ジークフリード
その日、ジークフリードは機嫌が悪かった。
まずせっかくの休みに朝っぱらから叩き起こされたこと、次に耳元で以て大声で己のやたら大仰な名前を叫ばれたこと、そして訳のわからぬまま門の前まで連れてこられてからもう随分と待たされていること。諸々の事情によって、寝惚け頭の少年シグは非常に不機嫌だった。
「もう、シャキッとしなさいよ!」
そんな感情を隠さず顔に出しているというのに、シグの隣に立つセラはまったくお構いなしだ。ぶつぶつと小言を続けながら少し癖っけのある少年の髪を手櫛で梳いていく。
当然のように世話を焼くセラに、何か皮肉の一つでも言ってやろうかと口を開いたところまではよかったのだが、普段若さと同期よりは多少優れた運動能力に任せて近場の森を駆け回る日々を送っているだけのシグの頭には、皮肉なんてそんな高尚なものは咄嗟には思い浮かばなかった。
「……ぷ。なーに、その顔。手持ちぶさたで木の実齧ってたら、苦虫も一緒に食べちゃったみたいな顔してるわよ?」
そんなシグの内心を投影した表面が、セラにはそういう風に見えたらしい。いつもなら腹立たしい限りの茶化しが少女だと不思議と嫌味にならないのは、生まれてこの方の付き合いの長さとその残念な例えのせいだ。
黙っていれば美人というのは同期の言だが、セラはシグより口も人付き合いも上手かったが甚だ残念な感性をしていた。けれど、それでも世の中というのは案外に巧く出来ているもので、その残念は独特と周囲から認識され、当の子供好きも相まって少女は乳母見習いとしての立場を日々こつこつと築いている。
このどうにも苦笑を誘うようなセラの物言いが、子供や老人には面白いらしい。確かに、だ。シグも少女の闊達さは嫌いではなかった。ただ誰にも彼にもこういう態度で接するのはどうかとは思っている。もっともそれを指摘したことはあまりない。何故なら少女は――。
「痛っ」
「まーた、変なこと考えてるでしょ?」
そこまで考えたところでシグは右腕を抓られていた。しまった。己を見るセラは半目である。少女はその職業柄故に人が口に出さないことを察するのが得意だった。つまり少年の巡りの悪い頭が描く取り留めのない思考も、少女にとってみれば生意気な盛りの小僧やちょっと惚けの入り始めた老人よりかはわかりやすいということだ。
「……あー、それにしてもいつまで待っていればいいんだろうな」
己の不利を今更に悟ったシグは露骨に話を変えることにした。いい加減に眠気も覚めてきたところである。どうしてこんな場所に朝っぱらから皆で集まらなければいけないのか、先まで夢現の境をふらふらしていた少年には、現状が今一つ理解できていなかった。
そういうのは何となく居心地が悪いから嫌だ。日頃森に籠っていると尚更である。もっともだから馬鹿正直にセラに訊くなんて気恥ずかしい真似ができるほどシグは素直ではないのだが、そういう七面倒な心理は大抵少女に見透かされているのだった。――いつだって茶化すようにくすりと笑った後は、少女は少年の味方になってしまう。
「いつまでって、さっき説明したでしょ? 姫君様がいらっしゃるまでよ」
「…………へ?」
「……シグってば本当に何も話を聞いてなかったのね。仕事を頑張るのは良いけど、そういうのって悪い癖になるよ。休日に何にもする気にならないとか言ってると、引退したらすぐに惚けちゃうんだからね」
「いや、……それはまあ、気をつけるけどさ。……それよりも本当かよ? セラが姫君様って言うからには〝あの〟姫君様なんだろ?」
自然と声は小さくなった。シグは頭の方はあまり良くなかったが、それでも馬鹿ではない。公私の区別くらいは皆親戚といってもいい里中であってもつけることができていた。しかし、それにしても信じられない話だ。完全に目が覚めた後でも冗談なのではないかと思わず疑ってしまう。セラが己に嘘だけは吐かないことを知っていても、だ。
姫君様。正確には頭に元と冠してしまうが、一里人が冗談で口にしてしまって良いような人ではない。七年前。この世界にまだ魔法と呼ばれるシグにはよくわからない代物があった頃、この大陸一帯を支配下に置いていた大帝国があった。姫君様はそんな皇族の末娘だ。そして。現在たった一人だけの生き残りである。
