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第1章 第1話 戦場を買う女


プロローグ 助けを呼ぶ声


 最初に聞こえたのは、風の音だった。


 ロサンゼルス外縁部の夜は、黒ではなく灰色に沈んでいた。崩れた高架道路が空を斜めに切り、折れた標識が片側だけでぶら下がり、誰も走っていない車道の上で『ギ……』と小さく揺れている。道路の中央には横転した救急車があり、後部ドアは開いたまま、内側の白い壁に乾いた黒い手形がいくつも残っていた。


 電気は死んでいるはずだった。


 それでも、完全には死んでいなかった。


 高架下の非常灯が、赤く点いて、消え、また点いた。消えるたびに、柱の奥の影が一段深くなり、点くたびに、壊れた車の窓ガラスが血の色を返した。遠くでは信号機がまだ動いていて、赤、青、赤、青と不規則に光り、そのたびに濡れたような道路の染みが、短く浮かび上がった。


 救急車の中で、男が息を殺していた。


 名前はもう必要なものではなかった。胸のタグにはまだ文字が残っているが、血と埃で読み取れない。右足は座席の下に挟まれ、左肩には割れた金属片が刺さっている。持っているものは、ひび割れた無線機、空になりかけた拳銃、そして腰のポーチに残った小さなデータタグだけだった。


 男は無線機を握っていた。


 握るたびに、掌の血が割れたボタンの隙間へ入り、通信ランプが薄く点いた。画面には圏外を示す線が出ている。だが、線は完全には消えず、ときどき一本だけ立ち、すぐに落ちた。


 男は口を開いた。


「……誰か……」


 声は喉の奥で割れた。


 自分でも驚くほど小さい声だった。乾いた血が唇を引っ張り、息が肺の奥で引っかかる。声は救急車の中で弱く跳ね返り、割れた後部ドアから高架下へ出て、柱と車体と壊れた看板の間を通って、遅れて戻った。


『……誰か……』


 男は息を止めた。


 それは、自分の声がただ返ってきただけだったと、そう思おうとした。


 だが、返ってきた声は、最初に出した声より少し低く、少し遠かった。右側から出たはずなのに、左奥の放置車両の影から戻ってきたように聞こえた。


 男は無線機を耳に近づける。


『ザ……ザザ……』


 ノイズだけが鳴った。


 そのノイズの奥で、何かが擦れた。


『ザッ……』


 それは、小さい音だった。車外のどこかだが、近くではない。


 だが、遠くでもない。


 男は動かなかった。右足は動かせない。左手は震えている。喉の奥で咳が出そうになり、口を押さえる。咳をしたら何かに見つかる気がした。理由は分からない。ただ、高架下の空気が、声を出したあとから重くなっていた。


『ザッ……ザッ……』


 今度は二回。


 救急車の右前15m、焼けた乗用車の下から、地面を擦るような音がした。足音ではない。人間の靴ではない。低い位置を何かが移動している。男の目が右へ動き、呼吸が少しだけ乱れた。


(何かいる)


 そう思った瞬間、非常灯が消えた。


 高架下が黒く沈む。


 男は無線機を握りしめ、音を立てないように息を止めた。数秒。いや、呼吸一回分より長い沈黙。遠くの信号機だけが赤く点き、救急車の割れた窓に小さく反射した。


 その赤い反射の中で、右前の車体の下に何かが見えた。


 低く黒い、影と同じ色をしている。


 だが、影ではない。


 男が目を凝らす前に、非常灯が戻った。


 赤い光が高架下を薄く照らし、車体の下の黒いものは、そこにいないように沈んだ。見間違いだと思いたかった。思いたかったが、音は続いていた。


『ガリ……』


 金属を引っかく音。


 細い爪が、道路に落ちた車体の破片を擦る音。


 男の喉が勝手に鳴った。


「……助けてくれ」


 小さく出したつもりだった。


 だが、声は高架下へ抜けた。


『……助けてくれ……』


『……けてくれ……』


『……くれ……』


 反響が増えた。


 右から出た声が、左奥から戻った。左奥から戻った声が、今度は後方の柱の上から落ちた。自分の声が、自分のいる場所を何度も指差しているようだった。


『ザッ……』


 右前15mの音が止まった。


 止まったことで、かえって近く感じた。


 男は無線機に口を近づけた。救助を呼ぶしかなかった。声を出すと近づく。だが声を出さなければ誰も来ない。無線機の向こうに人間がいるなら、声を出すしかない。


「こちら……外縁、ハイウェイ下……救急車内……負傷者一名……誰か……聞こえるなら……」


 返事はなかった。


 代わりに、ノイズが一度だけ伸びた。


『ザザ……ザ……』


 そのノイズが切れる直前、別の音が混じった。


『……位置……』


 男は目を見開いた。


 人の声ではない。


 無線の奥で何かが拾った音だった。


 同時に、遠く離れた場所で、グラスが置かれた。


 Gold Contractの奥席は、暗い金色の光に沈んでいた。防弾カウンターの上にはウイスキーグラスと、開いた契約端末と、束ねられた札束が置かれている。壁には整然と武器が並び、天井の監視カメラは一つも死角を作らず、出入口の上ではティナが仕込んだ警告灯が小さく点いていた。


