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秋はとこしえ  作者: 白九 葵
黄金色の思い出
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4

 行く手はさらに道なき道となった。

 あの岩の麓の楓を彼女の世界の境界としていた理由が、リヨンにも分かり始めていた。この先は、普段人が足を踏み入れない領域なのだ。

 歩むごとに、背中の向こうの世界が遠ざかる。空気の冷たさが今さらながら肌に刺すように感じられた。

 どんどん奥に向かう少女の背中を眺めて、不安がよぎる。彼女は一見平気のように見えて、無理をしてはいないだろうか。ネフェリンは自分の限界に鈍感に思える。だから体が弱いのに、平然と歩き続けられるのだ。

 やがて斜面がなだらかになり、雑木林の先に明るい空が見えた。木の枝の上で見た、山頂の辺りに出たのだった。木々の影をくぐって、陽射しのそそぐ場所へとぬけた。その先に、さらに高い山の峰が続いている。ひと際明るい陽の光を浴びて、峰は金色に輝いていた。

 険しい山の稜線から南へ視線をそらすと、遥か向こうにシェネフ家の邸宅が見えた。

 山並みの影が眼下の森にたなびく。陽射しを受けた邸宅は、森の翳りの中に明るく浮かび上がっていた。シェネフ家へ向かう途中に、馬車で並走した渓谷の川が、森の低くなだらかなあたりで白い光をはねた。

 低地まで続く広大の森を眺めて、リヨンは思わず感慨にひたっていた。

 今、目にしている広い大地すべてが、いつか父から譲り受けるもののはずだった。

 けれども、それは本当に手に入れたことになるのだろうか。険しい斜面を登り詰めてこの場所にたどり着いてもなお、山は素っ気ない表情のまま、冷たい風を吹きつけている。幼い我が身がリヨンには、なおもどかしく感じられた。

 少女の小さな頭が辺りを見渡してふらふら動くのに気づいて、隣のネフェリンへと視線を戻す。友人の眼差しに気づいたか、彼女は高い山の頂を見つめて、悔しそうに唇を結んだ。その視線を追って、リヨンも目の前にそびえる厳しい山の峰を見上げていた。

 辺りに人の気配はなく、山はどこまでも静かだった。

 目指した場所にはたどり着けたものの、大人たちが向かったのとは違う場所だったのだろう。

 伯父の姿を必ずしも期待していたわけではなかったため、リヨンに落胆はなかった。目的地に着いたのだという満足感の方が、ずっと強かった。

 日は西に傾き始めていて、山の午後が短いことを思い起こさせた。暗くなれば気温はいっそう下がる。

「戻ろう」

 言葉を失くして立ち尽くしているネフェリンに、リヨンは声をかけた。


 帰る道はリヨンが先に立った。窪みの道をたどりながら歩みを進める。

 くだりの険しい内はひたすらに下方を目指すだけだったが、斜面がなだらかに変わると、不安が頭をもたげはじめた。

 辺りを見渡すと、どこまでも同じ木々の光景が続いている。戸惑いに歩みを緩めたリヨンを、ネフェリンが追い越して先を進んだ。一言も口をきかずに先頭を行く少女は、道を分かっているのだと言いたげであった。彼女を信じるより他になく、リヨンは小さな背中を追った。

 日が山陰に入ると、天蓋に満ちる明るさだけが、山道を歩く頼りとなった。空の眩さがやわらぐと、やがて暮れの翳りが森を浸していく。歩き続けて体は暖かくなっていたが、吐く息は白く冷えた空気にまじった。

 先をゆく少女の肩が震えて、時々息を飲み込むのが分かった。泣いているのかと思って、肩越しに横顔を見つめたが、そうではなかった。代わりに真っ赤な顔で、涙をこらえている。

 道に迷ったのかもしれない。だが、歩みを止めることなく沈黙のまま先を行くので、その疑問を投げかけられずに、ただ後を追った。

 いずれにしても彼女は、その冒険が失敗に終わったことを、悔しく思っているに違いなかった。

 友人に秘密の場所に紹介すると意気込みながら、いつの間にか険しい道を、心身疲れ果てながら戻るはめになったことを、責めているのかもしれない。苛立ちと悲しみの混ざった感情から抜け出せずに、ただ思いに耐えて、肩をふるわせている。

