2
午後の一件が大人たちに伝えられたのは、彼らが存分に楽しんだ狩猟の帰り途のことであった。
その一報に真っ青にさせられて、一足先に邸宅に駆け戻ったネフェリオは、経緯を聞いて、後から顔を揃えた客人に平謝りに謝った。
公爵とその親族を迎えて、その年の夏の暮れは、思い出深い一日になるはずであった。
貴重な日を悪夢に変えられた伯爵を救ったのは、リヨンの正直な告白だった。問題の子供に非難されて、なお不名誉を重ねる気にはなれなかったのだ。
使用人に声をかけたのを嫌がらせだと勘違いされて、一悶着となった。幾分か解釈を変えたのは、初めに手を出したカルジャンの立場を守ってのことだった。
子供に受けた屈辱を晴らそうと息巻いていたカルジャンは、先に事情を聞かれてそう答えたリヨンへ、呆気にとられた眼差しを向けた。
それでもその告白は、彼らにくってかかった子供の行動に正当性を与えて、親族たちはそれ以上の追究を控えたのだった。
相手を庇う発言の一方で、リヨンには納得がいかないことが残っていた。
彼自身はあの出来事に加担していないし、止めようとすら思ったのだから、恥じるべきと思ったあの言葉を取り下げてもらいたい。
「直接謝ってほしい」
伯父と二人になってから、リヨンは要望を伝えた。
ナトロは少し考えたあとで尋ねた。
「互いに非はないと、さっき言ったばかりではなかったのかね」
「目に頭をぶつけられたんだ」
「君たちもあの子を殴った」
返す言葉を失うリヨンに、伯父は真意を探るような目を向けた。
彼が責めを逃れたい罪を伯父に説明するには、あの使用人に働いた嫌がらせを話さなければならない。そのことを考えると、見て見ぬふりはより罪深いと言った子供の言葉が、胸によみがえってくる。
その説明は彼らに分が悪く、正直に話したところで、伯父にもあの子供と同じことを言われるのではないかと不安がよぎった。
胸に居心地の悪い塊が残ったままだったが、伯父に同意を求めることは諦めて、彼は口をつぐんだのだった。
翌日の朝早くにリヨンは、伯父たちには黙ってエピウゾン伯を訪ねた。
邸宅の東側を客人に明け渡して、伯爵の家族は反対側の古い造りの棟を、この期間の住居としている。
石段を上って木戸を叩くと、中から若い女中が顔を出した。リヨンは率直に、昨日のことを本人に謝ってほしいと告げた。
大男に担がれて邸宅に消えてから、一度も子供の姿を見ていない。伯爵が身内の行いを心から謝ったのは承知しているが、肝心なのは当人の謝罪ではないか。
内心にそう言い聞かせて胸を張るリヨンに、女中は困った表情を浮かべただけで、その望みを叶えようとするそぶりを見せなかった。
代わりに彼女は、そわそわと口を開く。
「申し訳ございません。お嬢様は昨日あれから体調を崩して伏せておりまして、」
驚いたリヨンは、すぐに言葉を返せず、その場に立ち尽くした。
肉付きのない体で短い髪を乱して、三人の少年に挑んできたあの子供が、伯爵の娘だったというのか。彼らはその少女をとらえて、容赦のない拳で殴ったのか。
奥から現れたエピウゾン伯と視線があったとき、罪悪感が少年の体をかけめぐった。
女中に事情を聞くと、彼女に代わって伯爵は、同じことを繰り返し言ったのだった。
「昨日は、あの子が大変なご無礼をはたらいて、申し訳ございません。娘はもともと体が弱く、昨晩から熱を出して寝込んでおります。明日には良くなると思いますから、必ず謝罪に伺わせます。どうかそれまでご容赦くださいますよう」
リヨンは困惑しながらも、承諾するより他になかった。戻りに従者を付き添わせようとした伯爵の心づかいを断って、小走りできた道を戻った。自分がいまだに謝罪を求めていることを、伯父には知られたくなかったのだ。
悩んだ末に、次の日も邸宅の西棟を訪ねるべく、リヨンは朝早い空気の中に身をさらした。
歩きながらおのれの心情に思いを巡らせる。
大勢の前で謝らせたいのではなかった。あの時に自分が、遠縁の少年のやったことに賛同していたわけではないことを、分かってもらいたかったのだ。それには、他の人がいるのでは困る。それに、うわべだけの謝罪で見逃しては、あの子の中で、恥知らずという彼の像が、いつまでも生き続けるではないか。
その日は階段のわきに掃除夫の男がいた。リヨンは男に、この家の長女に会いたいのだということを伝えた。
「裏手にいますよ」
男は、声をかけた少年が誰か分かっていないのか、ぶっきらぼうに答える。しかし、昨日会えなかった相手がすぐそこにいると思うと、無愛想な返事よりもそちらへ気が向いた。