 カウンターの内側で、キャサリン・パークがグラスの縁を布で拭いていた。白いドレスの袖口は汚れていない。淡いピンクの髪が肩に落ち、碧い目はスピーカーから流れる男の声ではなく、サラの前に置かれた契約端末の金額欄を見ていた。


『こちら……外縁、ハイウェイ下……救急車内……負傷者一名……誰か……聞こえるなら……』


 キャサリンは微笑んだまま、グラスを棚へ戻した。


「助けてほしい人の声って、だいたい同じですね。けれど、持っているものは同じじゃない」


 その言葉のあと、スピーカーのノイズが一段低くなり、男の荒い呼吸だけが店内に残った。


 サラ・クレイトスは、革張りの椅子に座っていた。


 銀髪の長い髪が肩の後ろへ落ち、グレーのミニスカートスーツが金色の光を鈍く返す。右手にはスマートフォン。左手はグラスの縁に軽く触れている。スーツの内側には小型の高級護身拳銃が収まっているが、今の距離では必要ない。ここでは、誰もサラに近づきすぎない。近づく前に、契約か監視か、どちらかに止められる。


 カウンター横のスピーカーから、男の声が流れていた。


『こちら……外縁、ハイウェイ下……救急車内……負傷者一名……誰か……聞こえるなら……』


 サラはグラスを持ち上げず、スマホの画面だけを見た。


「位置は?」


 ティナがカウンター裏で端末を叩いた。銀髪ショートボブ、黒スーツ、眠そうな細い目。彼女の指が滑るたびに、古い監視カメラ、非常灯、信号機、救急車の無線機が、死にかけた回線の中で細く繋がっていく。


「拾えた。外縁ハイウェイ下、南ブロックの救急車。本人の声と反響で位置がずれてるけど、本体は車内。右前15mに一つ、左奥23mに一つ。まだ見えないけど、音は動いてる」


 サラは無線の波形を見た。男の声は細く震えていた。呼吸は浅い。咳が混じる。パニックを抑えようとしているが、声量が少しずつ上がっている。恐怖が増えるほど、波形は乱れ、反響は増え、位置の線が太くなる。


「持ち物は?」


「救急車のタグ、輸送ルートのデータ、小型拳銃、医療キットは空。血液反応あり。汚染はまだ不明」


「救助依頼じゃないね」


 サラの声は平らだった。


 スピーカーの向こうで、男が咳をした。


『ゴホッ……ゴホ……誰か……聞こえてるなら……頼む……』


 咳が反響した。


『……頼む……』


『……む……』


 ティナの端末で赤い点が一つ増えた。


「声、上がった。右前の音が近づいてる。距離12m」


 サラはグラスを置いた。


「繋いで」


 ティナが笑う。


「話すの?」


「価値確認」


 スピーカーのノイズが一度だけ沈み、回線が繋がった。救急車の中で、男の無線機が短く震えた。男はその震えを感じた瞬間、顔を上げた。


『……聞こえる?』


 女の声だった。


 冷静で、遠い。


 男は無線機を両手で握った。


「聞こえる! 聞こえる! 助けてくれ! ハイウェイ下だ! 足が挟まって動けない! 何かいる! 車の下に、何か……!」


 叫んだ瞬間、右前の音が近づいた。


『ザッ……ザッ……』


 距離12mから10m。


 焼けた乗用車の影をなぞるように、低いものが移動している。男は声を出しながら、右の窓へ目を向けた。割れたガラスの向こうで、赤い非常灯が点き、消え、点き、そのたびに車体の下の黒い影が少しずつ位置を変えているのが分かった。


『声を落として』


 無線の女が言った。


 男は息を止めた。


「……助けてくれるのか?」


『それは、まだ決めてない』


 その言葉の直後、救急車の外で『ガリ……』と爪が鳴った。


 男の喉が固まった。助けてくれるのか、という問いに対して、普通ならすぐに「助ける」と返るはずだった。だが、返ってきたのは保留だった。迷いではない。値踏みだった。


『あなた、何を持ってる?』


「は……?」


『助ける理由になるもの』


 男は無線機を見た。


 何を言われているのか、一瞬分からなかった。だが、右前の音がさらに近づき、左奥23mの暗がりからも『ザッ……』と別の音が返った。考えている時間はなかった。


「データタグがある! 輸送ルートの……たぶん生きてる! 外縁から内側へ抜ける道の記録だ! それと、医療物資のリストも……だから助けてくれ!」


 Gold Contractで、サラはティナを見る。


 ティナが端末の画面を拡大した。


「データタグ、生体反応の近く。腰の右側。生きてるっぽい。ルート記録なら使えるかも」


 カウンターの奥、暗い射撃ブースに近い影で、カノン・オルサーメルがライフルを点検していた。モスグリーンのツナギ、保護ゴーグル、オレンジのツインテール。小柄な身体に不釣り合いな長い狙撃銃、AWMのボルトを静かに戻す。まだ撃たない。まだ現地にいない。だが、ティナが送る映像と音から、彼女はもう距離を測っていた。