他は誰もあの恐ろしい魔女の手によって葬られた。そうして偉大なる帝国は崩壊し、人々から魔法と色彩は失われたのだ、と。そうシグは当時大人から聞かされた。その姫君様がやって来る? こんな辺境といっても里に? まさか、そう否定しそうになる。けれども冗談めかすにはセラの瞳に〝嘘〟はなかった。
「……なんでも、前々から来るかもって話はあったんだって。けれどそういうのってやっぱりいろいろ面倒だから、私達みたいな見習いや末端にはギリギリまで上がってこないじゃない? だから朝方に予定よりも早く姫君様が来ちゃったせいで大混乱になったみたいなの。それで気を使った姫君様が、魔法っていうやつの儀式のために必要な物を集めてくるからって今は森に行っちゃったんだけど……、そしたら今度は長達が急いでお出迎えの準備をしないとって、さ」
「そういうことか……、まったくよ、耄碌してんのか」
何とも間抜けな話だった。いや、間抜けで済んで良かったとさえシグは思った。物言いを咎めない辺り口にはしないが、セラもまたそう考えているのだろう。
よく旅人には驚かれもするが帝都から離れた里ほど道理を重視するものだ。なんせ排他は即死に繋がる。交流を絶たれることほど里にとって怖いものはない。
普段そう語っておいてのこの有様である。未だに子供っぽい大人である、今年ともに数えて十四となったばかりの二人が罵るのも無理はなかった。
「それにしても――」
どうして件の姫君様はこんな辺境に足を運んでくださったのか。そう、シグが呈そうとした疑問が口の中から出ることは叶わなかった。ダアン、と。聞き慣れない、しかし腹の奥底に響くような爆音の直後に二人の立つ地が震えたからだ。
咄嗟にセラの肩を抱き寄せて、シグは聞こえた門前の、その彼方を見透かすように睥睨した。ざわめき、そして一斉に飛び去る野鳥の群。突然のことに竦んでしまった少女は、ふるふると怯えている。それが少年の機嫌を一息で最悪まで後退させた。
「な、なんだかドキドキするね」
「……おい、無理するなよ」
「…………うん」
己の腕を抱きしめるセラを気にかけながらも、シグは油断なく周囲と情報を交換していた。魔法が失われてから里の生活は確かに不便になった。しかしそれでも今日まで里が異形から生き残ってきたのは、元来魔法に頼らない生活が都市部より普通だったからだ。
例えば現在片手で少年が行っている手話などがそうである。翻訳魔法、通信魔法。そんなもう御伽噺になってしまった魔法を、個人で勝手に使うことが許されるほど里に余裕はなかったし、またそもそも魔法が使える人間もはっきり言って少数だった。故にこうして魔法に頼らない代わりの技術が発展したのだ。
(おい、聞いたかあの爆音)(ああ、すげえ音だった)(ありゃ普通じゃねえ)(まさか、惚けた爺供の妄言じゃねえのか?)(おい、話聞けたぞ!)(門近くの奴が見たってよ)(何を、だよ)(馬鹿、決まってんだろ)(魔法だ!)(久しぶりに見た!)(ああ、赤色だ)(本物だよ!)
次第に早まっていく無言の応酬に、声に出さずとも熱気は伝播した。立ちくたびれてぐずり始めていた幼子までが泣き止んだ。それほどに周囲の雰囲気は急速に変わっていく。まさか。嘘。否定は肯定の裏返しだった。思わず牽制してしまうほどに誰もが嬉しいのだ。
シグは仲間と同じように歓喜しそうになり、次にそれでも不安そうに己を見つめているセラの視線に、ちょっとだけ冷静となって、そして唖然として身震いした。
音一つでここまで誰も有頂天にさせる姫君様という存在に、だ。そんな人が門を隔てているとはいえ、走れば五分もしない距離にいるのだ。灰色の魔女と等しい力を揮う〝赤色の魔女〟が、この世でたった二人だけの魔法使いが、己のすぐ近くにいる。
改めて自覚するだけでも、シグはこの里がそんな姫君様の訪れるに相応しい場所とは考えられなかった。ならどうして。そこまで思考を進めようとしたところで――。
「……あ、シグ」
セラの声にシグは反応した。少女が指さす先には若旦那の姿があった。来なすったぞ、と。それだけで要件は理解できた。誰もが自然と傅く。つられるように二人も続いた。
そうして。門が開き始める。いつも決まった時刻にしか開閉しないはずの門が、ただ一人の客人を迎えるために、異形の襲来さえ警戒することなく、当たり前のように開放された。
ゾクリ、と。
瞬間的に感じた悪寒に、シグとセラは無礼と知りながらまったく同時に手を握り合っていた。その視線の先に二人は〝天〟を見た。在りえるはずのない後光を、地上に降り立った太陽を目撃した。
