シルバリオ(中)
契約。
我、皇一族に害することの一切を許さず。
上記に反した場合死を受け入れることをここに明記す。
◆
蒼穹の空を少女ルーは呆とした表情で見上げていた。
もうすべてがどうでも良かった。煤けたボロを纏うことも今のルーは厭わない。なんせ己はこれから死ぬのだ。だからもう格好なんて気にする必要もないし、先からにやけ面で石を投げてくる餓鬼に注意を向けることもない。未練はある。けれどいい、仇は討った。証拠に眼前にて此方を睥睨される皇帝も、その御子息にも己の様を笑う気配はない。
「……ざまあみろ」
思いきり舌を見せて挑発する。その刹那に背を蹴られ、ルーは地に俯せっていた。痛い。頬を擦り剥いた。きっと血が出てる。でも愉快だ。笑わずにはいられない。くくく、と蹴られようとも声高らかに嗤い続ける少女を、傍らの親衛隊の男は薄気味悪そうな目で見つめていた。覚えがある。たまに仕事を供にしていた男だった。いつも少女に怯えていた男だった。これが己の死刑執行人だと? 殊更笑えてくる! どうやら皇帝というのはとんだ道化らしい。
「あははははは!」
誰気にせずルーは嗤った。死に怯えなどない。次の瞬間頭を刎ね飛ばされようとも嘲笑ってやる。敗北者であるはずの己が勝ち誇り、勝利者であるはずの彼奴らが皆悔しさに臍を噛む。そのなんと愉快なことか! これまであったはずの敬意など既に塵芥に等しかった。何が帝か、何が神か。彼奴らなど今の少女には詐欺師と大差なかった。
常日頃から娼婦を壊し、反逆者を切り刻み、味方からすら恐れられたこの嘘つきの己と。
異端審問官〝解嘱〟シルバリオ、それが先週までのルーの肩書だった。恐るべき魔導刻印を持つ帝国の走狗は、今まさしく断頭台に消えようとする間際にも狂気を撒き散らしていた。
「ざまあみろ!」
事の起こりは七日前。
第七皇子が〝魔女〟シルバリオに滅多裂かれた、その前日に遡る。
ぞろり、ぞろり、ぞろり、と。
ある部屋に影三つ。二人は少女で一匹はヤギ、片割れは死にかけでもう片割れは殺しかけ。最後の畜生は己の所業に無自覚とくれば、ここはまさしく地上の地獄であった。
「ふふふ、――それで貴女は罪のすべてをこの『私』に話したのかしら?」
ぞろり、ぞろり、ぞろり。
返ってきたのは絶叫だった。手足を拘束され、身動きの一つも許されず、座椅子に括られた片割れの少女は既に正気を失っている。
少女は娼婦だった。ごく普通の、帝都にて商う娼婦。幼くして親を亡くし、それから生きるために文字通り身を売って過ごしてきた。しかしそんな涙ぐましい努力も、赤の他人には所詮汚らわしさとしか映らない。故に奇跡は起こらないのだ。
シルバリオはそれをよく知っている。手記に目を落とし、娼婦の証言の整合性を今一度確認しながら思い出したように塩を摘むと、少女はそれを娼婦の足へと振りかけた。
途端に声に成らぬ騒音を発しながら娼婦はでろりと白目を向く。しかし無意味だ。ぞろり、ぞろり、ぞろり、と。やすりに似たヤギの舌が、塩をまぶした娼婦の足裏を三度嘗めこそげば、そのあまりの激痛に此方へ戻ってこずにはいられない。
初めのむず痒いような感触は既になく、皮膚はずた裂かれ、赤い肉が覗いていた。
そんな鬼畜の所業を行うシルバリオこそが、神と等しき皇の御名の元で帝国に叛意する輩を裁く異端審問官なのだから、奇跡などそもそも起こるはずもない。娼婦はただ運が悪かった。たまたま一夜を供にした上客が、たまたまその翌日少女に捕まった。だからこんな目に遭っている。薄汚れながらも確かにあった掛け値なしの道義はもはや死して遠く、また娼婦もこのままではそう遠くなくその後を追うだろう。
それを実行するのが〝解嘱〟シルバリオの生業だ。成人して早九年、仲間内からは〝魔女〟とも仇名されるその残虐さを、しかし本人だけは心中で否定していた。誰が好き好んでこんなことをするものか。仕事だからに決まっている。そうして今日も少女は人を壊すのだ。
仕方ない、仕方ない。
そう嘯きながら、けれど確かに口元に笑みを携えて。
一際甲高い戦慄き声の後、部屋から出てきたシルバリオの頬には飛び血の跡があった。その右手には首を握り潰されたヤギの死肉が引き摺られている。つう、と悪臭が鼻を衝く。扉近くに待機していた親衛隊の男は、そのいつもながらの悪鬼の様に思わず身震いした。
唯一皇帝陛下の表の守護者である親衛隊が、白銀を基調とする制服を着込んでいることへの当てつけのように、裏の守護者である異端審問官は、かっちりとした黒金の制服を身に鎧っている。これで鎌でも掴んで戦場に赴けば、誰もが少女を古の死神と錯覚することだろう。
