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スカーレッド(中)

 お前が生きているなんて〝嘘〟だ。

 死の宣告に、アルリーは驚きを露わに目を見開き、ふらりと身体を燻らせ――そして、次の瞬間には猛然と笑って、シルバリオへと駆け出していた。

 振りかぶった拳に炎が渦巻く。〝赤〟――それは未だ燃え尽きぬアルリーの色の顕現。力の奔流は唖然とするシルバリオの顔面目がけて叩きつけられた。〝灰〟の少女はもんどり打って地に倒れ伏す。痛み。人肉の焼ける臭い、血の鉄味、そして地の死人のような冷たさ。久方振りの感覚の連続に浸っている暇はなかった。追撃する殺意に、腕立ての要領で身体を跳ね起こす。その間近を熱されたように赤く熱い拳が通り過ぎた。チリリと風に流れた髪が焼ける。

「ふむ。魔法使いと名乗っておった癖によう動けるの、……お主は軍属経験者かえ?」

 口調は呑気なまま、アルリーは先のシルバリオと同じく拳で地に穴を穿ってみせた。速度によって威力をかさ増していた己とは一線を画す彼女の魔法の凶悪さに、魔女の頬は引き攣った。これがあの神を詐称した軟弱者と血を分けた娘だと? 馬鹿な、在り得ん――在り得んぞ!

「これが赤の魔法……? ――まさか。貴女、……何者?」

 思わずといった様子でシルバリオは呟いていた。信じがたい。少女の白面にはありありとそう浮かんでいる。その言葉にアルリーは苦笑した。

「化物が、どの面下げて言いよるわ」

 何者も例外なく焼き尽くすはずの、アルリーの初見必殺の炎熱魔法を諸に受けておきながら、シルバリオは既に何事もなかったかのように回復していた。殺さずにはいられぬ、少なくとも七年前は制御すら不能だった、そんな己の強大過ぎる固有魔法の一撃を浴びながら、生きて、生きていられる者がこの世にいた。彼女は童顔の下で密かに慄いている。焼け爛れていた少女の頬は己が気づいた時には、まるで嘘のように元に戻っていた。そう――〝嘘〟、だ。

「しかしいささか性急が過ぎた様じゃ、な。〝灰色の魔法使い〟よ、……これでまた一つ妾はお主を理解したわ。固有魔法、それもとびっきりの。……魔導刻印じゃろ、それ?」

 何時の世も常人には理解できぬ業を駆使する血族はいた。おそらくシルバリオはその類だ、とアルリーは推論する。未知を振りかざす者は確かに不気味で人とは思えぬ。故にヒトガタ、まったく傲慢な話だ。

「成程……、少しばかり見えてきたぞ、お主の凶行の理由」

「――――ッ!」

 理解できないということは、相手からも理解されていないと同義だというのに。事態は起こるべくして起こったということか。人の側に立つ英雄でありながらアルリーはどうしてか同情していた。勝手な感傷だ。しかも的を外していた。

 それがシルバリオの神経を逆なでしている態度だと気付かないのは、少女に間接的な原因があるとはいえ、アルリーの精神的な未熟さとしか言いようがない。結果、美貌に血管を浮き上がらせるほどに、魔法使いは激怒した。

「……貴女が、――貴様ら人間風情がこのわたしを理解〝できる〟と? ……ふふ、くくく。…………笑わせんな、」

「ん? 聞こえんぞ」

「笑わせるなと言ってるのよ!」

 激情のままにシルバリオは横脇の家壁を殴りつけた。ミシリという音の直後に、身の丈の何百倍の質量がある家屋を微塵に粉砕するあたり、少女は大概人間を辞めている。しかしこんな芸当は異形か、それかアルリーなら容易に真似できる。ここからが魔法使いの本懐だ。何も猿のように叩くことだけが少女の流儀ではない。炸裂する木片、その指向性が〝嘘〟となる。斯くして。横合いに弾け飛んだはずの圧倒的物量は、不条理にも一転して彼女へと殺到した。

