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スカーレッド(下)

 骨の髄までこの畜生を焼き尽くしてやらねば、どうにもアルリーは納まりがつきそうにない。猛る想いのままに彼女は蒼穹を駆ける。

「お主はどこまで外道働きをすれば気が済むのじゃ!」

「あははは、どうしたのお姫様? さっきから随分粗雑じゃない」

 対するシルバリオは愉快気に冷笑を浮かべたままアルリーと対峙した。戯れに伸びてきた手と手を絡み合わせる。先までの少女なら次の瞬間には彼女にその手を握り潰されていただろう。しかし今は拮抗している。驚き目を見張る彼女に比べ少女は余裕さえ醸していた。

「わかるわ、その気持ち。血が足りなくなると苛々するものね。……それにしても馴染むわ、貴女の血って。まるで最初からわたしのものだったみたいに、――ふふふ、フニでもこうはならなかった」

「――ッ、シルバリオ! お主が! 妾の友の名を気安く呼ぶでないわ! 挙句、シグに殺させたじゃと、実の兄を、その弟に……貴様は、貴様だけは断じて許すわけにはいかん!」

 鮮烈なる気迫がアルリーの矮躯から燻ぶる。己の魔導刻印が燃焼していくのを彼女は敏感に察していた。どうしても許せないのだ。シルバリオの所業も、態度も、彼女にはけして許すことなどできない。

 秒間数十手が向かい合う両者の間で交錯した。その内の突きの一手でも応じ損なえば、すぐさま必殺へと繋がるだろう凶手の旋風。アルリーの拳がシルバリオの頬を捉えれば、少女の膝がすぐに彼女の腹へと減り込む。見入る者がいるとすれば痛々しさを覚えるだろう血生臭い業の遣り取りだった。

「何故わからんのだ、お主は!」

 過去に何があったかは知らないが、シルバリオはあまりに無作為に誰彼の心を傷つけている。どうして。アルリーは叫ぶ。心とは誇りにも似ている。抉ったら最後、取り返しなどつかないということが、何故わからない。

 誇りとは言わば人が胸中に掲げる旗であり、貫くべき芯であり、守るべき誓いである。例え死に際の耄碌した老人とて己の誇りを汚されれば怒る。それはまさしく魂の煌めきそのものなのだ。それを何故こうも容易く侮辱できる。

 アルリーは怒り罵りの声を上げようとして、――ふと。シルバリオの態度はまるでその誇りを汚された者のようだ、と。そんな考えが彼女の脳裏を過った。

(まさか、いやしかし、……まさか)

 油断なく構え睨み合いながらも、どこか迷いのような空気を漂わせたアルリーをシルバリオは訝しんだ。彼奴はこの後に及んでいったい何を考えてるのだ、と。少女が彼女に求めるのは餓狼の執拗さである。懊悩など似合わぬ真似、そんな惰弱の影に長年脅かされていたなど、腸が煮えくり返る。

「不愉快ね、わたしを前に貴女が何を悩む暇があるというの」

「……シルバリオ、お主の誇りはどこにある?」

 問いかけの意味がシルバリオにはわからなかった。誇り? そんなもの――かつてはあっただろう。しかし己の誇りは、ルーの想いは、インの死とともにとうに霧散してしまっていた。もう七年も昔の話だ。今更思い返す必要も感じられない。だから精々嘲ってやろうと――。

「……報いを」

 開いたその口から零れた、あまりに真摯な己の声に、シルバリオは慄き目を見開いた。己が意思とはまったく正反対の、しかしどこまでも本音の言葉。いけない。理性は口を閉じろと、片手を口元へ宛がった。けれど漏れる声は止まらぬ。

「帝国に辱められた親友の仇を……」

「――ッ、それがこの非道の理由と?」

「燃えていたはずの火はもう灰だった、……裏切り、だからわたしが燃やすのよ、そう、すべてを生贄の祭壇に――この世すべてを薪にして! でないと、」

 セレインがあまりに報われないから、シルバリオは思い知らせてやりたかった。そうして、何もかも無くなった丘で、たった一人きりになれば、やっとこの想いは晴れるだろうと!

