スカーレッド(上)
いったい英雄とはなんだろう?
アルリーは唐突と考える。明日には戦だというのに、里の雰囲気は〝努めて〟穏やかだった。己以外の誰の目にも映らないだろうが、本日は晴天、散歩するにはいい具合だ。故に一人歩きながら彼女は考える。
果たしてスカーレッドは英雄だろうか、と。
シグは連れてこなかった。フニの死を悼む家族に無理を言うほどアルリーは己惚れていない。そもそも己が誰彼に命令する権利などあるのだろうか、英雄などと称えられる資格があるのか。英雄とは肩書きであり、そして結果である。彼女はそう自論する。しかしだとすれば、だ。
己は厳密な意味において英雄ではない。
なんせ結果を示せてはいないからだ。
今のアルリーは象徴としての側面が強い。途絶えぬ神の血統。灰の呪いを受けぬ特殊性は、魔女に逆らう者達の正当性を示す旗頭としては適任だ、と。まるで詭弁である。結局皇という過去だけが彼女を英雄と嘯かせている。表向きそれに応えてはいるが空しさはどうも否めない。
敗北者にとって世界は甘過ぎた。この七年の内、初めの四年間をアルリーはただ逃げてきた。生きるために、生き延びるために。人々の怨嗟と哀傷の嘆きを知りながら、しかし目を逸らし耳を塞ぎ口を閉ざして過ごしてきたのだ。
そうして担ぎ上げられた三年前でさえ、アルリーは貴族残党の走狗以外の何者でもなかった。あの頃はただ生きることさえ難しい、そういう時期だったから――。
そんな言い訳を重ねるアルリーの前にフニは現れたのだ。ファフニール、家族のために己が身を売った男の一人。己が金で買った一兵士。しかし彼こそが、彼らこそが真の英雄なのだと彼女は信じている。
多くの英雄は無名である。けれどそれが普通ではないか、名前よりも結果が大事なのだから、故に英雄は英雄としか呼ばれず、だが人々から〝我らの〟と称えられるのだ。
そんな数多くの無名の英雄を死に追いやった己が、英雄などと呼ばれることへの違和感を、アルリーは感じずにはいられない。しかしそれでも彼女は再び〝英雄〟として立ち上がった。
罪人、敗北者、恥知らず。どう言われようが彼らの行動を無意味だと、無駄死にだと、そうは認めたくなかったのだ。だから意地だ。アルリーは意地で未だに英雄を騙っている。
その先に悲劇があると知りながら、フニの死を悼むシグら家族の姿を見ながら、アルリーは大勢に自由を囁いて、人々を扇動し、彼の憎き魔女シルバリオを討たんと欲しているのだ。
誰もが知る英雄の裏側など所詮はこんなものである。アルリーにだって誰にも言えない秘密くらいあるのだ。しかし語らずそれを墓場まで持っていけたなら、その時には己は確かに真の英雄足りえるかもしれない、と。彼女はそう思うのだ。
現実は、そんなアルリーの切実として、しかしどこかのんびりとした想定を容易く凌駕する。彼女が思うよりもよっぽど早く、世界は英雄〝望郷の業火〟スカーレッドを渇望していた。
轟音。
衝撃とともに突然の殺意は現れた。訳もわからず反射的に地に伏せったアルリーの頭上を、岩石の塊が通過する。は? 理解するより先に全身が震えた。死にかけたのか、己は今――。まさしく呆然とするしかなかった。直撃すれば遺骸は原型も留めなかっただろう。
そう丁度目の前を歩いていた親子のように。
ふらり、ふらり、と。地面に大小二組の足だけが揺れる光景は、まるで現実味がしなかった。やがてぐちゃり。重力に負けて転がり、それからやっと広がる血の池が、アルリーをふっと常世に呼び戻す。
「……な、なんじゃこれは……?」
日常は一瞬にして煉獄へと様変わった。やっと耳打つ誰彼の呻きと叫びの声、尋常ではない。とんでもない事が起こっている! アルリーは混乱もそのままに立ち上がった。壁にめり込んだ岩石に今一度身震いして、飛んできた先へと彼女は振り返る。そうして目を見開いた。
「……門が、」
門がない。昨日確かにアルリーが潜ったはずの、あの巨大な門が、跡形もなく消えている。いや破壊されたのか? ともかく超常の怪異であることは間違いなかった。
「……異形か?」
それも特大に強力な彼奴が現れたのか、とそこまで考えてふと引っかかるところがあった。しかしアルリーがそれを勘ぐるまでもなく、異常は彼女目がけて跳んできていた。
「ふふふ、違うわ」
殺意に凍える風鳴りに便乗するように聞こえたのは、どこまでも重たい鈴の音のような声。再びその場から転がったアルリーの影を縫うように、右拳の一撃は地面へと突き刺さっていた。しかりと踏み固められていたはずの地面が、波紋のように罅割れ陥没する。恐るべき怪力だ。
「初めましてお姫様。あらあらあらあら……泥だらけねえ?」