「死になさい」

「お断りじゃ」

 不敵にも笑みを浮かべたままアルリーはその弾幕を受け入れた。いや受け入れざるを得ないのだとシルバリオは嗤う。どれだけ大口を叩こうが、所詮はか弱き人間に過ぎないのだ。反応できない速度に対応することなど不可能。死に際に無様を晒さない、その姿勢だけは――。

「なんよ妾も的外れじゃが、……お主も似た者よの」

 業と。

 アルリーの炎髪に呼応するように、彼女の全身に穿たれた魔導刻印は熱を孕んだ。そうして。殺到した弾幕は――そのすべてが彼女に接触する寸前に融け尽きた。突然と昇る湯気、やがてその向こうから覗いた彼女はまったくの無傷で。

「……嘘よ」

「いや真じゃ。――魔導刻印は〝煌〟という」

 それがこの世でアルリーただ一人が持ちえる固有魔法。遥か三千年の昔、大陸を統べ皇帝となった覇道の血族〝赤色〟の真価である。しかしそれは彼方に失われた夢物語でもあった。何者にも明かされぬ内に廃れ歴史に消えた淡き幻、其は覇王の証である。父にも兄にも受け継がれなかった絆を、けれど幼き日のスカーレッドだけが顕現させたのだ。

 その本質は孤独。〝熱量に関するあらゆる事象を繰る力〟――それが魔導刻印〝煌〟である。誰も我に触れぬ。すなわち他人はけしてアルリーに触ることはできない。家族とて例外ではなかった。生まれ出たその日に母を失い、数多の乳母を蒸し殺し焼き殺してきた呪われた皇女。それが英雄〝望郷の業火〟スカーレッドの正体である。

「なるほど、ね。……けれどなら対価はあって然るべきじゃない? 貴様はさっきから平常そうに見えるけど……」

 努めてアルリーを睥睨するシルバリオであったが、背筋にはゾクリと〝くる〟ものがあった。正体不明に対する焦り、しかし同時に楽観もしている。少なくとも先に顔面に喰らった一撃、あの時に〝煌〟は発現しなかった。とすればあの一見して万能に見える力とて己と似て無敵ではないということだ。それさえ理解してしまえば怖い相手ではない。

「妾の対価は〝けして嘘を吐かないこと〟じゃ」

「……なに?」

「繰り返そう、けして嘘を吐かないこと――それが妾が固有魔法に奉げる対価じゃ」

 そんなシルバリオの思考を見透かすようにアルリーは続けた。なんと、なんとふざけた言を! 少女は愕然とし次に聞いたことを後悔した。嘘か真か、考えるまでもない。最悪の相性だった。道理で己の〝嘘〟に相克する者がいるとは、ますます気にいらない。対峙するべくして二人は出会ったのだ。運命、宿命、いや革命は――既に神によって定められていたとでもいうのか!

「……どこまで弄べば気が済むのよ」

 セレインはそんな神話の飯事のために死んだのか? 許せん、絶対に許せん。シルバリオは誓った。必ずや勝利することを。その暁に、神の輩は一匹残らず駆逐する。何人も死に絶えた荒野で吼えよう、我が勝利を!

「――わたしが、貴様に触れられないなんて〝嘘〟だ」

 クラリとする消失感、シルバリオは己が血が欠けていくのを自覚した。おそらく以て後二回。それまでに彼奴の血を、アルリーに血を流させなければ撤退しなければならぬ。この己が……、簒奪者〝解嘱の魔法使い〟シルバリオが、だ。

「……滑稽だわ。これじゃあ猿と変わらないじゃない」

 自虐を零しながらも、瞬きの間にシルバリオはアルリーに肉迫する。疾とは速さでもある。今生を統べるこの魔法使いに、負けは許されない!