帝国三千年の栄光を影から支える鴉の一羽は、その硬質の美貌にまったくよく似合った三白眼で以て男を射抜いた。
「近日中に其方へも話がいくでしょう。既に部屋の娼婦の今朝は〝嘘〟となっています。後はどうとでもお好きに。……ああ、それとこれの処分もお願いします」
差し出されたヤギの、その焦点定まらぬ白く濁った瞳と顔を合わせた男は、今度こそ悲鳴を上げた。対するシルバリオは炯々とした眼光で男の様を観察している。狂悖。少女はどこまでも人を試す。
そもそも有りえない話だ。告解尋問を行った対象を生かして他の部隊へと引き渡すなんて、普通なら絶対にやらない。けれどシルバリオはやる。それが〝できる〟ということが、この年若き異端審問官が解嘱とも魔女とも恐れられる理由なのだ。
魔導刻印〝嘘〟
それがシルバリオの血族〝灰色〟に代々と刻まれてきた固有魔法の名である。そして現状において少女しか持ちえぬ呪いだ。巨大な力は身を滅ぼす、生き残ったのは少女だけだ。唯一、まともでない少女だけがその力を受け継いでいる。
概略すれば〝血を対価とすることであらゆる嘘を繰る力〟それがシルバリオの〝嘘〟だった。故に解嘱。シルバリオを眼前に人は嘘を吐き通すことはできない。見合わぬ地位に居座っていた帝国の癌はこの九年間で悉く駆逐された。故に魔女。皇帝陛下ですら契約しなければとても安心しては雇えない。己以外の誰の意思も捻じ曲げ、我を押し通すことに特化した力を前に、何者も震え上がらずにはいられなかった。
「…………魔女、め」
されど人は陰湿に粘着するものだ。僅か十九の小娘が異端審問官をやっていれば、敵わぬと知ってなお嫉妬する。背に吐かれる言葉、縊り殺してやろうかと考えたのも今は昔。いちいち反応してやるのも最近は馬鹿らしい。所詮は力無き臆病者の言葉だ。シルバリオが思わせぶりに視線を向ければ、そら、大人が俯いてそそくさして。チッと舌打つ少女は不快気だ。
「…………ふん」
失望があった。成人としての歳を重ねれば重ねるほど、かつてあれほど頼もしく思えていた大人の彼も彼女も、その本質が結局大きな子供でしかないことがシルバリオには悔しかった。どうして誰も言ってくれないのか。小娘が、その生意気な態度を改めろ、と。
言ってくれなければ、正して貰えなければ、何も変われないではないか。わからない。近頃職場で感じているこの息苦しさ、その理由、ただ言われたことを懸命にこなせばこなすほど、シルバリオは孤立していった。歳不相応な地位、浮世離れした容姿、類まれなる才覚。巷が羨むようなものには事欠かない。だというのにどうして、当たり前の幸せだけが遠かった。
上司への報告へ急ぐ途中、皇族の方が見えたので黙礼する。敬意と嫌悪。偉大なる神の血族〝赤色〟への憧れと、それを汚す癌に対する憎しみが心中で入り混じる。着飾った女を両脇につれて歩く男は醜かった。離れてもわかる〝すえた〟雰囲気。よくも噂に挙がる第七皇子だ。
曰く帝国の恥部とも囁かれるこの男は、権力を傘に度々碌でもない真似を仕出かす。今も朝帰りの様子だった。神の血を引きながらどこまでも愚物。叶うのなら視界にも入れたくない。確かにシルバリオが抱いているはずの忠誠が無駄に揺らぐのだ。すれ違う。緊張。しかしどうやらお相手の一人が気を利かせてくれたようで、皇子が此方を向くことはなかった。
「――――。…………ふう」
留めていた息を吐くもまにまにシルバリオは足早く上官室へと急いだ。制服の袖口から覗く割合頑丈な手首には鳥肌が立っていた。不敬とは思いながらも、どうにも生理的嫌悪感は拭えない。あの皇子と同じ空間など一秒だって勘弁だった。嫌われ者にさえ嫌われる者。触らぬ神とはこのことだ。こっそりと魔法まで使い、少女はこの時を記憶から嘘と否定した。
得てして。
権力者とは傲慢である。本人がそうは思わなくとも格下から見れば大差などありはしない。人は同じものを見ても感じること考えることが違うのだ。ならば生活様式が違えば何が慇懃で何が無礼か、そんなことは究極的には誰にも断言できない。
シルバリオは女の行動が気を利かせたものだと考えた。随分と都合の良い話だろう。少女は知らない。第七皇子に寄り添う二人が娼婦だったことを。知らない。少女が先に壊した娼婦を二人が特別気にかけていたことを。もう忘れた。嘘になった、――いいや、嘘にした。だから気付かなかった。女の囁きと、己の背を見つめて息を荒くする下卑た男の笑みに。
シルバリオの日常は初めから血涙と怨嗟に彩られていた。空に精霊が舞い、人々が当たり前のように魔法で営みを紡いでいた世界にも、しかし確かに惨劇の影は存在していた。故にその最先端に位置していた少女にはわからない。