「しかしならば何もこう無差別に殺すこともなかろうに……」

「なら今すぐ死ねよ! 詐欺師の娘、卑劣漢の妹が、仇の汚れた血が偉そうにぃ!」

 結局どうしたところで簒奪者シルバリオと英雄スカーレッドはわかり合えない。滅ぼす者と護る者。其はけして妥協しえない陰陽なのだ。迸る激情のままに叫んだ少女は、永遠に少女から先には進めぬヒトガタは、明かされた真実の戦慄に背筋凍らせる彼女へ向かい疾駆した。

 それはさながら逃れ得ぬ病魔の如く。アルリーへとシルバリオは肉迫する。喉を抉るだろう貫手は、しかし首を傾ぐという最小限の動作でかわされた。構わぬ。こんな意味なき問答の後すぐに死闘が決してしまってはあまりに拍子抜けだ。彼女は苦しんで死ななければならない。その果てに少女に殺されなければならない。そうでなければ!

「収まらないのよ、このわたしがぁ!」

 世界がどんなに過酷で、どんなに残酷であろうとも、インが傍で笑ってさえいてくれれば、シルバリオは幸せだった。それ以上など少女は求めていなかったし、そもそも親友に諭されるまで考えさえ及ばなかったのだ。なんと退廃的で、なんと刹那的なことか。しかし何が悪い。

 シルバリオはまさしく、帝国という蟻の群の中で唐突と生まれ出でた双羽を持つ虫――例えればキリギリスだったのだ。〝嘘〟という羽と、インという羽。その二つがあったからこそ、キリギリスは蟻の悪意にも呑まれることはなかった。いずれ来る冬などどうでも良かったのだ。せめて幸せでいられたのなら、蟻に嗤われながら死ぬのも許せたろうに!

 帝国という蟻は傲慢にも餌として、インという羽をキリギリスからもぎ取った。結果として一羽では飛べなくなったキリギリスは、跳ねる〝蝗〟へと変貌するしかなかったのだ。異形を統べる虫の皇に、すべてを食い荒らす害に、それが悲しき突然変異種の成れの果てだった。

 吼える〝虫の皇〟を、〝火の皇〟は静かに見据えていた。

 死闘の中、ある種の想いをアルリーは懐き始めている。未だ心中に留めたままのある言葉。仮にシルバリオが耳にすればふざけるなと叫んだだろう、馬鹿げた妄想にも似た予測。それが確信に変わったのはそのすぐ後だった。

「――ふむ」

 ぶつかりあった拳が波動を生む。互いの必殺の刻印が相殺し合い発生した烈風が、アルリーとシルバリオの長髪を空へと舞い上げた。その刹那に彼女は目撃した。銀髪に隠れていた少女の長耳を、己と同じ特徴を。やはり少女は――いや、これは己だけが知っていればいい事実だ。ついでに墓場まで持っていけばいい、そういうものだった。

 ともかく。

「ようやく……お主の底が妾にも見えてきたのじゃ」

 英雄〝望郷の業火〟スカーレッドはただの真実としてそう口にした。

 無理解が零とすれば理解は一、すなわちアルリーはこう言っている。もうこれまでのようにはいかんぞ、と。覚悟しろと、簒奪者〝解嘱の魔法使い〟シルバリオに、そう、言っている。

「ほざくなぁ!」

 それを詰まらない見栄としかシルバリオは認識していなかった。お姫様のアルリーに、鬼畜の血族に、己の怒りと哀しみが理解できると? その答えは振るった少女の右拳に示された。

 業と。

 アルリーに受け止められたシルバリオの右拳が燃え上がったのだ。へ? 呆けている間に、四肢を舐めた炎は少女の右腕を焼き尽くした。現状を理解するより早く痛みは少女の脳天まで駆け抜け、痺れが身を縮こまらせて、そして――。

「あ、ぎぃ、ぎゃあああああああああ!」

 絶叫が木霊した。シルバリオは慌てて腕を振り払うと、後方へ飛びあがり、そのまま着地に失敗して蹲った。その無様を、アルリーはジッと見ていた。少女の腕は右手首までが炭化し、今にも罅割れ砕けそうに思える。只人なら痛みで即死していただろう。人間を逸脱していたことが少女には幸いだった。もっとも激痛に死ねず涙する姿が、生きている幸福と言えるかは疑問ではあったが、ともかく少女はまだ生きていた。

「ど、どうして……」

 荒息を吐きながら口にした言の葉が、最早、シルバリオが忘れ去っていたフニと同じものであることを少女は知らない。まったく埒外だった。何故? 頭を埋め尽くしたのは疑問の嵐。先までの余裕など既に微塵もなく、少女は喘いでいる。

「無様じゃな」

 その制約故にアルリーの言葉には容赦というものがなかった。睨むシルバリオを鼻で笑い、ゆっくりと彼女は歩いてくる。その様子にすぐさま立ち上がった少女は、殺意に身を滾らせるも、また一歩と彼女が踏み出したその瞬間に、――確かに一歩、後ろへと後退したのだ。

「――――なっ」

 驚いたのは当人だった。馬鹿な、このシルバリオが。そう思いながらもまた一歩、少女は後ろに下がる。恐れている。己が、この解嘱の魔法使いが! 愕然とした。たかだかこんな〝偶然〟の負傷に怯えるなど、あってはならないというのに!