「……嫌な状況じゃ」

 吶喊するシルバリオに聞こえないことをアルリーは祈った。状況は圧倒的に彼女に有利と、一見すれば言えるかもしれない。しかし状況はそう甘くない。おそらく少女は気づいている。お互いの、この相性の最悪さに。意趣返しのように顔面に放たれた拳を両腕で受け止める。

 やはり――。

「ふふ、殺せないって〝雰囲気〟じゃないわね!」

「うぬぬぬぬ、〝今〟は燃やすこともできんか!」

 威力は減量できるかもしれない。しかしそれが必ずしも勝負事の決定打にならないことは、アルリーにもわかっていた。事象すなわち確率を繰る彼女の固有魔法の唯一にして最大の欠点。それはまさしく零には干渉できないということだ。

 シルバリオの妄想にも似た憎しみは一部において正しかった。相克する英雄と化物は互いに殺し合う、それは現状の格闘戦も然り、魔法においてもまた然りであると!

 髪振り乱し咆哮して互いの頬を胸を腹を猛然と殴り合う二人の間に、魔法が主と入り込む余地などまるでなかった。ある種絶対の能力を持つ矛同士がぶつかれば相殺されるのは道理といえる。申し合わせたように重なる蹴りの応酬、どちらも痛みながら折れる様子はない。

 片や神の血を引く超越者、片や人間を棄てた簒奪者である。見目通りの可愛らしい弱力などない。あるのは肉切り骨噛み砕く顎門、握り潰す握力を内包した剛腕、尋常ならざる速度と威力を繰り出す健脚である。

 法や倫理では縛れぬ極致がある。極限の情動は時に人を戦鬼へ変えるのだ。喜怒哀楽で例えれば、スカーレッドを支えるのは喜びと愛しさであった。触れられることの何と暖かいことか、それが己を殺そうと繰り出される凶手とて彼女には些細である。しかし一方で何れは決着を、と望む己がいることも彼女はまた感じていた。フニの、けして触れられぬまま死に別れた友の意思を尊び、その仇を討たねばならぬ。でなければ己もシグも先には進めないことを、彼女は自覚している。幸福とは前にしかない。彼女の眼は遥か彼方だけを見据えていた。

 対するシルバリオを支えるのは怒りと哀しみだ。裏切った祖国、裏切られた己、そして辱められた友! すべてが我慢できぬ屈辱であった。しかし何よりも、不幸に、そんな世に戦いを挑み、勝ててしまう才能が少女にはあった。絶大なる力、人でありながら神にも迫るその才覚。それが少女を真の悪鬼へと変えたのだ。今や己の〝嘘〟によって躊躇さえ棄て去った少女は、どんな外道の所業も嗤ってできてしまう。止められる友はいなかった、止められる大人はいなかった。故にルーは哀しむ。最早、ただの少女は少女という異形のまま世に憚るヒトガタだ。人間から外れてしまった。戻れないのか、戻ってよいのか。それさえ本当にわからないのだ。どうすれば許せる? 己を侮辱し友を凌辱した彼奴らを! どんな貌をして許せば良いのだ! 少女の幸福は過去にしかない。すべては慰み、この世のありとあらゆる生物を殺し尽くした時、初めて少女は前を向いて友の死を悼めるのだ。

「ええい、なんと〝重い〟一撃か! 何故にお主にこんな業が許されるのじゃ、理不尽極まりないわ! 化物がぁ!」

「この、鬱陶しい小娘が! 卑怯極まりない詐欺師の血族が! どこまでも! わたしに纏わりついてぇ!」

 人はスカーレッドを善と、シルバリオを悪とした。しかしならば善悪とはなんだ? 殺すのが悪か、壊すのが悪か。

 前者ならばシルバリオは、いやルーは初め悪ではなかった。後にも先にも手を出したのは、アルリーの兄であり父である。少女は因果応報と行動するから仁侠の善は成立するといえる。しかし今まさしく少女は虐殺を繰り返し果ては人類の滅亡を目論んでいる。これが報復の形として正しいのか? けれど間違っているとすればインの死は正しかったとなってしまう。そんなことは少女には断じて認められない。

 逆に後者なら初めからルーは悪だったのだろうか。先に娼婦を壊したのは、人を壊し続けてきたのは異端審問官という地位に甘んじていた少女の罪なのか? しかしその仕事を与えたのも、少女の自由を縛る魔女の契約を行ったのも皇帝ひいてはアルリーの父親だ。それでも少女は悪か?