上官への報告を済ませれば、異端審問官〝解嘱の魔女〟シルバリオは、また知らぬ何者かを告解尋問で壊し、あるいは帝国に仇為す諜報逆臣を誅殺するのだ。その足取りに淀みはなく、肩で風を切り、嘲笑を浮かべながら、床を踏み締め進撃する。
ぎし、ぎし、ぎし、と。
心は、日常は、錆びついた歯車を無理やり回転させているような軋み音を上げ続けていた。もうとっくに限界であることは誰も知っている。けれど誰もそれを無理に正そうとはしない。楽だからだ。人は失って初めてもう遅いのだと、手遅れだったと嘆く。
砂上の楼閣。色の精霊の魔法に支えられ古より大陸に巣食ってきた帝国が、その支柱を己が白蟻とも知らぬ白蟻に喰い千切られるのは、今より数刻後のこと。誰彼も今日が崩壊の前日などとはまさか夢にも考えない。終わってしまえば皆口を揃えてこう言うのだ。
昨日までは、と。
まさしく、無神経な勝利者とは慇懃無礼なものなのだ。
インの話をしよう。
セレインはシルバリオと同じく城勤めをしている幼馴染みで、そしてたった一人の親友だ。彼女の眼前では少女はただのルーに戻ってしまう。どうしようもなく致命的な、しかしとても捨てることなど考えられない弱点。それがインだった。
インはルーが普段どんな所業を城内で行っているか、すべて知った上でそれでもシルバリオを〝ルー〟と呼ぶ。それは優しさか憐みか、正直なところ少女にはわからない。けれどそれに応えないなんて真似が、孤独に苛まれる少女にできるはずもなかった。彼女だけが希望だった。彼女だけが少女を理解していた。
このままではいけないと理性は告げている。しかし情動を棄てられるほどルーは冷たくなれなかった。そうして。手遅れになったその日も、少女はインに甘えていたのだ。
「あれ、ルーは今帰り?」
「…………。……イン、誰が見ているのかわからないのよ? こんな魔女に、気安く話しかけるものではないわ」
内心の嬉しさを押し隠し、精一杯仕方ないといった顔でルーは振り返った。あれからも訥々と阿鼻叫喚を続け、帰宅する折にはすっかり血が足りなくなった少女の顔色は、月下とはいえ嫌に青白い。ふらりと揺れる立ち姿に、インは図らず眉を顰めた。また無理をして。そう言いかけて口を噤み、次いで浮かべた笑みは無理やりだ。
「あはは、馬鹿だよねえ。こんなに可愛い〝解嘱の魔法使い〟なのに、さ」
「称号と仇名が滅茶苦茶よ、それに『私』は魔女であって魔法使いではないわ、だって契約しているのだもの。それはインも知っているでしょう?」
契約。その言葉はいつもインを不快にさせた。任意ではなく強制。ルーが皇帝陛下と交わしている〝魔女の契約〟とはそういうものだ。少女は成人を迎えた十の頃に〝嘘〟の固有魔法の危険性が糾され、生の対価として帝国の走狗となった。
身寄りなく寂しい想いをしていたルーに帝国が差し伸べたのは、救いの手ではなく奴隷の鎖だったのだ。それが密かにインには我慢ならなかった。救える者を救わぬ者も、そして救えぬ己も。彼女が城内の一角に生業を求めたのはそんな無力な正義感からだった。
「それは聞いてたけどさ、……やっぱり面倒だし変だよねえ。ルーの、その『わたくし』っていう嫌味っぽい言い方も全部契約で決められてるって話でしょ? あたしは好きじゃないな、そういうの」
ルーは勿論そんなインの気持ちを理解していた。この実直だが闊達ではなく、結構に細かいことまで気にかかる性質の幼馴染みが、どうして絶対にわかりあえないであろう皇族や貴族に仕えるのか。考えるほどにその気持ちは素直に嬉しかった。けれどもその実直過ぎる性情が、少女には同時に心配でならない。
「……まあ、確かにインに話すのに『私』っていうのは未だになれないわね。けれど、ほら、こうして一歩でも外に出てしまえば『私』は〝わたし〟なんだから、それで良いでしょ? さあ、そんな暗い顔をしていないで何か美味しいものでも食べましょう?」
城門を抜けた途端に口調を改めたルーは、何か言いたげなインの手を引いて町の喧騒に身を躍らせた。切り替えは大切だ。親友に、こうも悲しげな顔をされては堪らない。仕方ないものは仕方ないのだ。嘆いたところで世界は変えられない。だから、この一瞬を楽しんで貴女と生きていられれば己はそれで良かったのだ。
ルーはそれ以上を望まず。
インはそれ以上を望んだ。
それから二人が足を運んだのは近くの酒場だった。言い訳ではなくルーはお腹がすいていた。この世に万能などなく、嘘を弄するが故に少女は常に貧血気味である。
果たして野菜が先か、肉が先か。
