熊崎の杞憂
1
家に帰れば母からの連絡があった。
どうやら夕食を食べに行かないかと言う旨の誘いだった。しっかし、あの人も仕事が忙しいのに、まめな人だ。僕は父さんもあるからさ、とか言って辞退した。
なんとなく、今日はそんな気分じゃなかった。
それに、親と顔をあわせ辛いというのも在る。これでも、思春期の少年だ。多少の異常を含んでいる可能性があっても、現代日本に生きているのだから、他の少年のような面もある。
だから、この頃”も”両親と顔を合わせ辛い。
けれど三者懇談は控えている、嫌な話だ。
そして僕が、受話器をおいてソファアに戻ってメロスを呼んでいると、また家の電話が鳴った。
だれ?
親か?
それとも学習塾の勧誘か?
僕はナンバーディスプレイに変えるべきだったと思いながら、受話器をとった。
冷たい樹脂の感触がした受話器から、
聞こえる声は、知ったアイツだった。
『もしもし』
『はい、直江ですが…』
『直江』
『熊崎…か』
『ね、時間在る』
『どうして』
『会って話したい』
『いいけれど』
『駅前の河合で待ってる』
それだけ、言って彼女は通話を終了したらしい。
つーつーつーつーつー。
「なんだよ、いったい」
訳が解らない上に、一方通行な言い方だった。
切羽詰ったようにも思えたが、何かあったのだろうか?色々と考えさせられて、僕はちょっと、熊崎をまた一つ嫌いになった。
やはり、僕の周りの人間は、本当に僕の都合とか心を解ろうとしないな。
だけど、僕も僕で相手の心に歩み寄る努力をしていないのだから、我が侭なんだろう。そのはずである。
駅前の河合といったらあの河合だろう。
どこかのCMで見るロゴが光るビル前の向かいに、僕は駐禁でレッカーされると知りながらも、GSRを停車した。目の前のビルは、大手学習塾だから、駐輪場も備えられているだろうとは知っていたし、そこに駐車すればいいのだとも解っていた。
が、出来ない理由があった。
仮に駐輪場にコイツを停車したとしよう。
浪人生の原付の隣にでもコレを停めたら、スグサマ十円傷のエジキになるか、ハンドルロックを外された挙句、エンジン直結で無断拝借の被害にあるとは用意に推測できる。イモビ?無駄だね。
その妄想が拭えなかったのと、あと駐輪場に停めても、U字ロックを忘れた為、トラックで丸ごと盗られる危険性もあったから、こうして向かいのビル前に停車したわけである。
「…さて、どうするんだ?」
急いできたから、僕は学生服にコート、モノトーンのマフラーを巻いてきただけだ。携帯電話とキャッシュカードはポケットに入れてきたが、携帯はならないし、熊崎が出てくる気配も無い。
オイル交換でも無いのに、ビルの前でアイドリング。
そんな僕の姿は間違いなく目立つらしく、街行く人がちらちら見てくる。
…僕はエンジンを切ると、ヘルメットをハンドルにひっかけバイクから降りた。
てっきり、あんな電話を寄越すんだから、熊崎はもう待っていると思ったのだがな。
見当違いであったらしい、僕は溜息をついた。
熊崎が出てこないなら、呼びにいくだけだ。
僕は、そのビルに入る為、横断歩道を渡る。それから、ごく自然に生徒の風を装って自動ドアを潜り抜ける。入塾の際、IDカードのようなものを必要とするらしいので、僕は一先ずこれ以上の詮索を止めると、エントランス脇のトイレに、潜んだ。
用を足すフリをして、他校の生徒を待つ。
来た、警戒が緩そうな優等生タイプ。
僕は彼のそばまで、歩み寄る。
と、問答無用で手刀を延髄に叩きいれた。呻く暇も叫ぶ猶予も無く、続けて膝を下腹部に入れると、完全に昏倒させた。あとは、IDカードを拝借して個室に押し込むだけだ。手早く、革の長財負からカードを抜き取る。
昏倒させた二年生の黒田清吾クンには悪いが、僕は彼を洋式トイレの便座の上に座らせると、内側から個室の鍵をかけて自分は、壁をよじ登って脱出した。
ちゃんとズボンは脱がせておいてやったぜ。
ちょろいもんだ。
そして、拝借したIDカードでゲートをパスする。
帰りのゲートも、IDカードが必要とされるらしい。
僕はゴミ箱にカードを投棄せず、そのまま内ポケットにしまった。
熊崎はどこにいるのやら?
