現状への倦厭
5
寝不足の朝だから、気持ちはもっと眠っていたかった。
でも行かないと遅刻だ。厄介だなあ、と呟いて、僕は支度をした。朝食をインスタント珈琲だけにして、バスに飛び込み、空いてた席につく。窓からさす日が明るかったので、目をつぶった。
バスの発着音で目が覚めた。
焦って見れば、とっくに降りるべきバス停は過ぎている。ヤバイと、真剣に思った。なので、蛮行だとは知りつつも、隣で座っていた大学生風の男を押し退け、突っ走った。それで、外に出ると、学校が遠くに見えた。
腕に巻いたGショックを見れば猶予は無い。
走る意外に選択肢は残されておらず、結局遅刻覚悟で走った。
途中で靴紐がほどけて、転んだ。
悪態をつくにも息が切れる。なんとか教室まで駆け込もうと、町を走るが、遠い道程に、挫けそうになる。やっとの思いで正門をくぐり抜ければ、チャイムが鳴った。
遅刻である。
そして、また生徒指導部の教師に捕まった。
で、遅刻ナンタラと言う紙を書かされながら説教を食らった。学生証を見せろと言われ、僕はスラックスのポケットを探って気付いた。
財布を落としたらしい。
学生証も財布に入れていたから、どうしようもなかった。
学生証が無いことを、変に言い訳すれば逆効果であるから、何も言わずに大人しくしていた。
なので普通の倍ほど指導を受けたかも知れない。
非常に、嫌な日である。
体育の授業で、剣道をやることになった。
臭い防具を付け、竹刀を振っているだけの筈がない。案の定、試合をやるからと、体育教師が適当に呼んだ出席番号ごとに、試合をする事になった。
迫力のない模擬戦を眺めていると、番号を呼ばれた。
立ち上がり、相手を見れば、沢田である。
面倒臭い相手だと、すぐに知れた。
負けても勝っても、何かしろのアクションはあるだろう。これだから目立つ奴と試合とかをするのは億劫だ。そんな、憂鬱な気持ちで、僕は試合に向かう。
体育教師の初めの声で試合が始まった。
「セイヤァアアアアアアアアッ!」
馬鹿正直に、沢田が腕力に任せて撃ち込んでくる。
不思議なものだ、咎獅子を携えてもいないのに、ヤツの太刀筋が見える。どうも、技能が身に付き始めているようだと思いつつ、軽くかわした。
何時もより簡単だった。
すると奴、空振りした。これで僕は、沢田に勝つのか負けるのか、どうするか、非常に迷った。けど、馬鹿正直に負けるのは面白くない。なので、僕は避けられる一撃を、とりあえず防いでみた。
流石竹刀、軽い。
簡単に沢田の竹刀を防ぐ。
ヤツは驚いたが、そのまま後ろに飛びながら、胴を放つ。
確かに、上手い手ではあるが、芸も捻りもない。先日の刺客の方が良い動きをしていた。僕はクルリと竹刀を反し、刀身に手を添えて、胴を防ぎきる。竹刀同士が打ち合う音がした。
が、その音で僕はフト、思い出した。
“あれ、そう言えば剣道って片手を離しちゃ駄目だったよな?“
そう思ってしまった時だった。
僕の動きが鈍ったのを好機と見たんだろう。
沢田は、勝鬨のような声を上げ、面を狙ってきた。大振りの上段から、踏み込みを生かした面である。重い、上に速い一撃とは容易に理解出来るものの、当然わかりやすい一撃だった。
でも、そんなテレフォンパンチのような面でも、隙をついてきてたので普通ではかわせない。…普通ではとは、剣道の動きでは間に合わないと言うことである。
沢田の攻撃が当たるまでの刹那的な間に、僕は動き出していた。
右の腕を振るいつつ、左手の竹刀を構えた。
竹刀側面に、籠手ごとの打撃を当て、強引に軌道を変える。それと並列して、握りしめた竹刀の突きを見舞ってやろうと、竹刀をヤツの喉笛を狙う。
あとは、腕を真っ直ぐ伸ばしてやればいい。
それで、決着だ。
それで終わる。
そうして僕は腕に力を込めた。
呆気なく、沢田の太刀筋は曲げられ、かわりに僕の竹刀が彼の喉笛めがけて伸びる。
「な…ッ!」
面越しの沢田の瞳に、驚きと恐怖が宿る。俺は、その表情を愉快に思いながら、腕を伸ばす。喉笛に噛みつかんと、竹刀が進む。防具と、その隙間を縫って、竹刀は咽頭に突き刺さるはずだ。
まず、殺したと思っていいはずだ。
“けど、殺していいか?“
そう、思ったところで、僕は不味いと感じた。
焦って、僕は体に急ブレーキをかける。無様な体勢でも、びたりと、腕を止められた。遅れていたら、学校で殺人を犯すことになっただろう。
危ない、沢田を殺すところだった。
そう僕が在り得た可能性について考えたとたんに、体育教師がすっ飛んできた。
なんでも突きは禁止、それを使うとは直江、お前は何を考えていると言われた。
当然だ、殺す必要もないまま、殺す技を使っていたのだから。
なので試合は、反則負けになった。
沢田の回りは、ぶちのめせばよかったのにと、口々に言っていた。が、沢田は信じられないような物を見た目で、僕を見ていた。僕に、ヤツが何を思ったかなど、知れないが、それでもずいぶん強い視線で見られた。
それが、僕には戸惑いと、嫉妬の気がした。
見下げているからそうなるんだろうなあ、と思いながら、僕は竹刀を棄てた。
教室に戻ると、携帯に着信があった。
熊崎からのメールには、用事があるので来いとだけ書かれていた。
もう沢山だ。
ごく普通に僕は、そう思った。