これはもう永遠の謎だろう。古今東西のあらゆる哲人にも答えは出せないに違いない。なんせ完成系としてみれば区別がつかないからだ。客人、友人、主人。上からルー、イン、そして酒場の女主人だが、同性とて解りあえないのである。少女は野菜を先に入れると言い、彼女は肉を先に入れると言い、女主人は二人の傍で野菜も肉も同時に入れて炒めていた。
そうして現在。こじんまりとした席で向かい合う二人の眼前には、一皿まとめのニラレバともレバニラともわからない料理が置かれている。手持ちの杯を合わせて、野菜も肉も摘んでしばらくすれば旨さの前にそんなことは些細事だった。心なしか女主人も胸を張って満足げだ。
「それでさ、」
「……ん?」
談笑を重ねて夜もいよいよ深まってきた頃、飲んで顔を赤らめていたはずのインが不意に切り出した。スッと細められた瞳がルーを射抜く。
「ルーはいつまで仕事が続けられると思う?」
その言葉に、ルーは忙しなくさせていた箸を止めた。少女には咄嗟には答えられない質問だ。守秘義務やらもそうだが、そんなの普段は考えたこともない。これから先、己がどうなるのかなど少女にはまるでわからなかった。
「さあ? それにしてもいきなりね」
「いやさ、あたし達も今年務めれば十年になるじゃない。今はまだ身体にガタはきてないけれど、それでも確実に時間は過ぎていく。だからふと思ったのよ、今は確かに楽しいけれど――いったい、いつまでこうしていられるのかなって」
憂い気に続けられたインの言葉が、答えを求めるようなものではないことはルーにも察せられた。そして意外に思った。なるほど考えてみればそうなのだ、いつまでも仕事ができるわけではない。人は老いる。そんな当たり前の事実を少女は忘れていた。
シルバリオは今日に生きていた。この辛く苦しくしかし楽しくもある日々が、このまま永遠に続けばいいとさえ思っていたのだ。けれど時は止まらない。いつか必ず終わりは来る。そう近くなく、かといって遠くもない己の終わり。それは思い人と出会っての結婚か? それとも任務に失敗しての死か? 後者の方があり得る今の日常はもしかすれば不幸なのかもしれない。
「これ以上を望むのは贅沢だと思うけど、……なるほどね」
ルーの人生は平坦ではなかった。成人する十を前に両親は死に、重すぎる呪いだけを背負い、それでも生きようと足掻いてきた。あの時も思い返せばずっと子供でいたいと願っていたのだ。それでも少女は歯を食い縛って大人になり、そしていつしか少女でさえなくなる己が現れる。
その先に幸せはあるのか?
願わくばインの隣で笑っている己がいれば良いなとルーは想った。
それからは何事もなかったかのように穏やかで、ほろほろとした気分のまま酒場前で二人は別れた。親友との逢瀬が終わり、朝日が昇れば再びルーは酔わねばならぬ。誰と時を供にする楽しさを知りながら、誰を苦しめ壊す帝国の走狗、恐るべき魔女に変貌しなければならない。しかし必要悪にも愛おしむ者がいる。生きるべき理由がある。ならばその存在がひとえに罪であると、何者が断言できるだろうか。普通に生きられぬ非日常の日常は誰が護るのか?
それを護っていたのはインだった。彼女こそがルーを護っていた。それ故に少女は己が命を懸けることを善しとしたのだ。人は護るべき価値がなければ護らない。彼女がいるからこそ、少女は帝国を護り続けてきた。しかしそんな決意の矢先――。
惨劇は幕開いた。
寝間着姿のまま夜道を駆けるインの惑いは余人には理解できないだろう。混乱と恐怖。叶うなら彼女はへたり込んでしまいたかった。しかしそれはできない。聞こえるのだ。醜悪なる荒息と低い怒鳴り声が、ここで諦めれば己は死ぬ。いやもっと恐ろしい目に遭うだろう。それは酔った頭でも理解できた。故に菜の花のような可憐さの美貌を涙に歪めて彼女は逃げていた。
事態はまったくインにとって埒外だった。ルーと別れた後、家に帰った彼女は手早く着替えを済ませてもう寝てしまうかと考え、寝転がってみたのだが日を跨いでも不思議と寝つけない。飲み過ぎか? 仕方なしに起きだして酔い醒ましにと湯を沸かしていた時だった。
突如として無法者はやってきた。理由はわからぬ。しかし下卑た笑みを浮かべて表戸を蹴り破り幾人の男達がインの家へと押し入ってきたのだ。咄嗟に湧き立つ鍋を放れたのが幸いだ。それから手当たり次第に物をぶん投げ、湯沸しに使っていた火薪が床を舐めたあたりで、外に飛び出せた。
裸足で砂利を踏み締め近場の森へ走る内に気づく。どうやら己は隣家に生贄にされたらしい。こんな騒がしさだと言うのに、どこも閉めきって灯り一つ見せないのだから! なんという世の理不尽か。神さえも恨めしく今なら呪い殺せそうだ。しかしそんな無駄なことをしている場合ではない。足裏が痛み切れ血が滲みようともインは走る。走らねば!