授業をしている教室に入るわけにはいかず、僕はうろうろしていたが、ふと自習室の存在を思い出した。昔、この手の進学塾に通っていた友人が、自習室で勉強していると言っていたか。
僕は、自習室そうな教室を探す事にした。
案外早く、自習室は見つかったものの、熊崎の姿は無かった。
空崎女子の制服や我が校の生徒、あとは近くの男子校、とか公立とか色々な学校の生徒たちが勉強していただけで、熊崎の後姿は見当たらなかった。けどまあ、静かな空間だ。机に多数の生徒が向かって黙々と作業している姿は、学問を修める学生の姿としては正しいんだろうケド、なんか異常な気がした。
けど、自習室に来て突っ立ているのはマナーに反しているらしい。
休憩から戻ってきた様子の受験生が、案山子のように立つ、僕の姿に舌打ちした。僕は、面白くなかったので、見えない角度でソイツの足を払うと、自習室を出た。
転んだ生徒は、何が起こったか解らなかっただろう。
いい気味だ。
「……」
ったく、熊崎は何処にいるのか?
昔、父が読んでた、チーズはどこに消えたかじゃないんだぞ、と僕が思っていると、携帯電話が震えている事に気付いた。
どこにいるの?
そんな内容の素っ気無いメールだったのだが、 君を探しているのに何処は無いだろうと、僕はムッときた。
そして、返信をしながら歩いていると、談話室に熊崎はいた。
ベンチに腰掛けてベンダーの前。
紙コップで、ホットの何かをチビチビ飲んでいた。
「よ」
僕はイライラしてはいたが、彼女に声をかける。
「え?」
意外そうな顔をして、彼女は僕を見る。どうして僕がここにいるのか考えているようだ。
「どうやって、入ったの?」
「いいから、出よう」
僕はそれだけ言うと、熊崎を連れてさっさとビルから出ようと思った。
…のだが、彼女は僕を呼び止めた。
「待って、ここで話そう」
あー、トイレの中の黒田君が暴れるまでなら。
そう言いたいが、黙っておく。
自己PRのように、僕が先ほどしてきた犯罪行為を熊崎が知ると、こいつは不愉快になる。犯罪の自慢なんて最低だしね。
「…で、用件って何なのさ。僕、羅生門を読みたいんだが…」
自販機で冷えたコーラを買ってからたずねる。
あんな電話をしたのだ、よっぽどの用件なんだろう。
だけど、今日は、何時もなら僕に対してズバズバ発言する熊崎の姿はなかった。今日の彼女は、本当に、ただの女子みたいだった。
「沢田と…芹澤って、その…」
両手でコップを押さえて、黙り込む。
その仕草は、普通だ。
普通すぎて有り触れて、マスプロのダイキャストみたいなものだ。
だから、僕は彼女がそうしているのを似合わないと思ったばかりか、一瞬、熊崎がするか?思ってしまった。
「…付き合っているって、ほんとう?」
ガシャコントと音が鳴る。
やつれた様子の受験生が、C1000武田を買っていった。
「そりゃ、まあ、そうなんだろう?え、違う…うん?いや、あれは」
俺は、本気で焦った。
熊崎が、そんな乙女な事を聞くとは思わなくて、驚いたのもある。
そしてなにより、この状況下でそんな言葉を吐いた、熊崎に対してだ。…談話室には、まだ多少の人間が残っていた。
熊崎を抜刀せずとも、十分殺してのけられる数だが…
いかん、視線が耐え難いものになってきている。
そこそこ可愛らしい先輩を悩ませる原因の発言。
そしてそれは僕が二股をしている男だと、
周りに誤解させるだけの十分な威力を誇った。
「……………」
仕方なく、何故か身についた殺意というものを僕は振りまくことにしました。
ええ、僕が殺意を発揮した瞬間から、同席する皆さんの様子が変わりましたね。怯えているようです。
談話室から逃げるように、おびえるように人が逃げていくのもすばらしいなぁ。
とうとうこんな異常まで操れるようになったのかとも、思うと悲しくなった。
僕がやったのは、ただこの部屋にいた僕たち以外の他人を殺してみようと意識しただけである。
そしたら効果は覿面だ。
恐るべきは殺人鬼としての嶋の技能か…
そうして作った静かな空間の中、熊崎は僕の話に耳を傾けていた。
「…あの二人は担い手と応化儀杖の関係性以外にないね。浮いた話もない」
事実だった、あの二人の距離は僕らとは違い遠いままだ。
もっとも険悪になることがはなはだ多い僕らよりは、マシであるんだろう。
「そっか」
そう言うと、熊崎は、凄く安心したらしかった。
見れば表情も明るくなっている。
なんで、きになるんだ?
そう野暮なことを聞きたいが聞いても、きっと熊崎は言わないしなあ、と思った。
「気にしないでよ、変な意味は無いから」
そしたらその通りだった、一人納得した熊崎はカップをゴミ箱に投げ捨てるといった。
「じゃ私バスで帰るから」
断言だった。
そして彼女はカバンを掴むと、ハヤテのように立ち去った。
僕は一人取り残されて、唖然となった。
おいおいおいおいおい、よびだしておいてそれはねーだろ。