「わ、わたしの腕が焼けているなんて――〝嘘〟だ」

「いや必然じゃよ」

 アルリーはそう断言した。タン、と靴爪先を打ち鳴らす。シルバリオの皮膚が〝嘘〟によって再生すると同時に〝煌〟の火種が燻ぶり、また腕を焦がす。治っては焼け、治っては焼け、治っては焼け――。まさしく悪夢の拮抗は尋常ならざる痛みとなって少女の右腕を蹂躙した。

「あ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 それはまるで煉獄の責め苦だった。生かさず殺さずただ苦しめる。シルバリオがこの七年間、他者に押しつけてきたものだ。インを失った夜にアルリーの兄へとぶつけた、個人が持つには強大過ぎる力、条理など超越した刻印の呪いそのものだった。

 地を転げ、土に塗れた程度でこの〝皇の火〟を消すことなど不可能だ。痛みで脳裏に奔る稲光にシルバリオの意識が遠退きかける。このままでは――駄目だ、このまま終われるものか、ここで負けたら誰がインの無念を晴らすのだ。己以外の誰が!

 泡を噴く口を無理矢理に閉じて歯を喰い縛る。そうして。鬼気迫る表情で以てヒトガタは己が右腕を、己が左手で掴み引き千切った。

「――――――――――――」

 極限の痛みの前には声を上げることすら叶わないのだと、シルバリオは初めて知った。散々に人を壊してきた。けれど未だかつてこんな音は聞いたことさえなかった。だが少女は耐えた。血涙を流すも人格は自壊することなく、簒奪者は再び英雄の前に立った。

「……ここに至りまだ挑むか、そうも人が憎いかえ?」

「…………」

「お主など好きようもないのだが、しかしその――」

「――何を黙っていればごちゃごちゃと言ってるのよ」

 眼球を真っ赤に染めたままシルバリオはアルリーの言葉を遮った。まるで、まるでこれから己に止めを刺すとでも言わんばかりのその物言い、まったく気に喰わない。

「……確かに、わたしは右腕がもげて、頭痛に襲われて、視界も霞んでいるわ。で、だから? ちょっと〝偶然〟が重なったくらいで勝った気になるのはいささか性急ではなくて英雄さん?」

 戦の仕方などいくらでもある。シルバリオは、どこかふわりと浮かぶように夢見心地のまま思考を続けていた。誰が見ても少女はもう限界だった。あれほどの怒気を宿した瞳は遂に濁りつつある。

 ただ気合いのみで立つ、その姿のなんと痛々しいことか。アルリーは敵ながらシルバリオに憐れみさえ懐いた。人などとうに辞めた化物ではあるが、その見目は己より少し年上の少女に過ぎない。それが七年前から変わらぬとはいえ、こんな、こんな少女がこの世に地獄を再現するような政を、己の家族は行っていたのだ。少女に皇の罪を彼女は見た。

 アルリーの悪い癖だ。そんな後悔など終わってからいくらでもすれば良いものを、彼女はいつもこうなのだ。多感な年頃の性か、ついつい感情を移入してしまう。成人してから五年経つというのに、どうにも本質的なところで子供っぽいのだ。それが――結局はいつだって悲劇に繋がってしまうのだと、彼女はまだ知らなかった。

「……くくく、ふふふ、あははははは!」

「何が可笑しいのじゃ」

「いーえ? どうやらまた馬鹿なことを考えていたみたいね、なに、わたしに同情でもしてるっていうの?」

「悪いかえ」

「――――ッ、ああああああ! 対価と知っていてもムカつくわ、人間風情が、このわたし! 同情だと、ふざけ、な、い、で、……よ?」

 唐突とシルバリオは語尾を弱めた。その様は、どこか考え込んでいるようにもアルリーには思えた。確かに、手傷の多さ故に少女の勝ち目は薄かった。否が応にも撤退さえ視野に入れなければならないだろう。血が足りないのだ、〝嘘〟を吐くには、血が――待てよ。足りない。どうして? あるではないか、血ならば! 巡りの悪くなっていた思考が急に晴れていく。

