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秋はとこしえ  作者: 白九 葵
命のつむぎ
32/37

13

 執務室へと戻る廊下の途中に、その老年の男は立っていた。

 歩みを緩めてリヨンは男を眺める。服装から神官職の者だと分かった。傍らに大臣が付き添い、王太子の近づくのを待っていた。

「グーズ司祭でございます。メイオ様の大叔父にあたる方です」

 大臣の紹介に、老年の男は深々と頭を下げた。

「お話だけでもお聞きいただけませんか」

 頭を垂れたままの司祭のそばを、返事をせずに彼は執務室へと入った。あわてて後から部屋に入った大臣は懐から紙片を取り出し、リヨンへと差し出すのだった。

 室内に待機していた従者が足を向けて紙を受け取ると、机へ歩んで王太子へ手渡す。用を済ますと大臣は一礼を見せ、早々と執務室を出て行った。

 開いた文書にさっと目を通したリヨンは、視線を司祭へと送る。頭を深く下げたまま老年の男は言った。

「セウレウスの者でよりあって決めたことでございます」

 リヨンは黙ったまま、紙をあった形に折り畳んだ。その音をじっと聞きながら、司祭は言葉をつなぐ。

「セウレウスは一切の公職から退き、一私人となります。カポラさまより三代に渡ってこれを約束し、ラブラド家に対する冤罪を認め、彼らに賠償金を支払う意向です」

 たたんだ紙片を卓上の端へと突き返す。なお顔を上げようとしない司祭をリヨンは眺め見た。

「どうか、カポラさまメイオさまの幽閉をお解きいただき、ヴェルネさまとの婚姻の解消を取り下げていただきますよう」

 司祭は膝をつくと、床にすれるほど頭を下げた。続く言葉はくぐもって響いた。

「殿下は当初、エピウゾン伯爵令嬢との婚姻まではお考えではなかったとお聞きしております。しかし母子の御身を考えてこのような行動をとられたと。ヴェルネさまとの間の子を継承者とすると一筆いただければ、互いに疑念を持つこともなかったと考えております」

「私もそのように思っていた」

 腰掛けに肘をつくと、リヨンは静かに答えた。

「そなたたちがバレル公と手をとるまではな」

 辺りを重い沈黙が覆う。客人から目をそらした時、振り絞るような司祭の声が聞こえた。

「ヴェルネさまに罪はございません。どうかお考えの改めを」

 リヨンの眼差しは、窓から差し込む光の上をさまよった。顔をあげた司祭の視線が王太子へと注がれる。妃について話を向ける時の彼の沈黙が、女性の心に鈍感なためか、あるいは弱みであるのか、見極めるようであった。

 リヨンは短く言葉を返した。

「もうよい、行け」

「殿下、」

 祭司は引き下がらない。背を伸ばし彼を見据えながら、なおも言った。

「このことを御父上が知れば、なんと申されましょう。南方に行かせたのは、ご療養だけが理由ではありますまい」

 男の声色が低く変わる。リヨンは眉を潜めた。

「ならば王の命の尽きる日まで、そなたたちを牢につなぐだけだ」

「エピウゾンの伯爵令嬢は、婚姻にご同意されていないと伺っています。果たして司祭長がお認めになるとお思いですか」

 言葉を返そうと老年の男を見て、彼がまっすぐにこちらを見て視線をそらさないのに気がついた。それは警告だった。暗にその手はずをまわしていると伝えているのだ。部屋に差し込む斜陽を受けながら、リヨンは男の真意を探るように眺めた。

 執務室の入り口に別の従者が姿を現せたのは、そんな時であった。

「ご来客でございます」

 声がかけられたが、二人は視線を交わらせたままだった。冷ややかな眼差しを解かず、リヨンは言った。

「下がれ」

 司祭の顔が悔しさに歪む。彼は頭を下げると立ち上がり、身を翻して部屋を出て行った。

 入り口に立ったままの従者は、リヨンに視線を向けられて、やっと言葉をつないだ。

「シェネフ家の家臣でございます」

 すぐに用件の察しがつかず、従者の男を斜めに見やる。

「通せ」

 従者が下がるのと入れ替わりで、来訪者の影が戸口に立った。大柄なその男の姿を眺め見る。シェネフ家からの使者は、寝ずの強行軍だったのだろうか、今しがた辿り着いたような疲弊を背負っている。一礼をしてゼオラは室内へ進み入った。

