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ある頃からか、春の命の華やぎはしんと静まり、眩い陽射しに木々の陰が濃くなった。
日も高くなった頃、ネフェリアは窓越しの窓に、馬を率いた騎士風情の男たちが数人いるのに気がついた。
不審に思って、父親に知らせようと西の棟へ足を向ける。書斎へと続く広間へ踏み入った時、胡桃材の黒い扉が開かれるところだった。
書斎からもれる会話に、娘は広間から身を引いていた。扉の陰に父の声が聞こえた。
「御父上には話されているのですか」
「ええ、話はしています。まだ返事はもらっていませんが」
声の主を、彼女はすぐに察することができた。
二年前に見た時よりも、すっかり大人の体格になって、向かい合う父の姿が小柄にさえ見える。その光景に驚きながら、ネフェリアには自然と理解するものがあった。
「必ず、説得してみせます」
明瞭に言った一言を、父がどのように聞いたかは、彼女からは見えない。客人が視線を上げたのに気付いて、ネフェリオもまた肩越しを振り返った。
家の末娘へ目で挨拶を送った後、リヨンは目の前の伯爵へ眼差しを戻した。
「娘は、東の庭にいるはずです」
ネフェリオがそう告げると、リヨンはうなずいてみせ、軽く会釈した。ふたりへ背を向けた後ろ姿を見送ってから、ネフェリアは父のもとへと駆け寄る。
「お姉さまのことでしょ」
雰囲気を察した娘の華やいだ声と裏腹に、ネフェリオの面持ちは冴えなかった。娘のはしゃぐ表情に目を向けれずに、ひと息をつく。
気を重くした父の横顔を見つめる彼女の視線に気がついて、彼はその肩に手を回した。自身の不安をなだめるように、娘の肩を軽く叩いた。
——おまえなら良かったのに。
父の心の声は、時おり言葉にしなくても彼女に伝わった。望みが薄い分、父のその思いは迷惑なものでしかなかったが、この時、ネフェリアはその言葉の続きを聞いたような気がしたのだった。
あの子の、この土地を離れられない体では、二人が認められることはないだろう。
まとまらない感情に心を傾け遠くを見やる顔を眺めて、ネフェリアも父のその憂鬱をようやく我がこととして感じていた。
眩い白雲が地平にそって流れた。昼空の明るさから逃れるように、ネフェリンは唐松の陰に佇んでいる。声をかけるより前に、彼女はこちらに気付いて、肩越しを振り返った。父親に話を聞いていたのか、彼の姿を見ても驚く様子はない。
自分の気持ちが定まっていたせいか、リヨンも心は落ち着いていて、急ぐでもなく彼女に近づいた。
言葉もなく向かい合うと、待ち合わせの場所で落ち合ったような気にさえなった。
この日は彼女のために来たのだから、その感覚は自然なものだったかもしれない。
彼を迎えたネフェリンの表情には戸惑いも見えて、突然の来訪に、シェネフ家に問題でもあったのかと心配しているようでもあった。
日が傾く前には発たなければならない。彼女といれる時間はわずかなものだった。そのことを告げて、半刻ほど話をすることになった。
最後に会った時、二人が口論になったその場所で、ふたたび肩を並べて座る。視界の先に木々は青づいて、深い翳りと若葉の明るい色重ねが、陽射しの中にさざめいた。
以前には、いかにも父親へのあてつけを感じさせる粗略さで、少女の格好をしていたが、今日までの間に父親の妥協があったのか、ネフェリンはすっかり少年の衣装に戻っていた。
伸ばしかけだった髪を高い位置でひとつに結ぶと、華奢な顎の線が露になる。麻の上衣をゆるく着て、小柄でたおやかな体つきはむしろ際立つようだった。
「父とは何をお話されたんですか」
不安げな視線を送る彼女に、リヨンは微笑みで返した。
この場で打ち明けるか、迷っていた。彼の父は婚姻の願いに、まだうなずいていない。
リヨンの心は決まっていて、たとえ時間がかかっても、この決意が変わらないことを父に分かってもらうつもりだった。
しかし、シェネフ家はそれを待ってくれるだろうか。その怖れから、彼女の父に一足早く自分の決意を伝えにきたのだ。
彼に説明する気がないことを悟って、ネフェリンはそれ以上は尋ねなかった。
彼女が視線をそらすと、辺りに静けさがおりた。風が木々の間をぬけ、明るい葉の揺らぎが、さざめいて広がる。
不意にリヨンは、今ならどんな言葉でも口にできるのではないかと思った。
「都の方は、落ち着かれているのですか」
先に口を開いたのはネフェリンの方だった。
隣を見ると、伺うようにこちらを見る彼女の眼差しに出会う。
「前には、戦地へ赴かれるという話でした」
「落ち着いているとは言えないが、今は停戦中だ。昨年の寒い夏の影響で、コランタムも兵を動かせない」
答えながら、肘を膝の上に預けて手を組んだ。難しい考え事をほぐすように、絡めた指へ力を入れる。
動けないのは、キリエスも同じことだった。
夏前まで霜風が吹き下ろし、麦が不作となった。食糧は不足したが、戦乱は止まず、人も物も戦へと充てられた。冷害による凶作から立ち直れなかったのは、戦乱のせいでもある。
戦況も良いとは言えない。