 それはアルリーから見れば、怒気を失い灰と濁った瞳に、シルバリオが再び色を灯したかのようだった。炯々とした瞳の奥に覗いた新たなる紅の名は狂気。人を壊すことに特化していた頃の異端審問官の心持ち。斯くして彼女の眼前に最後にして立ちはだかったのは、帝国の走狗という亡霊だった。

「くふふふ、あひゃひゃひゃひゃ! いーひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!」

「次はなんじゃ……」

「そうよねえ、あるじゃない! 勝つ手段が、『私』には、まだ!」

「好い加減見苦しいぞ、お主! って――おい、まさか……止めるのじゃ、シルバリオぉ!」

 まだ抵抗するのか、と。アルリーが改めて構えるより早く、シルバリオは踵を返すと、脱兎の如く走り去った。慌てて彼女が追う視線の先には――まるで何かを燃やしたような黒煙が、濛々と立ち上っていた。



 死は不愉快な隣人だ。

 いつだって付かず離れず纏わる。森が生業のシグには尚更だ。だから少年だけがその異常に気づけた。アルリーのお世話として里に残っていた少年だけが、その肉迫する殺意を感じ取ることができた。

「――ッ! 伏せろぉ!」

 異形が燃え尽き、フニは天に還り、戦の最中とはいえ里人に僅かばかりの安堵という慢心が巣食ったのは間違いない。助かったのは咄嗟にセラを抱きかかえて地に伏せたシグと、すぐに索敵に出かけた者達だけだった。

「ちょっと、どうしたの…………え?」

「見るな、セラ!」

 シグの叫び空しく、突然の事態に硬直してしまったセラは目視する次第となった。疾風迅雷の簒奪者〝解嘱〟シルバリオの、その狂気を。見目麗しい少女が大口を開けて大人の首筋に噛みつく様を! 

「――――――――――――――――――――――ッ」

 其は蜜蜂を喰らう大雀蜂である。ガチガチガチガチガチ、と。湯水のように血を浴びるその化物には右腕が無かった。豪奢な衣装は所々が切れ擦れ焦げ落ち、まさしく尋常ではない戦の凄まじさを物語っている。

「……なんだよ、こいつ」

 こんなヒトガタ、人間の手に負える訳がない! フニを異形へと変えたその化物には言葉にできぬ恨みがシグにはあったはずだ。しかし目前にして、そんなちっぽけな一里人の殺意は、急速に萎え代わりに恐怖が少年の心胆寒からしめた。

 シルバリオの軟腕にしか見えない左拳が、里人の心臓を掴み引き抜く。そうして血を浴びる度に少女は恍惚の表情を浮かべ、焼け落ちたはずの右肩が肉を孕み。そこから芽吹くように、殺戮を重ねるごとに、指が、掌が、拳が、腕が、肘が、――ゆっくりと生えてきている。

「化物か……」

「ゲジみたい」

 セラはあまりの光景に感覚が麻痺してしまったようで、叫ぶことも吐くこともなかった。不幸中の幸いか、おかげで目立つことはない。しかしまったく逃げる算段などシグには思いつかなかった。少年にできたのはただ少女を抱きしめて少しでもその身をシルバリオから隠そうとする。そんな無駄な努力だけだった。

「…………シルバリオ、お主」

「ふふふ。あら遅かったわね、お姫様」

 英雄はいつも遅過ぎる。悲劇が始まらなければ何者も英雄には成れぬ。ならば英雄など本当はあってはならない存在なのではないか? 深呼吸に肩を怒らせ、アルリーはシルバリオを睨みつける。

「貴様がぁ……人を〝投げて〟寄越すからであろう!」

「なーにそれ、言い訳? この場の人間が皆死んじゃったことへの?」

 傍からはそうとしか聞こえないだろうが、事実ここに辿り着くまでアルリーはいったい何人の命を救ったか! おそらく索敵に出ていたのであろう里人の首根っこを捕まえては追い駆ける彼女の前に放ってきたのだ。それを無視しろとでも、見殺せば良かったとでも言うのか!

