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秋はとこしえ  作者: 白九 葵
黄金色の思い出
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5

 夏の間シェネフ家の邸宅を包んだ深い緑は、朝夕の冷えが深まる頃には、辺りを黄金に染め上げた。

 風によそぐ葉の明るい黄色をくぐって、箱馬車は邸宅までの細い道を走る。

 うねりの続く一本道では、護衛馬は漫然とした長い列になった。彼らは道行きの疲労をおして、先頭の軽快な走りを追うのだった。

 律動を刻む蹄と、道の小石を跳ねて回転する四輪は、林を抜け出た先に姿を現した邸宅へと近づくにつれ、その勢いを緩める。

 客人を連れて主が帰ってきたことを、家の女中が知らせにやってきた。

「お戻りになりました」

 若い女中は明るい声で呼びかけたが、家の娘は書物から目もあげずに、沈黙を返す。

「ご挨拶にお出にならなくてもよいのですか」

 問いかける声が後に続いた。つまらなさそうに頬杖をついて、娘はようやく口を開く。

「いいのよ、殿下はお姉さまにしか興味がないんですもの」

 素っ気ない返事に驚いて、彼女は家の娘を見つめたが、結局はかける言葉を思いつかずに、口をつぐんだ。

 まもなく表の賑やかさに呼ばれるように女中が出て行くと、あとには少女だけが残った。

 数年前まではネフェリアも、年に一度はこの地に足を運ぶ王太子との将来を夢見たことがあったのだ。二人が挨拶を交わす時に向けられる周囲の眼差しには、好奇心の色が潜んでいたし、何よりも彼女の父親がそれを期待していた。

 しかし、野山が夏の緑から秋の明るい色へと変わるごとに、その思いは裏切られた。早々に望みを捨てたのは、彼女自身だった。

 大人たちの挨拶が終わるのを待って、少年は家の娘のうち姉の方へ声をかけた。

 ふたりには前の年に交わした約束がある。緑の影が淡くなり、森に秋の気配が訪れるその季節は、「また来年」という彼らの申し合わせによって、繰り越しになる。

 姉の気遣いによって、一度は彼らの遊びに誘われたネフェリアだったが、彼女は迷うことなく断った。

 姉たちは山に入って羽のある昆虫を捕まえてきては、その色合いや模様がどうだとか、さらには角のある甲虫に喧嘩をさせたりしている。王太子の前で彼女はいつでも美しい衣装を纏っていたかったが、その格好で森について行って、気に入りの服が泥で汚れるなど、耐えられるものではない。

 問題はそれよりもふたりの遊びだ。昆虫たちの姿形を思うだけで、ネフェリアは身の毛がよだつのを感じた。

 姉のように振る舞えば、そのうち少年の気をひくことができたかもしれない。しかし彼女にはその想像すら難しかった。そのため、父よりも早くその将来を描くことを止めたのだった。

 父の期待はいくぶんか煩わしかったが、姉に関しての感情は薄かった。

 周囲の扱いのために早くから少女らしさを身につけてきたネフェリアだったが、まるで少年どうしの野の遊びをうらやましく思うことはあっても、女性として自分に失望させられるわけではなかった。

 むしろ、二三日に一度は体力に負けて寝込んでしまう姉に、年に一度、あのような友人が会いに訪れることは、歓迎すべきことに思っていた。

 彼女の心情と異なる周囲の眼差しから気をそらすように、ことさらな無関心を決め込んでいた少女は、表の賑わいをよそに、読みかけの本の新たな頁をめくったのだった。



 初秋の陽射しは冷えた空気の中で、金色がかった眩さをはらんだ。唐松の防風林がなだらかな丘を取り囲んでいる。野山の黄金の彩りを望むように立つ少女の姿を見定めると、リヨンは彼女の名を呼びかけた。

「ネフェリン!」 

 芯の通っていくぶんか大人びた声が響く。

 衣装の深紅と伸びかけた淡白色の髪の色は、秋の風景によく似合っている。だが、振り返った少女は小柄すぎて、立派な衣装に着せられているように見えた。手入れの半端な髪も、せっかくの繊細な面を台無しにしている。

 明るさに目を細めながら、ネフェリンは声の主が近づくのを待った。その表情に不満げなものをとらえて、笑いながらリヨンは尋ねた。

「女の格好なんかして、どうした」

 眉をひそめて彼女は答える。

「この頃、お父様がうるさくて」

「それで乗れるのか」

 しかめっ面を笑顔が緩めた。うなずいてみせてから目線の先を変えた彼女に、リヨンも背後を振り返る。二頭の馬を引いた厩舎人の青年が、草を踏み分けてこちらへと歩むのを眺めた。

 近くまで寄ると目礼を示した青年に、わずかに笑顔を返す。退屈しのぎの犠牲となった過去の一日を、彼が気にしている様子はなかったが、その場に立ち会っていた少女を隣にして、リヨンはぎこちなさを感じてしまうのだった。

 手綱を手に取ったネフェリンへと視線を向けると、微笑みが返された。その輝きは、見ててと言わんばかりで自信にあふれている。彼女の関心はすでに、これから披露する馬術へと向けられていた。

 鐙に足を掛けて少女が馬の背に飛び乗ると、青年は馬の赤い肌から手を離した。

 この日駆けつけたばかりの観客に見守られて、足踏みする馬の背で体勢を整える。緩やかな丘の上へ長い鼻先を向けやや身を引かせると、馬腹の後ろを踵の内で蹴って、急発進させた。