姫君様の装いは普通の旅人とあまり変わらない。けれども風にたなびく髪は毛先まで艶やかな真紅。硬質の美貌に、皇族特有の長耳、そして手首から覗く黒い魔導刻印。間違いなく彼女はこの灰一色の世界では異質な存在だった。
色彩に富むその姿はシグの目を瞑らせ、セラには嫉妬させさせない。しかしそれだけなら、姫君様はお綺麗だという印象しか与えなかっただろう。
ずるずる、と。その左手に引き摺る異物に、今度こそ場の里人一同は絶句した。それは兜と見まがう巨大な猪の頭部だった。顎門から生える四本の牙は大人を串刺しにしてもなお余る。そんな内の一本を鷲掴んで姫君様はやって来たのだ。
猪はまさしく驚愕といった風に眼を見開いて果てていた。その額に穿たれた穴。たったの一撃で殺したのか? 姫君様が? 魔法を使うとはいえ――。
「……〝牡丹御前〟を屠ったってのか?」
茫然といった様子でシグは呟いていた。ざわめきが広がる。それは近隣の森を支配する雌の大猪の異名だった。森を開拓するには邪魔な、しかし人間ではどう頑張っても殺せないだろう異形ではない化物。けれど死んだ。いや殺された。眼前の姫君様に、彼女に、あっさりと始末されてしまったのだ。
「――待たせたな、皆の者。手土産じゃ」
その声音は戦場でもよく響くだろう澄んだものだった。そうして誰もが思い出す。姫君様と呼んでいたセラでさえ、それが無意識での嘲りであったことを。彼女は姫君様ではあったが、今は間違いなく英雄なのだということを。灰色の魔女と等しい力を揮う赤色の魔女。けれどもシグは思い出す。彼女に相応しき名を。
其は英雄〝望郷の業火〟スカーレッド。かつての帝国の末娘。そんな人物がどうしてこんな辺境の里にやって来たのか、今はっきりとシグは理解した。眼前の彼女には怯える獲物特有の臭いや雰囲気などまったくなかった。ならば姫君様は追う者であり狩る者なのだ。彼女の鋭すぎる三白眼が告げている。こんな辺境の里に来た理由を。待たせたなという権力者が言うには有りえない謝罪、そして与えられた御前の首。それが意味するところは明白だ。
戦争――。
遂に簒奪者から魔法と色彩を奪い返す時が来たのである。
「…………冗談じゃねえよ」
けれど皆がスカーレッドに対して歓声を上げる中、シグだけはそう否定の言葉を口にしていた。それを知るのは傍に寄り添っていたセラと、そして――その元凶である彼女だけだった。
たとえ朝と昼と夕と夜の区別がなくなっても、人は眠らなければならないのだから区切りは必要となる。村の一日は鐘の音で管理されていた。ゴーン、ゴーン、ゴーン、と。今のように三度鳴れば一日の仕事は終わりだ。その後は、差異はあれども晩飯を食えばだいたいの里人は寝る。けれども今日は違った。何もかもが違った。馬鹿みたいに違っていた。
広場中央で燃え盛る炎は赤かった。舞い散る火の粉もまた赤い。そんな光景に、里の誰もが泣き笑い踊り歌っている。返ってきた、返ってきた、返ってきた! 七年ぶりに赤色が返ってきた! どう足掻いても取り戻せなかった過去は、奪われていた当然は、たった独りの英雄の来訪によっていとも容易く里へと返されたのだ。故に祭りである。今日は誰も眠らない。
その光景には確かにシグも感動を覚えていた。この灰一色の世界に勢いよく噴き上がる炎は、まさしく原初の赤そのものだ。その火元に鎮座するのは、もう骨だけになってしまった御前である。ならば眼前の光景は、人にはけして殺せないと考えられてきた大猪の命の煌めきの顕現とも言えた。しかし感動を覚えたとしても少年の気分は晴れやかまでとはいかなかった。
今一つこの雰囲気に呑まれきれない。手元の湯のみに並々と注がれた液体は、未だ見習いであるシグには、普段は振舞われることさえ有りえない嗜好品だ。美味い。喉奥をカッと熱くするこの感覚。けれど重い。この対価を、今後少年の命を賭けた戦で支払わなければならないと考えると、どうしようもなく重いと感じるのだ。おそらく今の己は嫌な顔をしているだろう。こんな情けない姿を少年はセラには見せたくなかった。だから一人である。
「…………冗談じゃねえよ」
不安がるセラの手前、どうにか嘯いてはみたものの。一里人のシグに、スカーレッドの要求をはねのける力などあるはずがなかった。