物取りならば追ってはこない、なのに男達は追い駆けてくる。その矛盾の答えがただひたすらにインには恐ろしかった。闇先から伸びてくるだろう腕にもし捕まってしまったら? どうなる。己はどうなるのだ? ……嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!
現実と想像の悪夢が心身を蝕み、息衝くのもだんだんと苦しくなってきている。嫌に脈打つ胸元を必死に右手で押さえながら、森へ、喧騒から少しでも離れようと――。
「………………あっ」
離れようとしてインは転んだ。出っ張った岩に右足を強かに打ちつけて、転んでしまった。
「……く、あ……ぃっ……!」
痛みは想像を絶した。立ち上がらなければ、そうは思っていても足は動かない。灼熱の様を想起させる激痛と、切れてしまった緊張の糸。最早泣き喚きたい気分だった。しかし声は叫びにならず、吐くのは絶望に呻く息音だけ。月明かりに照らされたインの右足は、親指がざっくりと裂け、だくだくと血が流れていた。
「…………ああ、」
数時間前まで確かにインは幸せだった。親友と笑い未来を憂い、そして明日を信じていた。だというのに、これが己の終わりなのか? 森へ逃げ込もうという判断さえ裏目に出ていた。木に背を預ける己が眼前には――揺れる朧火と掻き分けられた梢の跡。これではここにいるぞと教えているようなものではないか。
カタ、カタ、カタ、と。
息白く歯が哭く。助からない、もう助からない。数秒後に襲うであろう生き地獄。それは、それだけは嫌だ。しかし避けられぬ、このままでは避けられぬ! 突然の理不尽にインはもう正気さえ失いかけた。そして。とうとう男達は現れた。その面を震え拝み。
「――――ふざけんな」
己が破滅を前に、セレインを支配していた恐怖はまるごと怒気へと様変わった。突如として豹変した彼女に周囲が驚き慄く。その顔すらインには気に喰わなかった。不義は彼女の瞳孔を真っ赤に変え、ただ滾る怒りが寸前にすべてを支配した。
「…………普段あれだけルーを利用しておいて、その主が……この……この様かぁ!」
月下。淡く浮かぶ森木に寄りかかり、流血し青白い肌を晒すインは年子故の女神名に恥じぬ美少女だった。解けて散らばる黒髪はしかし闇夜に融けることを否定し、肉付きの良い身体は欲情を駆り立てる。けれどもその顔面はあの異端審問官にも似た悪鬼の如き形相であった。
紅の瞳孔は弱り身ながらけして男達をそれ以上は近寄らせず、頬を伝うのは悔しさを滲ませた血涙。誇り高き親友は最後の一刹那にその真価を魅せつけた。狩られるはずの弱者は強者を圧倒し、そしてその隙を見逃すこともなく。渾身の力で以て彼女は爆破魔法を行使し――。
ぶちり、と。
直後に躊躇なくインは己の舌を噛み千切った。
丑三つに轟く鐘の音が眠るルーを叩き起こした。しばし呆けながらも窓辺に近寄った少女が見たのは、闇夜に煌々と燃え盛る帝都だった。
「…………は、へ?」
唖然はすぐに混乱へ変わり、次いで凄まじい悪寒がルーの背を駆け巡った。火事か、反乱か、ともかく只事ではない。燃えている。インの住んでいる辺りだ! すぐさま着替えを済ませ、家を飛び出した少女の眼前に広がったのはまさしく最悪としか言いようのない光景だ。
「…………嘘よ。ねえ、インは? ……インはどこ! セレイン!」
消火活動の行われている一角にルーの親友の家はあった。火達磨だ、これではとても――。脳内に浮かんだ最悪の結末を必死に少女は振り払う。絶望に立ち竦んでいる暇はない。必死に親友の名を呼び、彼女の姿を探した。
「嘘よ、……お願い、返事をして!」
普段の冷酷さをかなぐり捨てて周囲から話を聞くその姿は、親衛隊の男をして意外と思わせた。目の縁に涙を浮かべるルーの姿は年相応だ。しかしなんと因果なことだろう。よりによって己の存在が、少女を〝魔女〟どころか化物へと変貌させる――その嚆矢を担ってしまうとは、男はこのとき知る由もなかった。
気を取り直して現場指揮を続けていた男の左肩を、突如、激痛が襲った。そのまま勢いよく男は振り向かされる。斯くして。そこには恐るべき〝魔女〟シルバリオがいたのだ。
