表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

001:動き出す、時計の針

「目が覚めるから、夢だと気付く。目覚めなければ、それは現実と同じことだから。」


001:動きだす、時計の針


「…本当の自分は、女なんです。」

そんな内容のメールを、担任の戸田綾子(とだあやこ)先生に送ったのは、昨日の午後のことだ。

まだ学校が始まって間もない5月5日。

やっと学校生活もリズムを取り戻し、一息ついていた頃であろう先生には、迷惑な話だったかな、と今となっては少し思った。

それでも自分は、打ち明けて良かったと感じている。

どんな返信がくるのだろうか、そもそも返してもらえるだろうか、いや、届いているのかさえわからず、ドキドキしていた、昨日の夜。

その永い闇の先には、予想だにしなかった言葉があった。


----


「これで、終学活を終わります。起立。」

週番の合図で、一斉に席をひきずる音が響く。

きちんと椅子の後ろに立っている人もいれば、ただ立っただけで、すぐに座れる状態の人もいる。

自分は、前者だ。

「さようなら。」

「「さようなら。」」


再び椅子を引いて席に着いた自分は、急に騒がしくなる教室の中で、一人、窓の外に咲く散りかけた桜の木を見つめていた。

何度考えたことだろう。

この次の春が来るまでに、本当の自分になれるようにしよう、と。


僕…いや、私の名前は、西野楓(にしのかえで)。

来年は受験の中学三年生。

生物学的には男だけど、自分では違うと思って生きてきた。

よくいう、性同一性障害というものかもしれない。

つい最近まで、そのことは自分の心の中にしまって…いや、隠していた。

だって、黙ってさえいれば、周りの大勢の人々に、迷惑をかけなくてすむから…。

だから、今でもほとんどの人にはこのことを打ち明けていない。


それでも、この春休みの間に、何人かの信頼できる友達に、そのことを打ち明けた。

彼女たちは、私のことを信じて、理解しようとしてくれた。

高校受験を目の前にして、もはや「今の自分が本当の自分ではない」という事実に疲れ切っていた私は、少しでも信頼できる人を増やそうと、担任の戸田先生に、昨日メールでそのことを打ち明けたのだった。


----


トントン。

「失礼します。戸田先生は…ああ、先生。」

この学校には、各学年ごとに職員室がある。通称学年室だ。

ここだけではないけれど、もはや老朽化している引き戸をノックして開けると、そこには戸田先生しかいなかった。

「あっ、西野…くん。英語科準備室に行こうか。」

そう言うと先生は椅子から立ち上がって、こちらに歩いてきた。

自分は数歩下がって廊下に出ると、先生も出てきて、引き戸を閉めた。

廊下は、下校時刻の近づいた生徒たちで溢れていた。

少し周囲の目を気にしながらも、先を歩く先生のあとについて、英語科準備室へ向かった。


戸田先生は、自分が一年生の頃も担任をしていた。

先生としてのキャリアも長く、誰もが信頼するとても素晴らしい先生だ。

二年生の頃は、人事交流で他の学校に行っていたけれど、三年生になってまた先生のクラスになった。

だからなのかな…言う前から気付かれていたのは。


英語科準備室のドア、そういえばここは普通のドアだ、をくぐると、先生に勧められるままに椅子に座った。

「まずは、メールをしてくれてありがとう、楓さん。」

突然、さっきまでは西野くんだったのに楓さんと言われると、なんだか恥ずかしい。

なんでそんなあからさまに変えるのだろう。別に私は西野君だし。

そう、脳内でつぶやく自分。

「そんな…先生の方こそ、気付いていたなんて、びっくりしました。」

昨日のメールの返信に、先生はこう書いていた。

「…実は私は薄々気づいていました。おととし担任した時から。」

それを読んだ時、私は本当にびっくりした。

まさか、気づかれているなんて。

本当に気づいていたのだろうか…。少しだけ疑ってしまう私。

「まあ…それより、いくつか聞いておきたいことがあるんだけど。」

「はい…。」


そのあと先生は、名前を呼ぶ時にどう呼んでほしいか?とか、学校生活の中で何か嫌なことはないか?とか、制服はこのままでいいのか?と聞かれた。

私はすべて、別に今までと同じで良いです、と言った。

「今までこうしてこれたんだから、大丈夫です。」

そう言った時、心の中で私は後悔した。

本当はそんなこと思っていない。

変えられるなら、変えて欲しい。

制服だって。何もかも。

…でも、もう目前に迫った高校受験のことを考えると、我慢せざるを得ないと私は思った。

もし、今周囲の人々が知ったら、どう思うか。

受験先の学校はどう思うのだろうか。

そう考え出したら、切りがない。

だから私は、我慢すると決めた。


いつもとは少し違う日を過ごして疲れた私は、家に帰るとあっという間に眠りについた。

高校生になれば。その時は…。その時までは…。

そう決めたはずだったのに。

神様は私の心なんて無視した。


----


「ピピッ、ピピッ、ピピッ…」

そういえば、今日は夢を見なかったなぁ。

それに、何だか体も軽いし。


「ピッ。」

…そう考えつつアラームを止めた私の思考回路が、手の中にある携帯電話と自分の手そのもの、そして周囲を取り巻く何もかもが、「しっくりくる違和感」に包まれていることに気がつくまで、そう長い時間はかからなかった。