言うなれば里というのは蜜蜂の巣に似ている。幼虫の頃は何もかもを与えられる代わりに、成虫したのならば危険だとわかっていようが外に飛び立たねばならない。群のために死ねない働き蜂に、いったいどんな価値があろうか? そんなことはシグにだってわかっているのだ。女王蜂であるスカーレッドや長達の要求には従わなければならない。それが一匹の、ちんけな働き蜂であるシグの役割だ。しかしそれに殉ずるとするならば――。
セラはまた泣くだろう。
それがシグには嫌で仕方がないのだ。
この七年間。里がまったく魔女に戦争を挑まなかったというわけではない。かつて里は一度だけ魔女に挑んだ。正確には周辺の里と連合を組んで戦争を仕掛けたのだ。もう三年も前だ。その年はシグとセラが見習い働きを始めた翌年であり、そして凄まじい飢餓が里を襲っていた。どこも食糧が足りない。そんな日々を少年と少女が生き残れたのは、ひとえに餓え死ぬ間際、運よく里の食い扶持が一気に減って、代わりに食料が入ってきたためだった。
かつての少年にはわからなかった、しかし今のシグならば理解できる。長達は生きるために里人を売ったのだ。それは戦争なんて名ばかりの口減らしだった。
シグの兄であるファフニールもまたその時に出兵した。そして途中死んだかはたまた異形に喰われたか、結局フニは帰ってはこなかった。少年は泣かなかった、いや泣けなかったのだ。兄は働き蜂としての役目を全うした、里という巣のために誇り高く死んだ。そう勝手に当時の己は納得していたからだ。そうでなければ。生きるために結果として兄を売ったという事実に、少年は耐えきれなかっただろう。しかしセラは違った。
その独特で残念な感性故に、セラは己を責められずにはいられなかった。少女は物事をシグほど都合よくは捉えられなかった。シグや兄嫁は良い。けれどもどうして己はまだ生きているのだ? 狩りの役にも立てない己が、こんな、こんな役立たずが! そう少女が泣いているのを知ったのは出兵からしばらく、遂に里が収穫の時期を迎え飢餓から解放された、そう、丁度こんな祭りの日だった。
それを思い返すたびにシグの心は重くなる。己の罪の意識までも肩代わりして泣くセラの姿、そんなことにも気づかないまま祭りだと仲間と騒いでいた少年の無恥と傲慢。あんなすれ違いはもうごめんだ。少女にはもう泣いて欲しくないのだ。ならば、ならばいっそこのまま――。そんな馬鹿なことさえ少年が考えてしまったときだ。
「おーい、シグよう。どーした? 嫌な顔してんなぁ」
「……兄貴のことですよ、若旦那」
シグの陰鬱な雰囲気を訝しんだのだろう。若旦那はわざと陽気な顔でそう話しかけてきた。回っているのは気か酔いか、顔の灰がいつもより濃いところを見るとおそらく後者だろう。
「……そうか。今回の戦はお前には辛いかもしれんなぁ」
よっこらせ、と。若旦那はあっさりと見習い風情の隣に腰かけた。この二十歳も過ぎて、最近は里の中堅所となった次期長候補は兄の幼馴染みだった。そしてシグの師匠でもある。陽気な性格なのに未だに結婚もしない変わり者として有名だが、その狩猟の技巧は里一とも名高い。熊とも殴りあえると言われるその肉体から繰り出される拳骨は、日頃少年の目の上に火花を散らせていた。
「しかしそれでもいつかは誰かが買わねばならない役目だった。前回はシグ、今回は俺とお前。それだけの話だ。だから割り切って今は楽しんどけよぉ。……でないと死ぬぞ?」
微妙に回らない呂律からでも、若旦那が言わんとしていることがシグにはわかった。少年は知っている。三年前のあの日、己や兄嫁と並んで最後まで兄の出兵にこの人が反対していたことを、兄と一緒に戦いに赴けなかったのを今でも後悔していることを。故に――。
「わかっています。……しかし若旦那は魔女や異形が怖くないのですか?」
「…………。いや、俺だって怖いさ。下手を打てば即死と姫君様からは聞いたからな。けれど……けれど、ただ無様に里で燻ぶっているよりかはよっぽど上等だな」
スカーレッドの来訪を誰よりも歓迎しているのは若旦那であることを、シグは知っていた。この人は里の誰よりも姫君様の色に魅入られている。だから曲がり間違っても逃げるな、と。少年に釘を打ち込みに来たのだ。
戦争になるとわかった途端、長達の態度はそれまでの煮え切らなさが嘘のように皆変わってしまった。それをおかしいと思うから己は未だ見習いなのだろうか。己の中の子供を捨てきれないから、セラと里との間で惑うのだろうか? シグにはわからない。