 話変わり皇子の所業はどうなのだ。人狩りさえ極論を言えばインを汚しはするが、殺しはしなかっただろう。けれどならばインが己の尊厳を護るために、天上人たる皇一族に逆らい死を選んだのは悪だというのか? 身分によってそれは決まってしまうのか? だとすれば七年前に皇を凌駕した少女を、彼女以外の只人が悪だと論ずることはそもそも間違いではないのか。

 シルバリオの想いはすべて詭弁の産物なのだろうか。親友を失った少女の悲しみは論理的に間違っていたら悪なのだろうか。

 転じてスカーレッドはどうか、シルバリオの想いをアルリーは知らない。知れば彼女はこの拳の応酬を止めるだろうか、無意味だと言うか? そんな問いの答えは確かだ。

 止めない。アルリーは止めない。明確な目的があり、それが人々に支持されているからに、彼女には止まる理由がないのだ。しかしならば問題は堂々巡りである。両者の違いは目標を達成しようという本質的においては存在しない。それでもどうして善と悪に評価は分かれる。

 いったい何が二人を分かつ?

 わからない、わからないから――結局、こうして殺し合う以外に、善となる勝利者は決まりようがない。法と論理は破綻し、感情は複雑に絡まり解きほぐせない。故に状況は原始の力のぶつかり合いに帰結する。得物さえない素手の詰り合い、それすらも両者は拮抗していた。

「妾こそが正しい!」

「わたしが正義だ!」

 裂帛が二人を叩く。目まぐるしく入れ替わる攻防。しかし神の悪戯か、ここまで討ち合ってなお両者に致命傷はなかった。掠り傷はある、けれど出血さえ未だにないのだ。阿吽の呼吸ともいうべきアルリーとシルバリオの可笑しな連帯感。いっそ無限に応酬は続くのだとさえ錯覚しそうになる。けれども佳境は訪れる。不意に、少女の力が爆発的な高まりを見せたのだ。

「くふふふ、あひゃひゃひゃひゃ!」

「な、なんじゃ! 気でも狂うたのか、こやつぅ!」

 明らかに不明瞭な強力に、アルリーは思わず態勢を崩される。続く連撃。脚、腹、胸、と。見事捌き切った彼女だったが、遂に顔へ迫ったシルバリオの刺突の爪先が、彼女の右頬をざくりと抉る。

「しまっ……」

「左足が折れてるなんて〝嘘〟、右耳が聞こえないなんて〝嘘〟、疲れてるなんて〝嘘〟、両拳を痛めてるなんて〝嘘〟――」

「ええい、抜かったわっ!」

 痛む右頬を中心に、急速に血が無くなっていく様にアルリーは恐怖した。その魔導刻印故に彼女は己の心情に正直にならざるをえない。立ち向かう姿、それは勇気。覇王の末裔、皇には常にそれが問われている。今ここで己がすべきこと、それは――彼女は鋭く息つくとともに、傷口に手を当てた。

「う、ぐぐぐ……があ! い、痛いのじゃあ!」

 熱血。異臭と絶叫。しかし痛み伴う英断はシルバリオの〝嘘〟に、それ以上の侵攻を許さなかった。

「うふふふ、痛そうね、――可愛そうに、女の子が傷なんてつくっちゃって」

「…………言ってくれるではないか、女郎!」

「あらあらあら……怒ったかしら?」

 〝煌〟が滾るのを感じる。敵討つ力、覇道の昂り――眼前のシルバリオを殺せと刻印は告ぐ。黙れと心中でアルリーは一括した。主導権は己にあると、たかだか呪い風情が引っ込んでろ! 決着は人の手で着けなければ意味が無いのだ。