「お主は――――人様の、人の命を! なんだと思っておるのじゃ!」

「別になんとも? 心底どうでもいいわ、他人なんて」

 挑発するように右手を振りながら、しかしシルバリオはその道化のような態度から一転して冷静さを持ち直していた。勝負は振り出しである。いや、アルリーに止めを刺す手段は確かに残ったままだ。けれどそれを打ち込む隙がない。甘さだ、人としては好ましい彼女の性情が、今彼女自身を追い詰めていた。握る拳に血が滲む。

「……仇敵なれどもその義見事と、称え葬ろうとした妾が間違っていたのじゃ。お主には最早仁義も正義も大義も見えぬ! ただの悪鬼羅刹――〝人型〟の化物よ!」

「如何にも『私』はヒトガタで化物よ? 今更それがどうしたっていうの、ふふ、可愛いわ。貴女のその……怒った貌。後は――」

 シルバリオの流し目はシグを捉えていた。

「哀しみを知れば、ほら、喜怒哀楽もばっちりじゃない」

「…………うぁ」

 死んだ。己の人生もこれにて幕引きである。シグの全身は震えた。どうしようもなく震えた。セラはこんなにも暖かいのに、どうして己はこんなに冷たい? それは死人となるからだろう。体温の奴め、我先にと旅立ちやがった。にまにまと笑みを浮かべるシルバリオの横面を一発でいいからぶん殴ってやりたかった。けれどそんな真似をすれば今すぐにも己は殺されるだろう。それは困る。

 シグは努めてシルバリオを無視すると、最後に一層の力で以てセラを抱きしめ、その唇に口づけた。血の味。最後まで残念だな、感想とは裏腹に頬が緩むのを覚える。しかし瞬きの間にその表情はすっかりと消え失せ、少年は遂に一言も掛けることなく少女から身を離して立ち上がった。アルリーを一瞥するその瞳には覚悟が垣間見える。里人風情が英雄に一言も語らせぬ、そんな雰囲気を少年は醸していた。

「――へえ、やる気?」

「…………」

 無駄口に応える必要もない。隙を、己が死するその一瞬に現れるだろう隙を、アルリーへと捧げてシグは己の人生に幕引く。一匹の働き蜂ではこの大雀蜂は決して倒せない。しかし彼女なら、女王蜂ならば必殺の一撃を此度こそ見事叩き込む。そう少年は確信している。捧げよ、すべてを。この一刹那に!

「待って」

「え」

 すべてをぶち壊す声はシグの後ろから聞こえた。嘘だ、シルバリオではないが少年はそれを否定する。

「待って」

「……セラ?」

 そんなシグの心理などお見通しとでも言わんばかりに、セラは少年の前に、シルバリオの眼前に躍り出た。ぴくりと魔法使いの身体が震える。

「ば、」

「な、」

「この――――馬鹿野郎ぉ!」

 英雄も簒奪者も唖然とさせるセラの妙技。

 もう何もかも滅茶苦茶だった。シグはセラを背後から抱きしめると、肩を掴んで此方を振り向かせた。どことなく不機嫌そうな顔に一瞬怯むが、だが構うものか!

「な、何考えてんだよ、お前は!」

「シグ。私は野郎じゃないわ、呼ぶなら女郎じゃないと――男女は流石に私も傷つくわ」

「待ってくれ……待ってくれよ、おい。本当に何考えてんだよ、セラ!」

 まさか恐怖のあまり可笑しくなったのか――いや、よく考えてみればセラは昔からこういう奴だった。己の杞憂を何とも思わず勝手気ままに動き回る、猫みたいな少女だった。

「まあ私に任せてよ、シグ」

「え――いや、え? そんなの、え、いやいやいやいや! 本気かよ、セラぁ!」

 死を前にした時とはまるで違う冷や汗がシグの背筋を濡らした。ぴたりと張りつく感触が、なんとも言えず気持ち悪い。

(駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!)

 ただ一人の愛するセラを、妻を、家族を、あんな化物の元へ見送れと言うのか。止めたい。今すぐ止めたい。けれど少女は本気だ。あれは本気で怒った時の眼だ。己の何が少女の逆鱗に触れたのか、シグにはまったくわからない。アルリーを見る。彼女も首を振るうばかりだ。

 そんな混乱の極致にいるシグの手を取ってセラは顔を近づけてきた。触れ合いそうな距離で少女の呼吸を少年は感じた。不覚にも頬が熱を帯びるのがわかった。

「お願い、信じて」

「……セラ」

「シグ――――愛してる」

 触れた柔らかな感触は、しかし二度目ながらやはり血の味だった。呆として骨抜きになってしまったシグは知らない。それが、セラが舌を噛んで緊張を殺していた故だということを。

