少年は少女と
一章 少年は少女とすれ違った
1
どこかで、風に吹かれたトタンが鳴っていた。
時刻は、夕暮れ。廃ビルの大きな窓から差し込む西日は、驚くほど紅かった。きっと、写真や映画で言うところの、マジックアワーに近かったのだろう。明かりの中を、細かい埃の粒子が、キラキラと舞っていた。
けれど、僕はこの景色を、美しいとは思わなかった。
寧ろ、脳裏を過ぎった言葉は―――逢魔が時。
何かの災いを感じさせる、その時刻に、こうしてもっぱらでると噂される廃墟に立つ僕に、そんな詩的な心持はなかった。逆に僕の心に在ったのは、逃げ出したいと言う気持ちで、嫌だ嫌だとずっと思っていた。
僕は、腕に巻いたアナログのエルジンに目を落とす。そんな心持だからか、一秒が凄く長く感じたし、酷く苦痛な時間だった。――ただ、その猶予もあと少し。時計の針が、五時五十二分を指すまで、あと三十秒しかない。
時計ばかり気にする僕を、彼女の声が、現実に引き戻す。
「いい加減、慣れなさい」
僕を責める言葉を放った彼女――
熊崎は、何時もの世の中に冷めたような目で、僕を見ていた。
やや黒ではない髪を三つ編みにし、空崎女子校の制服に身を包んだ彼女は、その不自然に整った容貌と、青みを帯びた不思議な瞳で、僕を見ている。
高い鼻、形のいい眉、そして大きな目。美人としてのキツイ驕りを抱いても不思議ではない容姿だと、常々思う。ただ、僕はそれほど彼女の外見が好みではない。
僕は、彼女が自分に好感を持っていないのは知っていた。それは当然だと僕は考えていた。協力者の後釜が、僕みたいな役立たずなのだから、彼女が僕を軽んじても仕方が無い。
僕もまた、彼女に好感を持ったことは無かったから、あいこだったが。
「返事は?」
…彼女の言い方が、高圧的なのは何時ものことだ。
彼女の方が、僕よりも年上と言うことも、関係しているのだろう。
それと、彼女は、僕を過小評価する節もあったから、そこから来ているかもしれなかった。兎に角、彼女は僕に命令することが多かった。ただ、悔しいことに、彼女の言葉は理に適っていたから、何時も僕はむしゃくしゃしていた。
何処の誰が、威圧的な態度をとられて面白いものか。
だから僕は、また彼女に責められたことで、ついカッとなった。
「なれるものか、こんな…」
そう僕は、つい苛々を口にし、先を続けようとした。が、先手を打って彼女は僕に言う。
「また、その話?しつこいわ。受け入れなさいよ」
呆れた口調。心底、馬鹿にしたような目、そして言い回しのイントネーション。そのどれもが、神経に障った。僕は、この女に出会った事を、本気で悔やんだ。
奇怪な偶然の邂逅さえなければ、人生において決して交わることの無かった僕と彼女。
嗜好も考え方も、全く違う僕らがこうして、協力している方が、そもそも不思議なのだ。…だが、同じ一つの目的のためには…と、こうして協力していた。
そんな目的で行動しているからか、僕と彼女の仲は酷く険悪だ。
僕は彼女のストレートな物言いが気に入らなかったし、彼女は彼女で僕の曖昧な受け答えが不快らしい。僕は、あまり彼女と波風をたてたくない(それは今後の事を考えての妥協だ)。なので、我慢を、続けてきたのだが…それでも、臨界というものはある。
――言いたいことなら、僕には、いくらでもあった。
この一ヶ月ほどで募りに募った僕の不平不満が、今の彼女の態度で、我慢の限界に達しかけていた。普段なら黙っておく文句が、口から出そうになる。一時の、この激情に任せて、僕は、何時もこまっしゃくれた、彼女に言ってやろうと、息を吸い込んだ。
「…いい加減に」
もう、どうだってよかった。彼女との今後の関係が、頭の隅を過ぎった。
けれど、今、何か言わない事には僕の腹の虫が治まらない。
「………」
僕が怒ってやろうと口を開いた。瞬間、急に彼女が手を伸ばした。
ビッと真横に伸びた腕は、僕の前で止まる。その余りに、すばやい動きに、思わず僕は文句を制止してしまっていた。――そして、彼女の横顔から余裕が消えたのを、僕は素早く見取っていた。
無言の、彼女の背中が告げていた。
僕の出番なのだ、と。
彼女が、強い視線を向ける先。僕ら以外に、何も無いはずの、廃ビルの虚空にホワイトノイズが走る。
空間を歪める、としか表現しようの無い。何時もの現象が、また僕の前で起きようとしていた。僕は、彼女の態度に憮然としていたが――――、諦めることにした。どんな形であれ、自分が選択してしまったのだ、今更、引き返すなんて決して出来ない。
だから僕は、彼女の左手をとる。
仄かに冷たい彼女の手と、すこし湿った僕の手を重ねる。指を絡め、彼女の長めの爪が手の甲に当たるのを、しっかりと感じながら、略式でも…契約の言葉を、僕は詠む。
「“我が手に、兵革を得ん”」
契約の言霊に、彼女の体が呼応する。
まるで、精巧なパズルのように、彼女の体が、分解、再構成されていく。細分化された、彼女の存在が、まったく別の存在へと組み変わっていく。―――そんな光景を、僕は、何度やっても慣れないまま、眺め、それから視線をホワイトノイズに向けた。
――ホワイトノイズは、やがて大きく輪郭を歪ませ…、それから奇怪な物体の姿を模した。
四肢があり、頭部があり、一見すれば尋常な生物にも思える。
が、尋常な生物であろうか?いいや、違う、まるで濡れたエナメルのような光沢の肌、突き出た角、明らかに裂くという目的を果たす機能しかない、大きな爪。
そこには、一匹の奇怪な獣がいた――、悪夢の産物と言うべき、醜い合成獣が。
「…文句は、後で言う」
僕は、そう呟き、自分の右手に視線を落とす。
既に彼女の武装化は既に終了していた。今、僕の手の中に在るのは、敵を倒すためだけの暴力の結晶。人外の徒を討つ為だけに、人間が術理を駆使して作り上げた、忌まわしき武器―――応化儀杖―その中の一振り。
銘を、咎獅子、と言う。
僕は、打刀である咎獅子を構え、そのまま走り出した。