「……じゃあ、出発は三日後だ。シグよう、またお互い生きてたら会おうや」
普段なら有りえない、空虚すぎる会話のどこに満足したのか。まったく解りあうこともないまま、若旦那はそう言うとシグの返事も聞かずに立ち上がって行ってしまった。少年の求める答えなど質問することさえ許されなかった。そんなにも己は馬鹿なことを考えているのだろうか? わからない。まったくわからない。
「――――セラ」
こういう時シグはセラに隣にいて欲しいと想う。少女はあの夜に役立たずなんて言って泣いていたけれど、本当は己の方がよっぽど役立たずなんだ。少年は煌々と盛る炎を前に独白する。狩りなんてできなくてもいいんだ、それよりも少女の人と話して理解し合える力の方がずっと尊いんだ、と。
シグには他人の気持ちどころか己の気持ちさえまともに掴めはしない。少年の頭には森での生き方以外は禄に入っちゃいないのだ。だからこうして今もセラが悩める時に、助けるどころか助けを求めている。そんな有り様の大馬鹿野郎が少年という生き物なのだ。故に叶うなら、すぐにでもこの頭を引っ叩いて欲しい。馬鹿が悩むなと笑い飛ばして欲しい。
セラがもう泣かないというのなら――。
シグは一匹の働き蜂として死ねるのだ。
そんな随分と身勝手なことをシグは考えていた。それがただでさえ巡りが悪いのに、酔いまで回ってしまった頭の精一杯だった。そんな少年に近づく影が一つ。若旦那とは違うその細身のシルエットは、赤の火が生み出した本物の影だった。灰ではない黒。その存在にセラか、と少年は頭を上げて。
「…………姫君様?」
「如何にも。……しかし、お主は随分とまあ白けた顔をしておるのう」
一匹のちんけな働き蜂は筆頭女王蜂と対面することとなった。ただでさえ慣れない苦労をしていたシグの頭には現状が咄嗟には理解できなかった。
驚きを声にしなかっただけで上出来である。スカーレッドは白い柔頬を酔いで紅色に染めていた。思わずシグは息を呑む。改めて目の当たりにする彼女の姿は、この灰一色の世界ではどこまでも幻想的だった。
頭部で一括りに結わえられた炎髪とさらに紅い唇、形の良い鼻、余計な肉など一切ない顎と首筋。そこから続く均整のとれた姿態も扇情的で、――そして遠い。シグは素直にそう思った。
特別。そんな言葉がスカーレッドにはよく当てはまる。己とはそもそも違う者としてしか見られないその美しさは、それ以上の感慨をシグに抱かせはしない。まさしく英雄だった。
(……それにしても英雄が何用だ?)
まったく心当たりの方は――あると言えばある。先の若旦那との話を聞かれたとか、しかしそれでも己惚れが過ぎるだろうともシグは思った。たかだか一里人風情に英雄スカーレッドが興味など持つはずもない。だとすればこれは一種の戯れか。
「……あ、あの、姫君様は何か御用で?」
心中では線引きができているはずなのに、シグの口から出た声音は震えていた。緊張。普段森で獲物と殺し合っている己が、英雄とはいえ人間を前に怖れを抱いている。体は心と違って正直だった。そこに純粋に驚きを覚えながらも、同時に厄介なことになったなと少年は考えていた。なんせ教養なんてものは生憎持ち合わせちゃいない。いったいどうすれば――。
「なに少しばかりお主と話がしたいと思っての」
「…………へ?」
そう言うとスカーレッドは若旦那と同じようにシグの隣へ腰かけた。汗臭い野郎とは違う、セラのようないい匂いが彼女からもした。けれどこれは流石に戯れが過ぎる。周囲の視線に、少年はまったく嬉しくない意味で心拍を速めた。
「あ、あの。……姫君様?」
「……妾のことはアルリーでいい」
「そ、そう言われましてもまったく事情が……」
「その取ってつけたような敬語もいらん! 慣れん言葉使いなど耳障りなだけよ。妾が許す、普段通りの口調で良い。これは命じゃぞ、ジークフリード」
英雄の、まったく突然のご乱心に、面に引き攣った笑みを張ったシグは助けを求めて周囲を見回した。しかし仲間内は皆非情である。ある者は露骨に目を逸らし、ある者は笑顔で親指を立て、そして近くで耳を研ぎ澄ましていたのであろう長の一人は、まるで昆虫のような瞳で、従えとだけ手話を送ってきた。誰も少年を切り捨てる腹積もりのようである。とんだ災難だ、どうして戦を前に己は命の危機になど晒されているのか!