「ふふふ、貴女って随分と狂ってるのね? なに、ジークフリードの恋人ってところ?」

「いえ、嫁です」

「――ッ、あははははは! これは傑作だわ、まさかフニが散々苦しんでいる間に、弟は番いを娶って幸せに暮らしましたって? あははははは!」

 心底可笑しいといった様子のシルバリオだったが、やはり油断はなかった。声を震わせながらもその目はまったく笑ってはいない。いつでもセラを殺せて、アルリーに対処できる。そんな絶妙な距離感を少女は維持していた。

「ふーん、それで貴女はシグよりも上手に『私』の隙を作り出せるっていうわけ?」

「ええ、と言いたいところですが……その前にいくつか質問でも?」

「ふふふ、今は気分がいいわ。そうね、3つだけならよろしくてよ?」

「確証が欲しいです」

「我が儘な娘ねえ、――そうね、〝嘘〟じゃないわ。これでよろしくて?」

 シルバリオの言葉に、セラは儚げですらある微笑を浮かべた。そんな少女の様子をはらはらと見つめていたシグだったが、気づいた。少女の後ろ手に組まれた両手。そこで、手話で以て少女は何かを伝えようとしていた。

(……シグなら気づいてくれるって信じてる。私の合図に従って、お願い)

(――ああ)

「それじゃあですね…………失礼ながらお年は?」

「本当に失礼な質問ねえ、まあ、いいわ。終われば死ぬんだから一緒よね。今年で二十六よ」

「二十六……とすると、貴女は薨去された第四皇子殿下と年子ということですね」

 シグには何やら難しい話だった。薨去? 皇族はアルリー以外皆シルバリオに殺されたのだから、そんなことを聞いてどうする。やっぱりセラは残念だった。けれど今はその感性を信じることしか、少年にはできない。

「可笑しなことを聞くわねえ、貴女。変わってるって言われない?」

「ええ、よく言われます。失礼ですよね、皆。まあ、そんな皆を殺した貴女は最低ですけど。それじゃあ次の質問ですが……そうですね、お友達やご家族はご健勝ですか?」

 あまりの遠慮の無さに、今度はアルリーが口元を引き攣っていた。すぐにでも動けるように構えてはいるが、正直セラの元へ間に合う可能性は無きにしも非ずといったところだ。

「――ッ、死にたいの? いえ、死にたいのよね。ふざけてるわ、……絶対に楽には死なせないんだから。…………。そうね、家族も友人も皆死んだわ。いえ、殺されたと言ってもいい。これはサービスよ。『私』の家族とたった一人の親友を殺したから、貴女達は皆一人残らず死ななければならないの」

 戯れに過去を抉られることがシルバリオにとってどれだけ苦痛だったか、少女は安請け合いしたことを少し後悔した。しかし、だ。セラの質問は少女の心を傷つけたが、隙を作るまでにはいたらないような世間話ばかりだ。

「さあ、次が最後よ。せいぜい考えなさい」

「ああ、もういいです」

 セラは即答だった。少女以外の誰もが咄嗟に意味を理解しかねる、まるでなんでもないことのような調子でそう口にした。

「…………『私』の聞き間違いかしら? 貴女今、〝もういい〟って――」

「はい、間違いないです」

 セラは終始努めて丁寧に似せた慇懃無礼な口調のまま。

「どうせ殺されるなら死ぬ前に簒奪者の人生について知りたいと思ってたんですけど、もういいです。意外と普通っていうか、まるで安っぽい猿芝居みたいなんですね、詰まんないです」

 微笑を浮かべてシルバリオのすべてを土足で踏み躙った。

(シグ、次に私が声を出したら私の名前を呼んで)

 カタカタカタカタカタ、と。戦慄いていたのはシルバリオの歯だ。怒り。これまで感じたことのない種類の怒りが、少女の心中で渦巻いている。撫でれば即死するようなか弱い人間が、己の人生を否定する。インの死が、猿芝居――? 