 言葉をかけれずに、リヨンは黙々と道をたどった。

 苛立ちを覚えるのはリヨンの方だったのかもしれない。しかし、目の前の少女が胸の内の激しい感情と戦っているのを眺めていると、憤りの元も消えてしまった。

 空からの明るさに森の翳りが混じる。視界もおぼろになった頃、前方からくっきりとした高い声で、鳥の鳴くのを聞いた。

 音に気づいたネフェリンが顔をあげる。彼女はすぐさま折り曲げた一差し指を口にくわえて、笛の音を返した。

 鋭い音色が森に響く。暗くなった森からは、沈黙が返された。

 二人は歩みを止めて立ち尽くしていた。胸に沁み入ってくる森の闇が、一気に濃くなる気がした。

 少女の後ろ姿をふたたび眺めたが、彼女は何かを待つように、微動だにしない。ほどなく、落ち葉を踏む足音が聞こえた。

 人の気配であった。

 五、六人ほどの人影が、木々の翳りの奥から現れた。

 先頭に立つ大柄な影に、リヨンは見覚えがあった。エピウゾンに初めて来た年、子供たちの喧嘩に割って入った大男だ。男はシェネフ家の従士で、名をゼオラといった。その彼が少女に呼びかけて、森の奥から指笛を吹いたのだと、リヨンはようやく気がついた。

 彼に連れ添った痩身の男は、森の暗がりに立ちすくむ二人の子供を認めると、蒼白な顔に険しい表情を浮かべた。リヨンはこの男も知っていた。今日一日、彼の面倒を見るようにと言い渡されていた、シェネフ家の家臣である。

 痩身の男は進み出ながら、彼を見上げた少女へと、厳しい口調で叱りつけた。

「ご自分が何をしたかお分かりですか!」

 怒鳴り声に驚いて、ネフェリンは背筋を伸ばす。

 彼女は唇を噛んで、あらゆる感情を身の内に押しとどめようとした。けれどもその忍耐もむなしく、涙は彼女の瞳からこぼれ落ちる。それでもなお、泣いてることなど気付かないように、彼女はじっと前を見据えた。

 場の重々しい空気に、大男が歩みを進めて口を開く。

「お怪我はありませんか」

 その言葉はリヨンに向けられていた。

 彼は足下を見やった。歩き続けて、足の裏がじんと痛んでいる。鹿革の靴の親指の先が、わずかに擦り剥けていた。

 大男は連れ添った男を振り返った。

「お連れして、すぐに手当を」

 それから羽織っていた外套を脱ぐと、リヨンの体をくるんだ。肩を抱えられるようにして、家臣の男たちへと引き渡される。

 宵闇に沈んだ森の道を歩き出す前に、リヨンは肩越しを見やっていた。

 その場に立ったままのネフェリンの前にしゃがみ込むと、なだめるように男は少女の頭に手を置いた。それを合図に、彼女の顔は涙に崩れてしまう。

 先を歩く男たちが足を止めるのが分かって、他にどうしようもなく、リヨンは少女に背を向けた。



 邸宅に戻ると湯の張った桶が用意され、冷えた足を温めることができた。

 幸いなことに伯父たちはまだ帰っておらず、その日のふたりの遠出のことは自然とふせられた。

 大人たちに騒がれるのは嫌だったので、リヨンにとっても都合が良かったのだが、その代わり、彼女があの後どうなったのかを訊くこともまた、はばかれてしまった。

 木の枝の上で振り返ったネフェリンの、満足げな笑顔が時おり思い出された。

 言葉少ない彼女の顔に広がる輝きや、胸の内に渦巻く悲しみが、めまぐるしい天候のように思えて、今はどんな気持ちでいるのだろうと、つい考えてしまう。

 シェネフ家を離れる前に、リヨンはふたたび彼女の部屋の下へと足を向けた。

 窓は少し開いていたが、人影はない。

 拾った小石のひとつを、窓に向けて投げた。こつと音がたつが、反応はなかった。もうひとつを投げようとして、窓辺に影が揺れるのを見た。

 窓の隙間から、少女が顔をのぞかせる。陽の下では奔放な森の子供も、暗い部屋では沈鬱さをたたえて、すっかり病弱な子供に戻っていた。

 何を伝えればいいか思いつかず、リヨンは混乱した。一言だけ、声を張り上げて言った。

「また、来る!」

 簡単な言葉にも勇気が必要だった。

 ここに来るには、父と伯父を説得しなければいけないのだ。

 約束を守れるか分からないばかりか、約束をしなければならない必然性も、リヨンにははっきり分かっていなかった。けれど言ってしまうと、落ち込んだ彼女を元気づけるのに、その短い一言はとても良いと思えた。

 彼の言葉に、窓辺の子供が元気を取り戻した様子はなかった。

 表から彼の名前を呼ぶ声が響いて、リヨンは慌てて石の上から滑り降りると、少女へと手を振った。

 彼女に背を向ける前に、窓向こうからネフェリンがわずかに手を振り返すのを見る。力なく手をゆらす仕草は、少年の手の振りをまねただけのようでもあったが、寂しげな眼差しは彼から離れず、都へと帰っていく友人を、心細い面持ちで見送るのだった。

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