此方を向きながらニヤァと嗤うそのヒトガタは、見てくれだけなら絶世の美少女と言えた。黒を基調とした豪奢な衣装は、霞む銀髪と痛すぎる青白い肌をより一層引き立てる。アルリー以外には有りえない、その配色の豊かさは独りの化物の名を彼女は知っている。
「……〝解嘱の魔女〟シルバリオじゃな?」
「うふふふ、あははははは! ……あーあ。違うわ、お姫様。死ぬ前に教えてあげる。わたし契約はしないわ、だから魔女は間違いよ。わたしは魔法使い、〝解嘱の魔法使い〟シルバリオ。わかったかしら?」
お互いの三白眼が交錯する。
シルバリオに慢心はまったくなかった。戦うまでもなく殺す。滾る魔導刻印の痕。貧血に目の下の隈をより深めながら、一拍の後に死の宣告がアルリーを襲った。
「それじゃあ、さよなら? 貴女が生きてるなんて――〝嘘〟だ」
兄嫁が死んだ。
シグが異変に気づいた時にはもう遅かった。轟音、衝撃。セラを咄嗟に胸元に掻き抱いた己の眼前にて、内壁を突き破って飛来した岩石が、文字通りその身体を四散させた。そんな突然の事態に少年が思ったことは――。
「……無事で良かった」
胸元に顔を埋めて震えるセラの無事、ただそれだけだった。おそらく感覚は麻痺している。血に慣れているとはいえ、家族の死にこんなにも無頓着だなんて流石に考えたくない。シグは努めて――努めて冷静となっていた。森を駆けた経験がこんなところで己を救う。呼吸は荒いが、しかし大丈夫だ。錯乱している場合ではない。感じろ、赴くままに生きる道を探れ。
「ねえ、なに、どうしたの? 何が起こったの!」
「落ち着いて、セラ」
「お、落ち着いてって……、シグ、いったいどうなってるの? 今さっき姉さんが、姉さんが!」
「落ち着いてくれ」
「あ、ああ、あああ……嘘、なんで? 死んじゃった……まだなのに、もう!」
「――〝セレイン〟!」
久しぶりに呼んだ本名に、セラはびくりと身体を震わせると、やがて静かに嗚咽を零した。猛然とした怒りがシグの心中では渦巻く。泣かせた、また泣かせた。今日だけで二度も、だ。世界はどれだけ、どれだけセラに辛く当たれば気が済むのか?
喧騒は刻々と近づいて来ていた。外から聞こえる悲鳴、まるで獣に喰われるような咀嚼音。おそらくは尋常の仕業ではない。異形。昨日アルリーから話を聞いていたが、どうやら魔女は話以上にとんでもない存在らしい。まさか攻める前に責められるなんて。
ともかく、シグはセラを抱きかかえるようにして移動することにした。森で毎日訓練したように足音を立てず、台所へと急ぐ。どれだけ役に立つかはわからないが、何か使える物があるかもしれない。入り口付近に砕けたガラスの破片を突き刺し、普段は入ることも許されていなかった台所を漁る。それを禁じた兄嫁はもういない。そう思うと不意に涙が滲んだ。認めがたい理不尽だ。しかし生きるとはそういうことだと若旦那も言っていた。割り切れ。納得できなくても。まだセラは生きている。ならばシグは戦える、そうだろ?
ずるり、ずるり、ずるり、と。
ありったけのナイフをポケットに詰め込んで、最後に出刃包丁か鉈かちょっと迷っていると、家に空いた穴から、例えればずり出た腹を引き摺るような音を立てながらナニカが入ってきた。縮こまるセラの背を撫でながら、台所入り口のガラスに目を向ければ――斯くして灰色にして巨大な異形の背が覗けた。
気持ち悪い。それがシグの正直な感想だ。あれだけの巨体ながら異形は虫のような脚二本で全身を支えている。そして引き摺っていたのは腹じゃなくて尻だ。ヒトガタでありながら蜂の針先の胴にも似たでっぷりとした尻、あんなものとてもじゃないがセラには見せられない。
異形は怪力ではあるが知能はあまり高くないようで、きょろきょろと周囲を見渡しながら、時折無造作に振った腕で内壁を破壊した。不味い。シグは少し焦る。このまま見つからないかもしれないが、かといって逃げられもしない。それどころか家自体を崩される可能性まである。
「…………おとり、か」
何気なく呟いた言葉に胸のセラがびくりと反応した。迂闊。しかし抗議の声は上がることはなく、代わりに腰に回していた左腕を抓られた。相変わらず変に気が利く。死の淵に至っても少女は残念なのだ。そんなところにシグは変に安心する。――そう、焦るな。軽挙は禁物だ。知恵を絞れ、そうして人は獣に勝ってきた。それは異形でもまた同じこと。異形の映る表口と、近場の裏口に視線を左右して距離を確認する。
「……セラ、返事はいいからよく聞いてくれ」
ぽんぽんと背中をシグが叩くと、しばしの沈黙の後にセラも背中を二度叩いた。前提条件はクリアされた。気丈にも少女は落ち着きを取り戻しつつある。これなら大丈夫だ。
「ゆっくり顔を上げてくれ、そしたら裏口を見て……、そう、ああ表口は見るなよ、気持ち悪いのがいるから。よし、じゃあ立ち上がるから音を立てるなよ……」
