女は言うのをやめた。
僕は、聞けたけど、聞かないでおいた。
…きっと聞かれたくないから、彼女は黙ったんだから。
沈黙が続く、腕時計の針が回る。僕は、何か言おうと必死で考えていた。
そんな、重い空気を破ったのは、彼女の方からだった。
「直江、沢田って元気だった?」
変なことを聞くが、僕は重い沈黙に耐えるよりマシだと考え、答えた。
「沢田がどうかしたのか?」
「…別に」
目が泳いでいた。
「嘘だろ」
「…違う」
「本当に?」
「……」
熊崎は息を吸い込んで―――深呼吸。
彼女は、それからポツリと言った。
「懐かしくて」
懐かしい?
その表現で、僕はちょっと不思議に思った。美少女と、基本的には冴えない野球部員、沢田に何の縁が在るんだろう。
僕が、疑問に思うと、彼女は、こう言った。
「私さ、昔、沢田の家の近くに住んでたんだ」
初めて聞く話だ。それから、彼女は続けた。
「私は、いらない子で、だからしょっちゅう彼と遊んでたの」
いらない子、妙に引っかかるフレーズだ。
それから、こんな事を熊崎は俯いて零した。
「昔はショートカット、今は長いけどさ…アイツ、言ったこと忘れたのかな」
「………。……」
結構長く、熊崎を見てきたが、こんな様子は初めてだった。
自信喪失、とでも言えばいいのか、そんな様子だ。僕は、地雷かも知れなくても尋ねてみた。
尋ねなきゃ、いけなかった。
「あのさ…いらない子?ってどういう意味だよ…それって、親に…愛されなかったからとか?」
それ以外に思いつかない。
後は虐待されたりとか、か。
暗い家庭を予想していた僕に対して、彼女が告げた真実は、もっと残酷だった。