「…………ねえ、どういうこと?」
「ど、どういうこと、……とは?」
混乱する。日頃から憎たらしい小娘ではあったが、けして愚かではなかった。人命が掛ったこの状況に私情を挟むような素人ではなかったのに。シルバリオは男の姿しか見ていなかった。
「親衛隊の貴方がどうして現場指揮なの? ……おかしいじゃない。誰に聞いてもインの行方がわからないの。こんなに被害が大きくなるまで本来の担当者が現場に到着できなかったのもおかしい。かといって無差別の犯行にしてはイン以外の死人がいないのも不自然だわ……ねえ、貴方なにか知ってるんでしょ? ねえ、ねえ! わたしに教えてくださらない?」
心胆からゾッとした。ここまで女性に恐怖を覚えたのは初めてだ。――そう、おかしいのだ。その理由を親衛隊の男は知っていた。けれどわかるはずない。証拠は徹底的に燃やしたし、近隣の住民は既に売却済みだ。シルバリオ独りを騙すために急遽行われているこの命令が、ばれるはずがないのだ。だというのに、たった数度の会話からこの異端審問官は直感的に違和感を感じとってしまった。迂闊。これでは駆け引きにもならない。何故なら。
「…………。……な、なんのことか自分には」
「ねえ、――――〝嘘〟吐かないでよ」
「………………ええ、自分が指揮をするのは確かにおかしいです。しかし命令なので問題はありません」
何故ならこの異端審問官〝解嘱〟シルバリオにあらゆる嘘は通用しない。意識ははっきりとしたまま、しかし他のすべてを掌握されるこの独特の感覚。男はもう手遅れだった。
「誰から?」
「第七皇子殿下です」
「どんな命令なの?」
「今夜〝狩り〟を行うので対象の周辺を見張り、特に解嘱が現れた場合はこの場に拘束させるよう皇子殿下から仰せつかっております」
そこまで聞けばもう大方の予想はついてしまったのだろう。真に賢い少女だった。けれどもそれ故に男は己の命はもう長くないかもしれんな、と心中で呟く。チリリ。首筋に痛みが奔る。爪による引っ掻き傷。血が垂れる――直後、そこから己の血がナニカに変わっていく感覚に、男は失禁した。対価とは何も少女だけが払うものではない。
「――――ひっ」
「……〝狩り〟とは? ねえ、早く答えないと貴方――死ぬわよ」
「か、狩りとは文字通り〝人狩り〟であります! さ、最近は娼婦に飽きてしまわれたようで、その、何も知らぬ庶民を……」
「もう黙れよ。……最後に、今夜の対象の名は?」
「…………セレイン、とだけ」
そのとき炸裂音が森のある方向から聞こえた。気づけばもうシルバリオは走り出していた。その姿はまさしく疾駆が相応しい。何者も追いつくこと敵わぬ速度で少女は駆ける。
(間に合え、間に合え、間に合え……!)
ルーが考えていたのはそれだけだった。ただ、ただ幼馴染みの無事を少女は願った。それさえ叶えば皇子ですら許そう。
(だから神様、お願い……!)
喧騒の町を抜け、森へ急ぐ最中に見つけた人工の灯り、ふとシルバリオは思った。件が済んだら仕事を辞めよう、と。インも誘ってもっと田舎の里へ引っ越そう。だってこんな馬鹿げた真似を仕出かす彼奴らになんかもう従えない。金でほいほいと隣人を売るような屑もインの隣には相応しくない。
(そうでしょう? イン、――セレイン。貴女だけ、貴女だけだった。わたしの傍にいてくれたのは……、本当に正しくて素直なわたしの親友。貴女だけいればもう他に何もいらないから。だからお願い。無事でいて、ねえ、――――なんで、だ)
どうして。
こんなささやかな願いすら叶わない。
「……ああ、」
月光に躍る魔力で構成された手刀の一撃が、近場の男の首を刎ね飛ばしていた。許そう、と。先までの想いなど既に霧散していた。その光景の前に、シルバリオの理性など最早どこにも存在してはいなかった。
おそらく爆破魔法の類だろう。周辺は弾けて焦げ付いている。それが誰の行使によるものか、優秀なる異端審問官にして親友に〝魔法使い〟と呼ばれたシルバリオには理解できてしまった。
「……ああ、」