 一瞬にして駈ける馬とひとつになった少女の姿を、リヨンは息をのむ思いで見つめた。

 馬上にあがってからの短い疎通で、馬をすっかり我がものに従えている。彼を驚かせようと、勢い良く駈けさせる訓練を、幾度となく重ねて来たのだろう。

 やがて走りは大股になり、そのまま丘を駈け上がった。頂上を目指して彼女が姿勢を起こすと、走りは緩やかになる。

 二三、鐙で草を踏んでから、馬はゆっくり左足を持ち上げ、ついで右足をあげて、重たげに半身を起こした。

 晴れた明るい空に、後脚で立つ馬の像がくっきりと映える。やがて見晴らしの良い丘に前脚を降ろすと、二つの影はひとつの律動の中で、駈けた道を振り返った。

 彼女には練習を重ねる時間があったのだと思う。それと同時に、彼女に与えられている日々の半分は、体力が疲労に耐えられずに、安静にしていなければならないことが思い出された。

 馬を歩かせて丘を下ってくる彼女に、リヨンの方から近づいた。

 呼吸の乱れこそなかったが、白い肌はその熱を隠せずに、薄赤く色づいている。おそらく彼女自身はそのことに気付いていないのだろう。瞳に宿る輝きを向けて、彼の感服の言葉を待っていた。

 身体と感情の危うげな均衡を眺め見て、彼の心におこるざわめきを、その明るい眼差しが見抜く気配はなかった。

 正体の知れない想いに圧倒されて、妬みも悔しさも消え失せてしまう。その落ち着きのない感覚は、幼い日に出会ってからこの日まで、彼女の前に立つ度に、身のうちにわき上がるのだった。



 邸宅の裏には馬を駈けさせる原があって、それより東の岩場のある方へ行くと、森へ入る口のひとつがあった。

 馬屋の裏から森へ行く道は平坦で、その翳りに楽に滑り込むことができたが、この荒い岩の道も、子供心には捨てがたい魅力があった。斜面を滑るようにして下方へと降りる。上がる時には、所々に顔を出す岩の出っ張りを器用に伝った。どの岩に先に足を掛けるか、そこから次にどの岩をつかむかということは、すっかり順序に決まっている。遊び疲れてしまった時でも、大人の丈より高いこの斜面を這い上がって、家路へと着いた。

 申し合わせたわけでもないのに、泥にまみれて帰ってくるような遊びは、彼らの背丈が伸びるにつれ自然と遠のいた。

 伯父について狩猟に出かける友人を羨望したのか、ネフェリンも間もなく馬に乗ることを覚えた。おおよそその頃から、二人の森の探検は終わりを見せたのだった。

 馬術の他には弓術に入れ込んで技を競ったが、そうでない時は、他愛ない会話で時間をつぶすこともあった。

 いつかよじ上った岩場の急な斜面は、頂上の目立つ岩に腰を下ろすと、秋の装いの木々を眺めるのにちょうど良い。色づいた木々の葉が、さざ波を立てるように光をはねるのを見下ろしながら、思いついたことをとりとめなく話した。

 彼女といると、自分が饒舌であることに気付かされた。

 話したいことがたくさんある彼と違って、ネフェリンはだいたい黙って話を聞いていて、たまに素朴な疑問が口について出たというような質問をした。そういう時、都で暮らす自分と、田舎のよく見知った大人たちの中だけで過ごす彼女との、生き方の差を感じるのだった。

 それは可笑しくもあり、新鮮でもあり、隣どうし並んで座る彼女を、自分とまったく違う個人として感じる瞬間でもあった。

 成長するとともに、彼女は、その妹ほどではないにせよ、女性らしいたおやかさを見せるようになっていた。とは言っても、せいぜい相手が話をしている時に微笑んでみせるとか、挨拶代わりに視線を向けてくれるとかいった程度のことである。

 他の少女たちのまとう、むせる花の香りほどの好意と違って、彼女の笑顔は、話を聞いていることを示すものにすぎない。それでも、うっすら立つその好意に惹かれて、空が夜の影をおとすまで飽きもせず話しをした。

 明日はこの地を発つという日に、リヨンは残り短い時間を、森を見渡す岩場で過ごすことを選んだ。

 ネフェリンが隣に座ると、長衣にまとっていた柔らかな空気が、一瞬舞い上がる。腰紐でしぼられた衣は、体の線をそれとなく感じさせ、紺色の衣装からリヨンは目をそらしていた。

 伯父に伴われていく狩りの経験は、この土地で過ごす間、興奮を覚えるもののひとつだった。

 初めて同行を許してもらえた年に、その日見たものを彼女に伝えると、いつもより熱心に質問が帰ってくる。今日起こった気持ちの高ぶりを、隣に座る友人にもひとしく分け合えたような気がして、リヨンは満足を覚えたのだった。

 その日もリヨンは、伯父に連れ添った数日間の成果を話して聞かせた。

 一行の中に鷹を扱える者がいて、訓練した勇猛な鳥を空に放って、獲物を捕らえさせる。人に追いつめられ飛び立った雉に、さっと舞い降りて、斑模様の胴体を中でつかんだ光景。犬たちの、より体格の大きな獲物に怯むことなく立ち挑んでいく姿。彼女はそういった動物たちの勇気や賢さに、とくに好んで耳を傾けた。

 ついでリヨンは、これから先、彼に待ち受けることで、どうしても報告しておきたいことを口にした。

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