 誰が何を言い出す前に、跳ねるようにシルバリオはセラの元へと迫っていた。アルリーが慌てて動くが、瞬きの後にはもう異形の少女は只人の少女の胸倉を掴み上げ、面突き合わせて声を轟かせていた。

「それ以上近づくなよ、――殺すぞ」

 苦悶を滲ませながら動きを止めたアルリーを後目に、シルバリオはセラへと視線を戻すと。

「調子に乗るなよ、小娘」

 そう囁いてセラの右耳を喰い千切った。

 シグとアルリーが驚愕に目を見開く中、セラは脂汗を顔面一杯に浮かべて恐怖で瞳を煌々と瞬かせながら、しかし続けた。

「美味しかったですか? 〝セレイン〟の耳は」

「――――――え?」

 シルバリオの時が止まる。呆けていた、走狗が、解嘱が。それほどにその一言は致命的だった。そして終曲が始まる。悲劇の終わりが、セラによって刻まれる。

「……シグ、助けて!」

「セレイン!」

 既に肉迫していたシグの呼ぶ名は、シルバリオがよく知るもので――己がインを傷つけた? そんなまったく理解できぬ状況に、異形の少女は完全に動きを止めた。その顔面を目掛けて、少年は万感の想いで拳を揮う!

「セラを、放しやがれえええ!」

 体重の乗った渾身の右ストレートが、シルバリオの頬に減り込んだ。化物が、只人如きに、膝を突かされた。〝嘘〟の砕ける音がする、絶対無敵の、相殺されることはあっても破られることはなかった刻印の呪いが――ただの小僧と小娘に敗れただと?

「――――――え? …………う、嘘よ。嘘に決まって」

「嘘ではない、目を逸らしたところで現実は変わらぬぞ」

 簒奪者〝解嘱〟シルバリオの口にする嘘にはもう何ら特別も認められなかった。少女は最後まで気づかなかった。いつからか己が、親友インの名を呼ばなくなっていたことを。魔法使いでさえなくなったことを。そして、ただ同姓同名の〝セレイン〟という別人を傷つけただけで前後不覚になってしまうほど、親友と他人の境界があやふやになっていたことを。

 セラが如何なる理由から親友の名を看過したのか、結局最後までシルバリオには理解できなかった。そうして。僅か数秒の間に、魂でも抜かれたような表情となった少女が見上げた先には――。

「それにしてもシグめ、あれだけセラしか見ておらんようなフリをしておいて……しっかりと妾の位置まで把握して殴り倒すとは、……ふふ、これはあれじゃ浮気じゃな、文字通りの」

 冗談を口にしながら佇む火の皇の姿があった。

 業と。

 シルバリオの眼前を、紅蓮の炎が埋め尽くしている。アルリーの全身に刻まれた魔導刻印〝煌〟は熱く滾り、少女の前髪も、地面さえもチリチリと焼き焦がす。しかしその中心にいるはずの彼女はまったく平常そうな様子で、眼球が乾いていくのを自覚する中、かつて己がそうだったように、少女は刻印の熾す奇跡を、今再び目撃する次第となった。

「さてさて。永らくの戦もとうとう幕よ、魔法使い――妾がお主を赦そう、篤と灰燼に還るがいい」

 噴き出す炎は煌々と渦巻き、やがてアルリーの右腕に纏わり螺旋を創る。それは蜂の針先にも似ていた。けれども其は雀蜂ではない蜜蜂だ。何度も何度も何度も何度も針を刺す。そんな無様を彼女の美学は許さない。よって一撃必殺を旨とする。

 これこそ英雄〝望郷の業火〟スカーレッドの煌めき、シグとセラの協力が遂に可能とした、赤く熱き絆の極致。

「覚悟」


 最 終 奥 義

 熱 殺 蜂 球ハニーサークルエンドヒート


 三年前。戯れにフニが名づけたこの技名を、アルリーだけが覚えていた。使い続けてきた。すべては今日この瞬間のためにあった。

 名も無き英雄フニの技が、英雄アルリーの手によって業となり、遂にシルバリオを穿った。切っ先は少女という異形の胸部から背を貫通するようにしてやがて空へと散った。倒れ伏したヒトガタが如何に人間を超越した存在とはいえ、心臓と脊髄を串刺しにされては――。

「――――ッ」

 シルバリオは血の泡を噴いた。ごふ、ごふ、ごふ、と。口元から出たのは恨み言ではなく、赤色に表層滑るぐじゅぐじゅとした泡玉だった。急速に血が抜けていく。体温に替わり冷気が蝕むようにして己を覆っていく。身体の芯から死んでいく。死。己が、ここで、こんな場所で親友の仇を前に。泣こうにも涙腺は乾ききり、瞼さえ閉じる力もない。

 そんなシルバリオの死にゆく様を二人はジッと見つめていた。シグとセラ。たった右耳一つと引き換えに、数多の同胞の命を奪ったヒトガタの化物〝虫の皇〟の終焉を手繰り寄せた強者、名も無き英雄の家族はやはり英雄か? 違う。己はけして英雄などではないことを、少女はよく理解していた。痛みにふらつく全身を少年に支えてもらってまでこうして来たのは、無粋にも、この黄泉路へ旅立つだろう化物へ伝えたい言があったからだ。