助け、られなかった。木にぶつかっただけにしては多過ぎる口元の出血。もう逃げられぬと悟った誇り高き親友セレインは、自死のために舌を噛んだのだ。凌辱の果ての生など望まない。わかっていた、本当は、わかっていたのだ。けれど生きていて欲しかった。辛かったろうに、怖かったろうに。
(ごめん、助けられなくて――ごめんね)
涙がルーの頬を濡らす。
そうして。
悲しみの後に浮かんだのは純なる殺意だった。
いつか暇つぶしに読んだ小説の主人公は言った。復讐なんて空しい、と。確かにその通りだろう。けれどもシルバリオに我慢するつもりなんて毛頭なかった。だからなんだ。今はっきりと理解した。
敵討ちとは自己満足である。それはインを救わない。ルーを救う儀式。この瞬間親友の亡骸とともに永遠に消えてしまった〝ルー〟を少女は悔しみ、そして彼奴らを憎むのだ。
視界に映る、慄く振りする畜生供め。屈強な男、着飾った女、醜い第七皇子。誰も貴賤なくこれからシルバリオは殺すだろう。この世に在ってはならぬ悪鬼羅刹。
「あ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
篤と灰燼に還るがいい。
親衛隊の男が部下を引き連れやっと追いついたとき、そこにはただ煉獄だけがあった。己が思考停止の末路が生み出した光景に、誰もが怯え震えるしかなかった。血、肉、骨。すべてが滅茶苦茶に散乱した血の池の中で唯一認識できたのは、魔女と、その胸に抱かれ既に事切れた少女のみ。親衛隊など視界にも入らぬといった様子でシルバリオは謳う。
愛する友よ、惑うことなく逝き候え。
願わくば、転生の果てにまた会おう。
月下に響く魔女の鬼哭。その祝音が終わり、嗚咽泣き止むまで何者もその身を捉えることはできなかった。契約違反により、シルバリオの処刑が決まったのはその僅か翌日のことだ。
◆
そしてセレインは二度殺された。
先まで悪態を吐いていた〝魔女〟シルバリオなどもうどこにもいない。ただ身を引き裂かれるような〝痛み〟だけが、インの親友であるルーを蝕んでいる。
「……何故、」
眩しいほどの蒼穹の下で、今日死ぬ己が身を憐れんだことはなかった。自己満足の敵討ちが契約違反であることは、当の夜でさえ理解していたからだ。シルバリオは死ぬべくして死ぬ。殉じて初めてルーはインの隣へ逝ける。
だというのに、どうして?
「……死者を、死者を辱めるっていうの!」
シルバリオの前に引き摺られて来た死体の名はセレインだった。七日も前に殺された親友は、少女が牢の中にいた間でさえ土に戻ることを許されなかったのだ。肉崩れ骨秀で目玉が抜けて落ちた、もうどこにも生前の美少女の面影はなかった。
こんな、こんな真似が許されるのか?
理不尽に奪われた命が奪われた後ですら弄ばれている。――確かに、シルバリオは悪だろう。どんな理由があろうとも社会に生きる限り契約には従わなければいけない。約束事を守れない者が罰せられるのはある種当然のルールなのだ。しかしインは別だろう? 彼女がいったい、何をした? 逃げたことが悪だと、己の親友だったことが悪だと? そう言わんばかりのこの仕打ちはなんだ。
つう、と腐臭漂う親友の死体を前にシルバリオは哭いた。これが神の血と魔の法で以て統治する帝国のやり方だと、今まさしく走狗は悟ったのだ。敵は死者であろうと辱める。それが当然だと、己を見上げる民衆すらそれを悪だとは思わない。インを売った彼奴らが、だ。
斯くして。
シルバリオの眼前にて、改めて〝罪人〟セレインの死首は切り落とされた。これが愚鈍なれども愛した息子を殺された皇帝の怨恨であったのは間違いない。その想いはある意味正しいだろう。けれどルーにとってその判断は決定的に有りえないものだった。
今魔女は死んだ。
今ルーは死んだ。
「ああ、あああ、……ああああああ!」
インは殺された。
二度も殺された。
初めの直接的な原因がシルバリオにあることは否めない。親衛隊の男が思考を停止し唯々諾々と命令に従っていたように、元異端審問官の少女もただ仕方ないとしか考えていなかった。その因果が巡り巡って親友を死に追いやったのだとすれば、その責任を己は背負わなければならない。――だって〝もう〟復讐してしまったんだから、第七皇子はこの世にはいない。
ならば今は?