男の示した裏庭へと回り込むと、木々と草の茂みの開けたところに、石積み用の大きな石材が座しているのが目に入った。それを腰掛けにして、一昨日揉め合いになった相手が座っていた。
戸惑いながらも近づくと、気配に気づいた少女が顔をあげる。振り返った眼差しがリヨンをとらえた。
刺すような視線が注がれる。少女の身のうちにまだ、怒りの火がゆらめていていることが感じられた。
父親に謝るように言われたのだろうか。それならいっそう、その憤りは増しているのかもしれない。
薄い皮膚は感情を透かせて紅色に色づいている。高原の朝の空気は、その熱をなだめるように、ひんやりと冷たかった。
一瞬歩みを止めたものの、気持ちをおして少女に近づいた。
こめかみの辺りに殴られた跡がまだ残っている。短い髪は無造作に散らされ、少女らしさを失わせているが、代わりに小さな頭と細い肩を際立たせて、凛とした印象を漂わせていた。
「どうして男みたいな格好してるんだ」
側まで近づくとリヨンは尋ねた。少女はそれには答えず、ついと視線をそらす。
「何の用ですか」
改まった言葉つきが、昨夜までにあっただろう父親とのやりとりを感じさせた。
素っ気ない横顔を眺める。頬の上気したような赤みが胸ににじんだ。
彼女の中の炎は、生命の火にも見える。その強烈な熱は、か弱い彼女の体を引き裂こうとしていた。同時に弱くバラバラになりそうなその体を、つなぎ合わせてもいる。
ほとんど見とれるようにして視線を注ぐ少年の沈黙に気がついて、少女の眼差しがこちらへ向けられた。わずかに息を吸い込んで、リヨンは口を開いたのだった。
「君に、」
答えを待つ少女の琥珀色の目を眺め返した。
木々の間をわたる風がやさしく前髪をゆらせている。そのためか、さっきまでの表情のきつい印象が、やわらいだような気がしていた。
「謝ろうと思って」
口に出たのは、自分で思ってもない言葉だった。
不思議そうな眼差しがじっと注がれるのを感じる。思いと矛盾したその答えに、リヨンは奇妙にも満足を覚えていた。
戸惑う表情を浮かべるのは彼女の番だった。ぎこちなく顔をそらせると、枝向こうに広がる、高原の朝の風景に眼差しを投じる。
リヨンも彼女の視線をおって、枯れ草色のなだらかな丘が続く光景に眺め入った。
しばしの沈黙をほぐそうと、口を開いたのはリヨンの方だった。
「その髪、自分で切ったのか」
その質問に、少女がうなずくのを見た。石を背もたれに寄りかかると、もう一言尋ねる。
「どうして」
しばらく間をおいて、返事が返ってきた。
「森にいくのにじゃまだから」
そういえばあの日にも、少女は森の方から姿を現したのだった。あの木々の奥で、彼女は何をしていたのだろう。
「森って、ひとりで行くのか」
「そう」
「ひとりで行って何するんだ」
「いろいろ」
そう言ったきりで、彼女はその先を教えてくれようとしなかった。居心地が悪そうに、放り出した足をぶらぶらさせている。
「森が好きなのか」
尋ねると、少女は顔をあげた。まっすぐ前を見ながらうなずいてから、彼女は微笑む。その笑顔はリヨンの心を明るくさせた。
それから少女は、森と彼女の間にあるたくさんの秘密を話し始めた。
それらは、あのうっそうとした暗い中にもぐり込み、草木と親しくならないと見せてもらえないものだという。
茂みに咲く溝ほおづきの明るい黄色、白い花びらを重たげにもたげる肝木。木々の間に立ち入ると、彼らはその美しい一瞬をそっと見せてくれる。
草の群がりをくぐった奥に、誰も知らない秘密の場所があること。春に野苺がとれる場所。桑の実がなる大きな木。背が高く枝がしっかりしている木は登りやすくて、そこから見渡す風景の特別なこと。
初めて秘密を打ち明ける相手を得たためか、少女は思いつく限りの神秘を話した。
彼女の行き来するもうひとつの世界に、リヨンはすっかり引き込まれていた。
まだ光のおぼろげな早い朝、露がぬらす草に身を潜めて聞く、野花のささやき。あの森へ行けば、自分にも草木の声を耳にすることができるのだろうか——
ネフェリオはその朝、娘の姿がすでに寝室からないことを聞かされて、その行方を探しに庭に出た。そこで、石材に腰掛ける娘と、その隣で背を持たせるようにして立っているリヨン少年の姿を見つけたのだった。
しばらく二人の様子を遠目から見ていたが、その穏やかさに声をかけるのをやめて、彼は裏庭から背を向けた。