 リヨンは姿勢を起こしていた。しばらくこちらを眺めていたリヨンに、ゼオラが口を開いて言う。

「報せがふたつございます」

 表情を変えずにリヨンは言葉を待った。重々しい男の声が後に続く。

「二日前、お生まれになりました。男児でございます」

 リヨンは背筋を正していた。十度の月の巡りに満たない、早い報せだった。

 知らずと息をつく。リヨンが言葉を次ぐより先に、ゼオラが口を開いた。

「ネフェリンさまは産後熱に見舞われて、今朝早く息を引き取りました」

 笑顔が面から消えるのが、自分でも分かった。淡々と告げたゼオラは無表情だったが、その顔には深い翳りが差している。

「そうか」

 椅子に背を預けると、短い一言がこぼれた。

 事実さえ分かれば良い。あとのことは考えまいとした。問題はこれからどうするかである。

 シェネフ家との婚姻はすでに成立している。セウレウス家のよこした司祭が言ったことは、父王を後ろ盾に訴えをおこし婚姻を無効にする準備があるということだろう。

 彼女の存在がない今、この婚姻に頑になる必要があるだろうか。それとも、ラブラド家との約束を守り、わが子を守るために、一度踏み出した道をこのまま進むべきか——しかし、セウレウス家は譲歩を申し出ていた。彼らの提案を受け入れることも、選択のひとつであった。

 考えを巡らせて視線を泳がせる。肘をついたリヨンにゼオラが言葉をつけ加えた。

「お嬢様から、もしものことがあればお渡しするよう、仰せつかったものがございます」

 そう言って、懐から筒状に巻かれた紙を取り出す。リヨンが手を伸ばしたので、ゼオラは王太子に近づいて巻物を手渡したのだった。

 受け取った手紙を広げ、そこに書かれた丁寧な文字を見た。定まらない心で文章を辿る。一枚は書きかけの手紙、もう一枚は、ある宣言を記したものだった。

——私、ネフェリシェネイア・マロー・シェネフは、次の意志を宣言いたします、アストル家との婚姻に関して、次の条件が満たされる場合において、これを希望せず、王位継承権を要求いたしません。

 その書き出しの後に、シェネフ家領地の保証と、母子が生活・生存を脅かされることがないよう約束を求めている。わが子の身の保証と引き換えに、彼女は未来の王妃の座を放棄したのだった。

「これが彼女の意志か」

 力なく言ってゼオラを見上げた。

「あなたも同じ考えか」

「母と子で静かに暮らしたいと、それがお嬢様の希望でございました」

 手紙を静かに卓上へと置いた。リヨンは笑みを浮かべていた。苦い思いで口を開く。

「私が必死にかけずりまわっている間、このようなものを書いていたとはな」

 言葉にすると憤りが胸に込み上げた。その感情の波におされて、意志の壁が決壊するかのように、さまざまな想いがせり上げてくる。改めてこの世界のどこにも、彼女が存在しないことを思った。その声も、眼差しも、たまに見せる笑顔も、すべて感じることができないことを。

 振り返れば、彼女と過ごした季節は数えるほどしかない。その度に刻まれた記憶が鮮やかによみがえった。

 幼い日にそっと盗み見た横顔。静かに耳を傾けるときの眼差し。最後に会った日に見た、悲しみにくれた顔——。

 右手でこめかみを押さえると顔をうつむけた。いつか言った彼女の言葉が、たった今耳にするように、鮮明に思い出された。ただ彼女を感じていたかった。たとえそれが、痛みや苦しみであっても。

 目の前に客人の立つのを分かっていながら、リヨンは額を手のひらに預けたまま、込み上げる思いに耐えた。

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