(てめえら後で覚えとけよ……)
手近にそうとだけ伝えてシグはスカーレッド――いや、アルリーの方へ向きなおった。何がいったいそんなに嬉しいのか、陽気な表情で彼女は手持ちのつまみを齧っている。そういうところは英雄といっても年相応なんだな、と少年はいささか失礼なことを考えた。
アルリーはシグより一つ上で今年十五となる。どうしてそんなことを知っているのかといえば、それは己やセラが彼女と年子だからだ。
辺境の里人であるシグに、ジークフリードなんてやたら大仰な英雄の名前が付けられているのは、かつての帝国独特の慣習としか言いようがない。皇位継承権を持つ御子が御誕辰されると、その公布から一年の間は新たに生まれる子供に他国の英雄の名を付けるのだ。要は箔付けのようなものである。だからシグはジークフリードなのだ。名前負けもいいところだったが。
「あー、そのさ。えっと……」
「なんじゃ、ジークフリード?」
「……その、俺もアルリーって呼ぶからさ、できれば俺のことはシグって呼んでくれないか」
「わかったぞ」
アルリーはシグの呼び名に満足したように数度肯いた。
「……それじゃあ、俺に話っていうのは? 間違いないと思うけど初対面だよな?」
「確かに、妾とお主が顔を見合わせたのは今日が初めてじゃ。しかしのう、妾はお主のことを前から知っておった。それで機会があれば話してみたいと思うとったわけじゃ」
そこまで言うとアルリーは少しだけ目を細めた。その表情は、悲しそうとも懐かしそうともシグには受け取れる複雑さを孕んでいる。余人には容易くは理解できない貌だった。
「本当ならすぐにでも会いに行くべきじゃった。けれど妾にはやらねばならん使命があった。そうこうしている内にもう三年も経ってしまったことを、……まずは詫びさせてほしい」
「…………それは、」
英雄、そして三年前。アルリーの言葉から滲む悔いの意思。それの意味するところはシグにもすぐにわかった。そして。人の夢の儚さを、少年は英雄によって思い知らされる。
「……それは兄貴の話なんだな、アルリー」
「そうじゃ。……前の戦ではお主の兄に妾は随分と世話になった。そのフニからシグ、お主のことは聞いておったのじゃ。弟がいる、友がいる、愛する妻がいる。だからどんな異形が相手でも戦える、お主の兄はそういう誇り高き男じゃった」
もはや取り戻せぬ過去として語られたフニは、しかしシグの記憶通りの兄だった。家族のために働き蜂として使命に殉ずることができる、あの日の少年の理想そのままだった。
それが嬉しいと同時に悲しい。――これでは結局セラは泣く。アルリーに恨みはない、けれどそれだけが恨めしい。
「そんなフニに頼まれておったのじゃ。己が死んだらそのことだけは弟に伝えて欲しい、と」
「……フニはどこで死んだんだ?」
「…………済まぬ。それはわからんのじゃ、戦場に私情を持ち込むわけにはいかんと諭され、妾はフニとは違う方面から彼奴らにしかけたからの。そしてその結果はお主も知る通りじゃ。陣形を異形に散々に掻き乱されては、まともに連絡を取ることさえ叶わんかった。……いや、これは言い訳じゃな。すべては妾の無能が悪いのじゃ。今でこそ英雄なんぞと担ぎ上げられてはおるが、三年前の妾では彼奴らの陣を突破することはできんかった……」
すべては酔いのまやかしか、噛み締めるように瞳を閉じたアルリーの両頬を、すう、と雫は滑り落ちた。後悔。懺悔ではなく断罪を望む英雄の言葉。それはあの日のセラと変わらぬ衝撃をシグに与える。少年はこの時初めてまだ見ぬ簒奪者に明確な怒りを覚えた。
「だから、だから……! 見事敵陣を崩し、憎き魔女の城へと突入した正真正銘の英雄の最後を、お主の兄の最後を……、妾は知ることも伝えることもできんのじゃ……」
灰色の魔女シルバリオについて詳しいことは何も知らない。けれどこうして目前でアルリーは泣いている。セラもまた泣かされようとしている。こんな、こんなことが許されていいのか? ふざけるな、いったい何様のつもりなのだ! シグは無意識に拳を握りしめていた。
「アルリーは悪くないさ。ああ、……悪くないんだ」
「……妾を許すか、ジークフリード」
その言葉にシグは肯くと、腹の底から捻り出すように声を続けた。
「俺はシグ、だよ。そして兄貴はファフニールじゃなくてフニ、だ。まかり間違っても英雄なんかじゃない。ただの里人だ。田舎者もいいところなんだよ、だから……こうしてアルリーに、英雄たる姫君様に、こんなにも想って貰えるだけでもう十分だ。幸せな奴だよ、フニは」
