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秋はとこしえ  作者: 白九 葵
黄金色の思い出
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7

 年に一度、顔を合わせる友人への想いが、これまでに抱いたことのないものであると気付くのに、それほど時間はいらなかった。

 その瞬間を、後にもリヨンははっきりと思い出せることができた。エピウゾン地方へ通うようになって三度目の秋のことだ。

 少年にとって、季節のめぐりの中でひときわ美しいのが、初秋のこの時期だった。

 それは森の神秘を彼女が見せてくれるからであり、少女とともにいると、風景は鮮やかに心の深くへ降りてくる。

 空が明るくなり始めると、森は眠りから覚めて、新しい一日を迎える。しっとりと露に濡れた草木は、むせるように濃く匂い立ち、いくつかの花は朝のうちだけ花弁を広げた。

 その魅惑的な早朝の森の姿を見たくて、大人たちには打ち明けずに、リヨンは庭でネフェリンと待ち合わせた。

 空は明るみ始めていたが、木々の間は薄暗く、夜の名残りがあちこちに身を潜めている。交わす言葉も自然と少なくなって、かすかな光と濃い翳りがとけあう時間に、ふたりは身を浸した。

 冷えた空気とおぼろな光の中で、草木の深い呼吸を聞くような気がした。

 皆が起き出す前に戻るはずが、草葉の奥に奇妙なものを見つけて、リヨンは友人を呼び止めていた。

 見たことのない昆虫が、低い茂みの細枝にじっとしている。

 ネフェリンは、彼が示した茂みの奥へと目を凝らしていたが、やがてささやくように言った。

「蝶だ」

 言われたことが初めには信じられず、少女の見つめる先へと、改めて視線を注いだ。

 その異形の生き物は、硬い皮を持った半身から、細い足をのばしている。しばらく眺めていると、昆虫はその硬い皮から這い出ようとしているのだと分かった。

 やがて針の足が、目の前の葉をつかんで、硬い皮を脱ぎ去った。葉の裏にぶらさがった生き物の、縮れた茶色の翅が、じょじょに伸び始める。

 花びらが開くように、ゆっくりと翅が広げられた。明るい金赤の斑点が、草の陰にともる灯りのように浮かび上がる。それは確かに、彼の知っている蝶の姿だった。

 何か言葉を告げようとして、少女の方を見た。しかし、彼女をまだ息をひそめて、その命の懸命なうごめきをじっと眺めている。

 彼女が口にする森の秘密を、少年が本当に知るのは、彼女の眼差しの輝きに気付く時であった。

 彼女に出会わなかったとして、この光景を目にしても、その美しさに気付けただろうか。あるいは、彼が惹かれているのは、木々や昆虫、動物たちではなく、そこに見入る友人の心情なのかもしれなかった。

 その朝の冒険は、あっさりと大人たちの知るところとなって、リヨンは邸宅の庭から出ないようにと言い渡された。

 それでも別れの前の日、ふたりはもう一度、森へと入った。翅をもった蝶が生まれた場所に行ってみたが、あの朝には幹にしがみついたままだった抜け殻は、もう残っていなかった。

 もの言わぬ草木のゆたかな表情にふれている時間も、あとわずかだ。森をぬければ、大人たちのいる世界へ戻るのだと思うと、名残惜しい気持ちになる。

 来た道を戻りながら、リヨンは言葉をこぼしていた。

「おまえが男だったらよかったのに」

「どうして」

 彼にとっては自然な思いから出た一言だったが、聞き返したネフェリンは不思議そうだった。

「そしたら、ずっと一緒にいれるだろ」

 その言葉の意味をしばらく考えていたネフェリンだったが、やがて口を開いて尋ねた。

「どうして女だとだめなの」

 すぐにはリヨンも答えられなかった。だって、と言って、言葉をとぎらせる。草を踏み分ける音が、辺りに騒がしさを散らしていた。

「男が女と一緒にいるためには、結婚しなきゃいけないんだ」

 隣を歩く少女の視線が、こちらへと注がれた。さえずりながら枝を渡る山雀の鳴き声が、秋の空に凛と響く。

 ふたりは口を閉ざして黙々と歩いた。夕暮れの間近な森の静けさが、草を踏んで歩む、彼らの上に覆いかぶさる。

 口にした後でリヨンは、緊張に心が絡めとられるのを感じていた。

 結婚やら女の子やら、少年にとってはまだ、面倒なものに違いないという思いしかない。彼女に対しては違った。ふたりで過ごす間。同性の友人たちと変わらない気持ちで接していたし、この先もそうでありたいと思っていた。

 しかし、ふいに口にした言葉は、そこに潜む特別な響きを、少年に覚えさせていた。

 ネフェリンは大切な友人だ。一緒にいると、どんな風景も新鮮なものに変えてくれる。初秋の季節が美しい理由も、彼にはもう分かっていた。

 かけがえのない友人と自分をつなぐものが、婚姻という神聖な絆であると思うと、その想像にリヨンは強く惹かれた。祝福を受けて交わす誓いは、ふたりを堅く結びつける。この世にふたつとない絆で、彼女とつながれるのだ。

 心地の良い勝手な思いつきは、すぐ隣の彼女の存在を強く感じると、とたんに気恥ずかしいものに変わった。

 鼓動はより高鳴って、彼の心を打ちつけている。それと悟られないように、リヨンは視線を足下に落として歩き続けた。

 風は木々の高いところを渡り、葉が頭上でさざめく。ふたりの間におりた長い沈黙は、相手も同じ気持ちでいるかもしれないと、少年に感じさせた。

 静やかさを通して、ふたりはひとつの想いを感じている。

 暮れゆこうとする一日を惜しんで、離れがたい気持ちを、ふたりその沈黙に分け合っていた。

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