「えっ?」

思わず発したその声の音色が、私が「私」になったことを教えてくれていた。


----


丁度同じ頃、「西野君」はすでに目が覚めて、顔を洗いに行こうと洗面所へと歩いて行った。

とりあえず、まだ眠い目を冷水でこじ開け、タオルで顔を拭うと、視界と共に思考もはっきりしてきた。

目の前の鏡を見て、「彼」は一瞬動きを止めた。

何だろう、この違和感…。

…!

「えっ?なんで…西野君?」

振り返り背後を見ても、そこには誰もいない。

もう一度鏡を見ても、そこには私じゃない、西野くんしかいなかった。


----


「…神田さん、だ。」

鏡を覗き込む自分。

この顔には見覚えがある。間違いない。神田さんだ。

神田さんとは同じ小学校だったし、クラスが一緒になったこともあった。

でも…それでも信じられない。

「…夢、だよね。」

そう思いながら、若干忍び足で部屋をまわる。

さっきこの洗面所まで歩いてくる途中、もう一つのドアがトイレであることはすでにわかった。

そして、ベッドが置いてある、少し広い空間。

短い廊下のような空間の反対側には、玄関のドアが見える。

他に人がいる気配もない。

ふと、ベッドの横に置かれた勉強机の上にある写真立てを見て、自分はある話を思い出した。

その写真には、幼稚園の頃であろう、小さな身体に制服姿の神田さんを挟んで、神田さんの両親と思われる人が笑顔で写っていた。

そう、幼稚園の卒園式があったその日、神田さんのお母さんは、交通事故で亡くなったそうだ。

だから、これが家族全員で写った最後の写真、なのだろう。

なぜだか心が苦しい。

自分も小学四年で父親を亡くしてからは、同じ境遇だからなのか、神田さんとはそれなりに仲が良かった記憶がある。


…だとしても、神田さんのお父さんは、一体どこにいるのだろう。まだ生きているはずなのに。

そんなこと、考えてもわからないけれど、少なくとも今同じ空間に知らない人がいないというのは、安心できることだった。

…そういえば自分の家も、母親は今入院しているから、良かった…いや、そもそも、本当に入れ替わったのだろうか。

そんな、小説のような出来事、あるのだろうか。


とりあえず、自分の家に電話をかけてみよう。

そう思い、近くにあった固定電話に手を伸ばして、受話器をとった。

指がプッシュボタンに触れる…あれ?

思い出せない。

電話番号を、覚えていたはずなのに。

しばらく悩んだのちに、受話器を降ろす。

…そうか、緊急電話連絡網の紙を見れば…。

そう思い、神田さんの机にあったファイルを取り出して、ページをめくった。


----


なぜもっと早く気づかなかったのだろう…。

私は西野くんの部屋に戻って思った。

下が机になっている二段ベッドのようなものが、部屋の大部分を占拠している。

奥に入り、少し低めの木製の椅子に座ると、机の上にはコンピューターが置いてあった。

残念だけど、私はこういうの苦手なんだ。

そう思いつつ、周囲を見回すと、壁際には天井まで届く本棚。

様々な本が所狭しと並んでいた。

小説も多いけれど、なんだかよくわからない数学とかの本もあるみたいだ。私は絶対に読まないなぁ。

それに…はぁ。

思い出したくもない。

私は机に突っ伏した。

洗面所に行く前、普通に何も考えずにトイレに行った。

あの時は何も思わなかったけれど…今考えたら…。


「ルルルルル、ルルルルル、ルルルルル…」

突然、電話の音が鳴り響く。そういえば電話の音は私の家のと同じだ。

電話の音を頼りに、部屋を出ると、ダイニングの机の上に固定電話の子機を見つけた。

ガチャ。

「はい、神田です。あっ…」

間違えた…そう思ったけれど、電話の向こうからは、今までだったらあり得ないはずの声が聞こえてきた。

「もしもし?神田さん?僕…西野です…」

私の声だ。

「に…西野君?一体どうなってるの。」

「どうなってるって…多分…」

「多分?」

「入れ替わったんだと思う。ごめん…。」

入れ替わった。

そんなバカな、と思ったけれど、でも、そうとしか思えない。

一体…これからどうすればいいのだろう…。

「神田さん、聞こえる?神田さん?」

私の声が聞こえる。でも私はこっちなのに…。

近くにあった椅子に崩れるように座ると、私は少し意識が離れてゆくのを感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