 シルバリオは一転して上機嫌だ。〝嘘〟とは血の定め、流血こそが我が源。少女は死から離れられぬ。死神、悪鬼、簒奪者。己から怒りと哀しみ以外を悉く盗んだ彼奴らが何を言う、むしろ耳に心地好いわ! 力に酔ってこそ十全は発揮できると少女は信じている。なにせ今までだってそうして生きてきたからだ。

「じゃあ、もっと怒らせましょうか」

「……喋るな、聞きとうないわ」

 そうしてシルバリオは繰り返す。

「フニのことでも?」

「…………なんじゃと」

「どうやら貴女、勘違いしてるみたいだから教えてあげる。フニは、ね。…………くふふふふ、生きていたわよ、〝さっきまで〟」

 アルリーの眼が驚愕に見開いた。疑念、喜び、そして話を理解するにつれて湧き上がるのは、怒りと哀しみ。ふつふつ、と。肩が震える、唇が戦慄く。まさか、まさか、まさか――。

「……お主よもや」

「ええ、誇り高く死んだ? ふふふ、馬鹿みたい! そんなの〝嘘〟よ! フニは死んだわ、ついさっき! 実の弟に討たれてねえ!」

 折角のコレクションは望みを叶えることなく果てた。それはそれで残念だったが、もう正直なところシルバリオの興味は薄れていた。どうでもいい。今はそんなことよりもアルリーを、この小娘を始末することが先決だ。それっきりシルバリオはフニの名も、小生意気な弟とやらの名も忘れた。記憶の彼方に追いやった。

「――ッ、シルバリオ! お主ぃ、許さん!」

「あはははは! さあ踊りなさいな、わたしと奏でる円舞曲で!」

 愛憎の悲劇は続く。

 激昂し跳びかかるアルリーをシルバリオは嘲笑とともに向かい入れた。



 熱殺蜂球、そうアルリーは言っていた。

 蜜蜂は一匹では雀蜂に勝てない。仲間と群れて初めて戦になる。雀蜂に挑むことができる。故に犠牲を恐れるな、命を惜しむような腰抜けが一匹でもいれば皆死ぬことになる、と。

 戦況は熾烈を極めている。異形の揮う八つの剛腕。鈍重ながら殺傷力過剰の暴風は、少しでも触れれば果実をもぐように容易く、里人の頭を、胴を、抉る。その恐怖に呑まれてなお蜜蜂の群は吶喊する。シグもまた例外ではない。一匹の働き蜂は今や死に場所を求めさ迷う軟弱者ではない。勝つために走る。セラにもう一度会うために、少年は兄を討つ一矢となるのだ。

 拳嵐の轟きは、脅威ではあるがしかしシグにも見切ることができた。森で鍛えた俊足が己を救っている。獣の強襲にも咄嗟に対応できる柔軟な筋肉が、研ぎ澄まされた感覚が、今も不規則に振られる拳を危なげなくかわした。その隙を縫うように少年はポケットのナイフを投擲する。それが異形の右目を穿った。

「ああっ! ――どうして!」

「痛いだろ、兄貴」

 どうして家族を傷つけるのか、呻きとともに兄だった異形はシグにそう問いかけていた。

「けどな、姉貴はもっと苦しかったと思うぜ」

 姉貴――兄嫁は死んだ。自覚などなかろうが異形が殺したのだ、フニが殺したのだ。自身の妻を己が手で屠る。なんと、なんと業の深き話か。偶然だろうが必然だろうが、それだけでも異形は生かしてはおけないのだとわかる。