シルバリオの眼球が捉える、首と胴が泣き別れた親友の無念はどう晴らせばいい。〝まだ〟行われていない報復はどうする? 己がこれから死んだら誰がインの、この二度目のケジメを付けるのだ? ――決まっている。
己が、ただのシルバリオが晴らすのだ。
魔女ではない、〝魔法使い〟が晴らすのだ。
報いを。
「――わたしが、」
ぽつり、と。呟かれた言葉は、シルバリオの背後にて振りかぶられた剣に目を奪われた誰にも聞こえなかった。腐れた親友の屍から漏れ出す血が少女を濡らす。血が、血が、血が――。ここに反逆の手段は揃った。言葉一つで嘘を繰る。その真意を、己が命を対価に人は知る。
「わたしより弱い人に殺されるなんて、」
シルバリオの首を刎ねようと迫る剣の一閃は――。
「〝嘘〟だ」
親衛隊の男は目を見張った。首筋深く喰い込んだ刃が、シルバリオという少女を一刀の下に殺すはずだった斬撃が、止まったのだ。何故。まるで理解できない光景、飛び散った血飛沫だけが妙にリアルで。
「ふふふ、あはははは! そうよ、そうよねえ!」
轟、と。
次の瞬間には男はもう死んでいた。それはある意味幸運だった。事なかれ主義者は最後まで無関係でいられたのだから。シルバリオはゆらりと立ち上がった。右手で男の首を握り潰したまま、首筋に刀身が喰い込んだまま、少女の姿をしたヒトガタは愉快気に嗤う。
貴様らがいったい何を驚く。
「わたしが人間だなんて〝嘘〟だもの! わたしが只人に傷つけられるなんて〝嘘〟だもの!」
ここにいるのは帝国の走狗〝だった〟モノ、魔女の契約でなければ従えなかった化物だぞ? 殺されようと思わなければ誰が殺されるものか、そうシルバリオは胸中で嘯いた。嗤いは止まらない。死ななかったこと、魔法が発動できたこと。まったく。いつだって手遅れになってから上手くいく己の道化の様が馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。
これがあと一週間早ければセレインは今も隣で笑っていたものを。
地に転がった親友の頭部を拾い上げ、今一度掻き抱いてシルバリオは空に吼える。その間も無粋に飛来する魔法の連撃は、しかしいくら直撃しようとも少女に傷一つ衝けられなかった。当然だ。己が親友を対価に発動した〝嘘〟が、貴様ら人間風情にどうにかできるとでも?
「滑稽ね、しかも美しくないとくれば――もう生きている価値もないじゃない?」
無造作の一閃が、視界に映る有象無象を皆殺す。噴き上がる血流が、新たなる対価となり、シルバリオに力を与える。この詭弁を、けれども覆すことのできる人間はいなかった。絶望の果てに少女は一つの答えを見る。
熱く滾る全身の魔導刻印が熾す、ある〝嘘〟の奇跡を。
〝魔法使い〟シルバリオは駆けた。一直線に、玉座にふんぞり返る皇帝を〝詐称する〟男を目指して。最後に試してやろうと考えた。本当に神の血を引く者ならば、もしかすれば己より強いのではないか、と。ここに至り元異端審問官〝解嘱〟はまだどこかで信じていた。少女が手を汚した日々は間違っていなかった――そう思いたかった。
そうして。
「……なーんだ、貴方も嘘だったんじゃない」
あっさりと皇帝は死んだ。自ら放った火炎に焼かれて燃えて〝灰〟になった。シルバリオは拍子抜けした気分だった。がっかり。己が王を、神の象徴を、殺されたというのに。誰も逃げることに夢中で、仇を討とうと向かって来る人間〝一匹〟いやしない。ふと思う。
「もしかして火はもう消えていた?」
この世界は、シルバリオがこうして破壊するまでもなく、神を詐称した皇族〝赤色〟の炎によって燃え尽きていたのではないか、と。世界は赤色ではなく灰色だった。不思議としっくりくる考えだ。初めは赤で、赤は炎。炎の後は灰で、灰はわたし。そしてわたしは――〝嘘〟
「……なるほど」
世界はとうに燃え尽きていて。
嘘という灰に塗れていたのだ。
この世界は赤色ではなく灰色だ。ならばそれはこの〝解嘱の魔法使い〟シルバリオのものということではないか? ああ、だからか。だから己の血族を、彼奴らは殺そうとしたわけだ。また罪過は浮かび、返さなければならない報いが増える。本当か、嘘か、そんなのはこの際もうどうでも良いのだ。少女がそう思えばそうなのだ。詭弁は覆されなければ嘘じゃない。
「そういう理屈で世界を動かしてきたのね」
まるで疾だ。思えば契約もそう、今まではだから死ぬのが当然だとシルバリオは考えていた。それが契約だから、それがルールだから、神だから、皇だから、禄に疑問も抱かず従ってきた。結果がこの様だ。胸元に抱くセレインはもう二度と己に笑ってくれることはない。
帝都中の血を対価と捧げても、明日死ぬ老人も昨日生まれた赤子も、けしてインの代わりにはならない。ならばせめて慰みを。天にますインが寂しくないように、この世界をシルバリオは彼女に奉げよう。それが新たなルールだった。
僅か一日にして帝都は壊滅した。奇しくも逃げ延びることができたのは、下らない貴族のお遊びに構わずに商いを続けていた一部の行商のみ。
世界を灰色が包むのはその翌日のことだ。気づけば色の精霊と魔法は失われ、異形の化物が横行する灰の時代はやって来た。
それからもう七年。世界は今日日も嘘という灰に塗れ、灰という疾に侵されている。
簒奪者〝解嘱の魔法使い〟シルバリオは、己より弱き人にはけして殺せぬ。
傲慢なる勝者を叩き潰せるのは、そのさらに高みを往く勝利者のみ。そんな人間がいるかはとんと知れないが、ともかくヒトガタは迫る。
英雄〝望郷の業火〟スカーレッドの元へ、と。