静かに上体を持ち上げていく。セラも不安そうな表情ではあったが、取り乱すことはない。どうやら腰も抜けてはいないようだ。まあ杞憂だったが、シグは即興であったが組み立てた策を頭の中でもう一度確認する。次いで鉈を手渡す。今の己は両手が塞がっているからだ。
「いいか、合図をしたら裏口に向かって走るんだ。何も考えるなよ、ただがむしゃらに走れ。そうして外に出てもすぐには立ち止まるなよ? どんな光景が広がっていたとしても走るんだ。できるよな? セラ」
その言葉にセラは少し表情を歪めた。薄々は勘付いていたのかもしれない。この今もあの異形に対して散発的な反撃しか行われないところを見るに、他の里人は、森に出ていた若旦那はもう――。けれどだからと言ってシグは諦める訳にはいかないのだ。
「生きようぜ」
セラは絶対に死なせない、死なせるものか。それがシグの意地だ。家族を、これ以上失って堪るかという少年の決意だった。右手で拾った欠片を弄ぶ、慎重にガラスに映る景色を覗いて、そうして横振りに欠片は放られた。カン、カン、カン、と。図った通りに欠片は三度跳ねて、〝まるで違う部屋から放った〟ような角度で異形に命中した。
「今だ、走れ!」
異形が見当違いの方向を見ると同時に二人は走り出す。当然物音が立つが、果たして三重のはったりが木偶の坊に見破れるか! 距離は秒数にして僅か、鼓動が脈打つ。間に合え、と。その祈りがどこに通じたか、二人は無事に外へと飛び出せた。セラの手を引いてシグが駆ける。少しでも、少しでも距離を!
「止まるなよ!」
「――どうして?」
そんな二人を、まるで責め立てるように後ろから声は聞こえた。在りえない声だった。亡者の囁きには違いない。今あってはならない声だった。死んだはずの兄の、フニの声だ。思わずシグは己の言ったことさえ忘れて足を――。
「……んな、」
「止まらないで!」
セラに引っ張られてつんのめりながらも、シグの足は動き続ける運びとなった。想いは少女も同じはずだ。けれども少女は止まらない。懸命に、懸命に走り続ける。少年は先の無様が、無性に恥ずかしくなった。惑いは己を殺す。生き物の喰う術の容赦の無さは若旦那から何度も教わったし、事実として知っていた。だというのに、咄嗟に未熟さを露呈した己の〝甘さ〟が少年には悔しい。そして同時に怒りは湧いてくる。あの魔女、いったい人の兄に何をした!
そうして。やっと二人は里人が陣を敷いている場所まで走り抜いた。振り向けば曲がり角にもまだ異形の姿はない。シグの予測通り鈍重である。しかし、ずり、ずり、ずり、と。這いずるようにゆっくりと迫る音が聞こえる。掛けられる励ましの声に応えながら、少年は急ぎセラを陣の奥へと連れて行った。
「セラ、……何かあったらすぐに逃げてくれ、俺に構うなよ」
「シグ……」
別れは淡白だった。そう意識しなければ、ここにいつまでも留まってしまいそうな気がして。シグはすぐに踵を返した。歩き去る少年の背中をセラは静かに見つめる。
「勝って」
その言葉にシグは震えた。武者震いだ。生きてとも、待ってとも、違う。セラの言葉は万感の勇気を少年に与えた。それを前にはどんな返答も無粋だった。もっとも巡りの良くない少年の頭では気の利いた言葉など咄嗟には出てこないのだが、だから少年は真似ることにした。
英雄を。
姿は見えずとも戦っているに違いないアルリーを。
掲げられたシグの右拳は傷だらけだった。歳不相応に洗練されたその肉体は家族を、たった一人の愛するセラを護るために鍛えた。その真価を魅せる時がやって来たのだ。
「どうして」
シグの眼前には、里人の眼前には、フニの顔をした異形がいた。血を分けた兄弟の無残な姿があった。昨晩にアルリーが語った最後を、容易く裏切るような仕打ちを、あの魔女という外道は行ったのだ。兄は汚された。死してなお汚された。英雄が、汚されている。
「……兄貴」
敵はあれと魔女だけだ、そう近くの里人の一人はシグに伝えた。――お前に家族が殺せるか? 問われているようだった、気遣われているようだった、試されているようだった。
「兄貴!」
「どうして!」
応える音は虚ろで、意識は遠く彼方へ向いたまま。シグの声に感応するように異形は吼えた。ゆらりと少年は鉈を構える。涙で視界が滲む。けれども誰に任せきりにすることもできない。己が――いや己も終止符を打つのだ。英雄は英雄として死ぬ。死ななければいけない。それがフニを犠牲に生き残った少年の、たった一人の弟としての責任なのだ。
「どうして!」
少年ジークフリードの一世一代の英雄奇譚。狂い叫ぶようにして吶喊してきた異形を前に、里人フニの尊厳を賭けた戦は始まった。