「……そうか。…………ああ、お主はフニのように優しくて、そして残酷な男じゃな、シグよ。こんな、こんな心優しき者に! ……妾はまた再び戦に赴けと、妾のために死ねと。そう命じなければならんのじゃ」
そう、痛恨の念を吐き出したアルリーは両手で顔を押さえると空を仰いだ。天にぽっかりと浮かんでいるのは太陽かはたまた月か、それは世界の本当の色を知る彼女にしかわからない。しかしふとシグはそんな当然が、実はとても寂しいのではないかと思った。
その直後、だ。
中央広場で燃えていた篝火は、突如、爆炎となって噴き上がった。
空一面を、業と。真っ赤な火の粉が覆う。しかし不思議なことに火はそれ以上落ちてはこなかった。いきなりの異変に驚き、慌てふためいていた者達も、やがて静かになっていく。そうして遂に静寂が場を支配した。
今や里の視線はまったく一人の英雄の元に集まっていた。この場でただ独り魔法を行使できる赤色の魔女。英雄〝望郷の業火〟スカーレッド。アルリーはやがてゆっくりと正面を向く。その御顔には先までの酔いも苦悩も笑顔も涙も、――もうどこにも見当たらなかった。
「……まずは非礼を詫びよう、皆の者。楽しき祭りに水を差して済まない。しかしどうか今は妾の話を聞いて欲しいのじゃ。妾は皆に一人の英雄の話をしなければならぬ。彼の名はフニという。この里で生まれ、家族と暮らしながら、友と遊び学び働き、そしていつしか一人の女子を愛した、どこにでもおる里人じゃった。けれどそんな幸せは長くは続かず、憎き解嘱の魔女シルバリオの鬼謀によって、妾の生まれである帝都は崩壊し、皆から魔法と色彩は失われた。そして。それから四年を経て土地は限界を迎え、恐ろしき飢餓が里を襲った」
謳うように響くアルリーの声に、誰もが黙って耳を傾けている。
「それと同時にある依頼が里へと舞い込んだ。卑劣な政、家族を生餌に己を死へと誘う毒蜜よ。しかしフニは直感的に理解した。これさえ受ければ家族は絶対に助かる。そうして戸惑いなくフニは己の身とその命を妾に売った。他にも大勢じゃ、家族を救うと嘯き妾はその命を端金で買った。そうして揃えた人員は総五百。壮観な眺めじゃったのう、視界を覆い尽くす人の群。それらすべてを従えていると考えれば神にでもなった気分じゃった。そうして傲慢にも勝てる、とそう錯覚して挑んだもう三年も前の戦の結果は、皆知っておる通りじゃ。敗北。完膚なきまでに叩き潰され、妾は師も友も、そしてフニも、何もかもを一度失ったのじゃ」
けれどもアルリーは膝を屈することなく立ち上がった。シグは知っている、旅の行商が話していた英雄の再誕の物語を。そして目前に立つ彼女の気持ちを、少年はもう知っていた。
「いったい何故? 何故妾は敗れたのか? ……思うに、これは蜜蜂と雀蜂の生存競争なのではないかのう。妾と皆の者は蜜蜂、そして魔女シルバリオと異形の群が雀蜂じゃ。この大陸には今まさしくその二種の蜂が巣食っておる。しかし困ったのう、蜜蜂では雀蜂には勝てん。皆も知っておろう? 当然よ。まずサイズが違う。そして速さも、顎の力も、毒針も、殺傷能力ではまったく勝てはせん。蜜蜂など所詮は雀蜂の餌に過ぎん。だが、だからといって蜜蜂は諦めるのじゃろうか? 巣が破壊されるのを、子らが肉団子にされるのを、女王や同胞の努力が辱められるのを、ただ黙って見ておるのじゃろうか? 答えは否じゃ、断じて否! けれど勝てん。蜜蜂は雀蜂には勝てん、一匹では勝てん。ならばどうする? ……簡単じゃろう。一匹で殺せんのならば二匹、二匹で駄目ならば三匹、四匹。そう、何なら百でも千でも万でも良い。個で勝てんのなら群で殺すしかない。それが卑怯だ、姑息だ、悪だと、誰が言うじゃろうか? いんや、誰も言いやせん。誰にも言わせはせん、言わせて堪るかぁ! 強者にいたぶられる弱者が悪などと、そんな世迷言が大手を振ってまかり通るなど、絶対にあってはならん。故にこそ数の力は卑怯でも卑劣でもない。むしろ正義と言っていい。理解できたかの? 妾が目論んでおるのは、つまりそういうことなのじゃ。彼奴らがその牙と毒で以て、我ら人間を侵し殺そうとするのならば、妾は魔法で以て皆という必殺の力を携え、此度こそ、此度こそ、此度こそ! 彼奴らを、――一匹残らず蒸し殺す!」
赤色に染まったアルリーの世界で、再び己以外の誰もが歓声を上げる様をシグは見ていた。掲げられた彼女の腕、朝とは比にならない感情の爆発、異常なまでの熱気が里を包む。
これが英雄だ。これがたった一つ年上のアルリーによって引き起こされているのだ。見ろ、あの天を衝く右拳を! あれが姫君様の〝おてて〟などと誰が思う? 節くれ立って形が歪み、刻印と裂傷の痕が奔るあの闘志に満ちた拳を!