「…………痛いですか」

「――ゅ――ぅ――」

 応答はない。しかし意識はまだはっきりとしているようで、濁る眼球を無理に動かしながらシルバリオはセラの方を見た。親友の名を看過した同姓同名の少女を。

「苦しいですか、仇を討てずに死ぬのは?」

「おい、セラ……」

「黙って。貴女の身勝手ももう終わりです……ですから」

「――ぅ――ゅ――」

「最後に感謝しておきます。偶然とはいえシグを殺さないでいてくれたこと、兄さんも姉さんも貴女に殺されてしまったけれど……それだけは感謝しておきます」

(……死人に皮肉とはね)

 口調は最後まで丁寧ながら、どうやらこの小娘が一番憎しみを押し隠していたらしい、と。シルバリオは皮肉に苦笑った。そもそもどうしてこの小娘は小僧を差し置き前に出た? 考えれば考えるほどの不自然、まさしく己の死が天命とばかりの采配だ。結局、最後まで己は道化のままだったか。少女の意識は灰よりなお暗き闇に呑まれ、燦々と粉吹いていく。

「疑問があると言った様子ですね」

「――――――――」

「私がどうして前に出たか、貴女にもわかりませんか? ……猿芝居とは言いましたが、私は、勘違いかもしれないけれど……貴女の気持ち少しはわかっているつもりです」

「――――――――」

 今まで話すことを躊躇するように伏し目だったセラが、この時だけはシルバリオを見た。まるで子の痛々しい傷を見た母親のように悲しそうな顔をしながら、しかし然りと異形の少女を見つめて只人の少女は言った。

「みすみす奪われるくらいなら、死んでもいいから特別になりたかった。それができなかったから、狂うしかなかったんですよね? わかります…………けれど」

 煌々とした瞳には。

「私のシグに、貴女如きが指一本触れる資格もない」

 確かに己と同じ狂愛があった。シルバリオは嗤った。嗤うしかなかった。勝敗を分けたのは魔導刻印でも魔法でもない。死者か生者か、そんなどうしようもない違いが、しかし己と彼奴らの生死を区別した。そうだ、生きていたら忘れてしまう。追い詰められれば忘れてしまう。どうして気づかなかった。己の、本当の望みに。

(会いたい)

 この想いは我が儘か、死に際を彼奴らに看取られることが急にシルバリオは惜しくなった。惑うことなく逝き候え、と。そう親友に言った己が惑っていたら、出会えないかもしれないではないか。それは困る。凄く困る。死ぬ、魔法使いは死ぬ。もうすぐ死ぬ。ならば――。

(最後に)

 セレインに合いたい。転生の果てにも、今生の果てにも。インの傍にいたくてルー仕方ないのだ。一言。たった一言でいい、奇跡を。

 異変に気づいたのは、シルバリオとセラの遣り取りを切なげに見つめていたアルリーだった。曰く大地から伝わるこの力のうねりはなんだ? シグも気づかぬ、彼女だけが察知できるこの力の奔流は――?

(貴女に)

 手段など幾らでもある。シルバリオはそう独白する。選択肢を狭めるのはいつだった倫理や法といった限界だ。それを超えることができれば、意図して無視することができれば――その覚悟さえあれば、何者にも不可能なんてないのだ。

(会えないなんて)

 アルリーはやっと気づいたようだった。シグとセラに急ぎ駆け寄る様を見ながら、相変わらず詰めの甘い彼奴だとシルバリオは嗤った。二人を護るより先に己を殺せばすべては解決するだろうに、しかしその甘ったれた性情……敵でなければ少女は嫌いではなかったのだった。

「わたしは――〝嘘〟だ」

 信じない、と。

 呟くと同時に簒奪者〝解嘱の魔法使い〟シルバリオは、影も形もなく消え去った。それは傍の三人からすれば力尽きる魔法使いが、最後に意地を賭けて己を無とした。そんな光景としかついぞ見えなかったのだった。

 この日を以て七年の永き呪いは解かれる。色が戻ると同時に、夢幻のように異形の群もまた姿を消した。それから三人の英雄がどのような人生を送ったか、それは誰にもわからないし、語るものでもない。彼ら彼女らの物語はこれにて終幕である。

 最終話は今夜の午後9時に投稿します。

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