数年前はもう少し楽観的であった。それには彼女が指摘した通り、セウレウス家の支援を受けての心驕りがあった。
彼女の不穏な見解を受けて状況を見渡してみれば、その呪いの言葉は確かに彼を蝕み、この戦いが正当なものであったのか、疑う心が芽生えるのだった。
当初、すぐに片がつくと思われた戦いが三年も続いたのは、グメリンの思わぬ粘りがあったからだ。
継承問題で内乱の続いているコランタムは、さらに南からの異教徒の侵入の対応にも追われ、北の辺境の地などすぐに手放すだろうと考えられていた。
コランタムの北方の地グメリンは、本国からの支援もなく孤立しながらも敵国と戦を続け、いまや攻め入ったキリエスも危うい。孤立奮闘のグメリンの最大の味方は、キリエスの両替商人だと皮肉られていることを、リヨンも知っていた。
注がれる眼差しに気がついて、ネフェリンを見やった。明るさの下で目を細める表情が、険しさにも映った。彼女の胸を占める不安を、今は理解することができる。
わずかに笑みを浮かべて見せてから、リヨンは厳しいまなざしを、葉の揺らぐ光景へと投げかけた。
「終わらせるよ」
それは、どちらかというと決意に近かった。
当てがあるわけではない。だが、終わらせねばならないものだと思うようになっていた。
隣へ視線を戻すと、言葉の意味を探すように、こちらをじっと見つめる彼女の眼差しが待っていた。陽射しの下では薄く茶色がかって透ける瞳に、一瞬ひきこまれる。心の内に根ざした使命感とは違った、甘美な熱が胸に入り交じった。
「近い内に、必ず」
誓う思いで、彼女の不安の眼差しに答えた。
すべて平穏に戻れば、その時は彼女を迎えに行く。その決心にかけられたものは、ひとつの心情ばかりではないのだった。
話しながら視線を交わらせるのは、何も特別なことではなかったが、この時は、不意に沈黙がふたりを包んだ。
彼の視界には目の前の少女だけが映り、彼女もまたそうであることが、突然に理解できた。
ふたりに穏やかな風がまとわって流れて行く。ふと思い出して、リヨンは服の衣囊に手を差し込むと、布包みを引き出した。
その手元を見守るネフェリンの前で、絹布の皺の奥に隠れていた、白金の環を取り出してみせる。
彼女の手をとって、その細い指に環を通した。
いつかふれることを躊躇したその手に、手を重ねながら、自然な振る舞いを装えたことに、リヨンは安堵を覚えていた。
澄んだ白い輝きをまとう贈り物を眺めて、ネフェリンが尋ねる。
「どこの略奪品ですか」
辛辣な物言いに、リヨンも苦笑いを浮かべていた。言い返そうとして、言葉を飲み込む。穏やかな笑顔に代えて、彼女を眺めた。
ネフェリンの表情には驚きも喜びも伺えなかったが、平静さの向こうに、戸惑いがあるように感じられた。彼女の言葉の苛辣さは、その動揺を隠すためのものなのかもしれなかった。
彼女は、戦の途中のに思いつきで拾ってきたのを与えたのだろうと揶揄したのだが、もちろんそうではない。昨年、エピウゾン地方に足を運べずに、その内に彼女の父親が年頃の娘に婚姻相手を見つけてきはしないかと、根拠のない焦りにとらわれたことがあった。その時の決心は、機が熟したというより、もう時は遅すぎるのではないかと、急かされる思いの中でおこったものだった。
今はそれでいいと、隣の彼女を見やりながら思う。
いつか温かい暖炉の前ででも、身を寄せ合いながら、思い出したように打ち明けよう。その指環は、国内随一の職人に作らせた特別な品なのだ。その告白の日は、今日と同じように肩を並べながらも、深く確かに心をつなぎ、若い日に語らいを向ける。その時、彼女はどんな顔をするだろうか。
今はまだ、その肩を抱き寄せるのにひとつ勇気が及ばない彼は、慣れない指環の感覚に戸惑っている少女を、愛おしげに眺めるだけにとどめた。
何を言っても、満足げな笑顔を向けるだけの友人に、ネフェリンは不可解なものを見る眼差しをした。
彼女の憶測が、彼の胸の内に秘めたものに思い及ぶのを避けて、リヨンは膝に手を当てると言った。
「もう行かないと」
彼が立ち上がるのに従って、ネフェリンも腰をあげる。ふたり半ば向き合うように立つと、名残惜しさが込み上げた。
「最近、体調は」
尋ねると、自然と帰り途に足を向ける合図になった。
「悪くありません」
ネフェリンはようやく笑顔を見せる。並んで歩きながら、リヨンは言葉をかけた。
「あまり無茶をしないようにな」
次に会えるまで時間が空く。その間に調子がいいからと活発に出回って、体調を悪くされては困る。笑って流そうとしたネフェリンに、追い打ちをかけて言葉を次いだ。
「あなたひとりの体じゃない」
その面から笑顔がすっと消えて、不思議なものを見る表情が残る。代わりに彼が笑顔をつくった。
「返事を聞けてないな」
「お約束します」
やっと微笑んで、ネフェリンは言った。
これがしばらくの別れになると思うと、邸宅までの道のりが短く感じた。
わずかな時間にも口数が少なかったのは、言葉がふたりの間にある空気を散らしてしまうような気がしたからだ。
けれども口をつぐんでしまうと、今度は切なさがつのった。胸を焦がす思いにじっと耐えて、ふたり夏草の道を歩んだ。