歓声はまるで羽音のように、人という蜜蜂はアルリーという火から目を離せない。その心を支配するのは、純なる感動と羨望、邪なる情動と欲望、そして蠢く望郷である。人は火を懐かしまずにはいられない、羨ましがらずにはいられない、求めずにはいられない。
何故なら火は原罪であるからだ。人が神から盗んだもの、この世で唯一本物の宝。何者も、異形も、簒奪者さえも、それだけは奪えない。絶対の〝赤〟という煌めき。それが人々の心を燃え上がらせる。負けない? いや勝てる、勝つのだ、勝てないわけがない!
「……妾の決意、感じ取ってもらえたかの?」
振り返ったアルリーの瞳が試すようにシグを射抜いた。少年に、この英雄を直視できるか。そう言わんばかりの態度だった。果たして少年は膝を屈しさえしない。確かに、想いはあった。叫び出したい、言葉にできない熱い赤い何かが己の中で渦巻いていた。
「――ああ、」
だというのに。大馬鹿野郎のシグって男は、それでもセラの姿を想い描いて惑ってしまう、躊躇してしまう。ここまでしてどうしようもない阿呆だったのだ。
そんなシグの姿を視界に収めてアルリーは秘めやかな笑みを浮かべる。良かった。そうでなければフニの弟とはとても呼べない。こんな小手先の先導に乗せられているようではとてもとても――未だ話していないもう一つの約束など話せるわけがなかったのだ。
「そういえば……」
まるでうっかり忘れていたとでも言いたげに、にやりとアルリーは笑みを浮かべた。シグにしか見えないその表情はまったく年相応で、そして俗っぽかった。
「フニはお主と妻と、そうして何故だかセラという少女を特に気にかけておった。そこら辺がどうにも妾には曖昧なのだが、……シグはどうしてか知っておるかのう?」
「――――はい?」
突然のアルリーの変わり様にシグは面食らう。気づけば英雄スカーレッドは陽炎の如く消え失せ、目前には彼女しかいなかった。いや、どちらも彼女ではある。そして。そうさせたのはどうやら兄らしいことに、少年は今更ながら眩暈を覚えた。
「……そんなことまで話したのかよ、兄貴は」
「ほれほれ、照れず隠さず妾に話してたもう? 話してたもう?」
少し前の皆を掌握した英雄の貌など忘れたと言わんばかりに、アルリーはシグに笑顔を寄せてきた。その様子はまるで旧知の仲を思わせて。少女の想いを、少年もまた懐かしんだ。
「……恥ずかしいんだが、仕方ないか」
「ほれほれ、はようはよう!」
アルリーの長耳に口元を寄せてシグは呟いた。
「セラは、………………俺の嫁だよ」
「――――――――――――ふえ?」
沈黙。そして瞬きの間にアルリーは耳元まで真っ赤になった。どうやら英雄たる姫君様は、年上のわりには初心らしい。そんな彼女の様子に、シグはフニがどうしてこんな話をしたのかわかった気がした。もう不敬だとか、そういう気持ちはない。少なくとも今の彼女は英雄ではないのだ。きっと兄もそういうつもりで話をしたのだろう。
「じゃあ、俺はこれで」
アルリーの度肝を抜いてやったことに満足しながら、挨拶を済ませたシグはそろそろと退却することにした。これは断じて彼女のこの後の反応が怖いとか、長の目が恐ろしいとか、そういうことではない。約束通り仲間内を叩きのめすため、だ。
「……うう、おのれフニの阿呆め。なーにが仲良くしているか心配だ、じゃ! 節穴か、己の目は! ……うう、羨ましい妬ましいぞ。恋仲どころか一足飛び越えておるではないか!」
ぱたぱた、と。火照った己の顔面に手で風を送りながら、アルリーはしかし安心していた。その兄弟そろっての情の深さに、これなら明日は兄嫁を尋ねてもおそらくは問題なかろう、と。彼女は知っておきたかった、瞼に焼きつけておきたかった。これから己の手が破壊する平和を、それを覚えているからこそ、彼女は死を恐れぬ英雄スカーレッド足りえるのだ。
そうして。騒がしいお祭りは終わっていった。少年少女の日常は終わっていった。その後にやって来るのは辛く苦しく痛く悲しき――戦争という非日常である。