 元人間のよしみ、死者は墓場に還るべきなのだ。願わくば今度こそ兄嫁とともに――。それがシグの身勝手な願いの一端だった。アルリーの話を聞いて、悲しむセラと兄嫁の背を見ながら少年がふと考えていたことだ。エゴというならエゴなのだろう。少年は兄を殺す、人として弔うために殺すのだ。兄嫁の使った利器が哀しみを携えて空を奔る。

 けして軽くない傷を負ったためか、拳はいっそう速度を増していた。怒涛の猛攻がまた幾人を冥土へと導く。雀蜂の針は凶悪だ。獲物が死ぬまで何度も何度も何度も毒を注入する。例え拳がそれを担っていた。牙でもある強力無比の八本針。しかし蜜蜂を舐めるなよ。死はけして無駄ではない。仲間の屍を踏んで蜜蜂はまた一度熱くなる。

 一刹那の手話による応答が、里人達の反応を高めていた。右方より危機反応、シグが飛び退けば一白の後に異形の拳が通過する。どんなに力が強かろうが当たらなければ無意味。まるで一個の生き物のように皆が蠢く様はある種壮観でさえあった。これが、これが姫君様の指示の下で怪物を退治するために行われたのなら、どんなに誇らしかっただろうか。けれど今の戦に高揚感はなかった。ただ英雄だった男を弔うためだけに、里人達は、蜜蜂は、かつて救われた己が命を燃やしていた。

「どうして!」

「本当にわからないのか、兄貴。これが――兄貴の守った人達だろうに」

 そして遂に。シグの揮う鉈の一閃が、風切り音とともに異形の腕二本を切断した。

「ああああ、どうして!」

「兄貴はさ、追い詰められるとちょっと後ろに下がるんだよな」

 後退しようとした異形だったが、重すぎる尻のせいで身動き一つままならない。こんな醜い肢体がシグの身体に引っ付いていること、それが少年には気に喰わなかった。裂帛の一刀が、異形の虫の脚に似た右足を破砕した。

「よし、脚を潰したぞ! 距離を取れ!」

 皆が一斉に距離を取る。蹲った異形は動けないようだった。もっともいつ再生するかわからない。だから――その前に決着を。

「シグ!」

「……っ、セラ! なんで」

 荒い息を吐くシグの傍にいつのまにかセラは寄り添うように立っていた。少年は少女にこんな陰惨な光景を見せたくなかった。少女はフニが異形だろうときっと悲しむと、そんな直感があったからだ。予想は当たり、振り返ってみれば少女はやはり涙を流していた。後悔。けれども次に少女が差し出した腕の中に、――ジークフリードはセレインの覚悟の煌めきを見た。

 差し出されたのは灰色の世界でも特段に暗いバケツだった。そうシグが錯覚したのも仕方ない。水とは違う濁り、それはアルリーの来訪によってこれから先に里に富をもたらすだろう、その資源の名は油といった。それも森で少年が狩る獲物から、毎度少量しか採取できない特に発火性に優れた部類である。これと後方にチラつく赤い火矢。

「そうか……」

 なるほど。英雄〝望郷の業火〟スカーレッドに命を捧げた働き蜂に、これ以上に相応しい最後が果たしてあるだろうか、いやない。シグは三度涙する。しかし最後となるだろう今だけは違う。この涙は兄嫁の死を嘆き悲しむものでも、兄ファフニールの身を悔やむものでもない!

「勝って」

「ああ」

 力強く肯き、シグはバケツを受け取った。人から人へ送られたずっしりとした〝重さ〟が、異形に集中する。火矢を構えたのは長達だった。老骨の身に鞭打って弓引き絞る彼らが最後に何を呟いたのか、少年にはまだわからなかった。

「どうして」

「さよなら」

 業と。

 アルリーの齎した炎が、異形の身を、フニの身を焼いていく。叫び。今際まで死ぬことを許されなかった英雄に巣食っていた異形の断末魔が里に響く。

 その揺らぎの中にシグは兄の面影を見た気がした。憧れは融けてゆく。そうして残ったのは――牡丹御前の如き頭蓋骨と灰だけだった。

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