「視界がない。今は撃てない」


 カノンが短く言う。


 サラは頷きもしない。


「ティナ、非常灯」


「はい、進めるよ」


 ティナの指が端末を叩いた。


 高架下で、非常灯が一度消えた。


 男は闇の中で息を止めた。次の瞬間、右側の非常灯だけが点き、救急車の外の焼けた車体を斜めに照らした。赤い光が道路に伸び、その光の端で、黒いものの脚が見えた。


 低い。


 細い。


 金属の関節。


 犬の脚ではない。


 男の目がそれを捉えた瞬間、声が漏れた。


「犬じゃない……」


『見えた?』


 無線の女が聞く。


 男は震えながら答えた。


「車の下……右前……10mくらい……いや、もっと近い……」


『声を出すと近づく』


 言われる前から、男は分かり始めていた。


 自分が喋るたび、音が近づく。


 自分が咳をするたび、非常灯の外で赤い光が揺れる。


 自分の声が返るたび、別方向から別の音が増える。


 だが、黙ることはできなかった。黙れば、助けを失う。声を出せば、何かが寄ってくる。どちらも詰んでいるのに、声だけがまだ人間でいる証拠みたいに喉から出ようとした。


「どうすればいい……」


『腰のタグを外して、車外へ投げて』


「俺はどうなる?」


 サラは少しだけ沈黙した。


 その沈黙の間に、高架下で音が進んだ。


『ザッ……ザッ……』


 右前10mから8m。


『ガリ……』


 左奥23mから18m。


 壊れた救急車の下で、何かが車体に触れた。『ギィ……』と金属が押され、男の座席がわずかに揺れた。右足に挟まった鉄が肉へ食い込み、男は声を殺そうとして、喉の奥で咳を潰した。


『あなたが助かるかどうかは、タグの中身次第』


 女の声は変わらなかった。


 怒っていない。


 焦っていない。


 同情もない。


 ただ、取引の条件だけを置いた。


 男は腰のポーチへ手を伸ばした。左肩に刺さった金属片が動き、熱い痛みが走る。右足は動かない。手は血で滑る。無線機を膝の上へ置き、片手でポーチの留め具を外そうとした瞬間、外で『ザリ……』と何かが救急車の側面を擦った。


 距離5m。


 いや、車体のすぐ横。


 男は息を止め、視線だけを窓へ向けた。


 割れたガラスの外に、赤いセンサーが一つ映った。


 その光は、男の呼吸に合わせて揺れているように見えた。


 息を吐けば近づき、息を止めれば止まる。


 そう錯覚した。


 だが実際には、止まっていなかった。黒い四足は救急車の右側から低く回り込み、男の声が漏れる後部ドアへ向かっていた。左奥のもう一つは、高架柱の影を使い、逃げられるはずの開いたドア側へ回っていた。見えているのは一つ。聞こえる音は二つ。反響は三方向から返っている。


「……囲まれてる」


 男が呟いた。


 その呟きも、反響で返った。


『……囲まれてる……』


『……れてる……』


 返ってきた声に、黒い四足の頭部が動いた。


 理解した瞬間、男の恐怖が声になった。


「来るな! 来るな! 来るなぁ!」


 声が高架下へ抜けた。


 同時に、包囲が狭まった。


 右側の黒い影が後部ドアへ滑る。左奥の音が救急車の反対側へ回る。車体の下から別の『ザッ……』が返る。男の叫びは助けを呼ぶためではなく、すべての位置を照らす信号になっていた。


 Gold Contractで、ティナの端末に赤い点が三つ並んだ。


「三。右後方2m、左後方4m、車体下1m未満。もう触れる」


 カノンがAWMを肩へかけたまま、映像を見た。


「射線なし。車体が邪魔」


 サラはスマホの画面に指を置いた。


「タグは?」


 ティナが答える。


「まだ腰。投げてない」


 高架下で、男は必死にポーチを開けた。血で滑る指がタグを掴む。小さな金属片。データタグ。助かる理由になるはずのもの。男はそれを握り、後部ドアの隙間へ向けて投げようとした。


 その時、右側の黒い四足が後部ドアの端に前脚をかけ、爪が金属へ触れた。


『ギィ……』


 車体が沈む。


 男は初めて、それをはっきり見た。


 黒い装甲の四足。低い頭部。赤いセンサー。喉を狙う高さ。生き物の形をしているが、生き物ではない。恐怖に反応して、逃げ道を塞ぎ、声の震えで距離を測っているもの。


 HOUNDハウンドだと判断できる。


 理解した瞬間、男の身体は動いた。


 投げたのはタグではなかった。


 無線機だった。


 血で滑った手から無線機が外れ、後部ドアの外へ落ちた。無線機は道路を跳ね、『ガッ』と音を立てて非常灯の下へ転がった。スピーカーが割れ、男のさっきの声だけを拾って吐き出した。


『助けてくれ……助けてくれ……』


 声が、男の身体から離れた。


 HOUNDの頭部が、無線機へ向いた。


 その一瞬だけ、後部ドアが空いた。


 男はタグを握ったまま、息を呑んだ。


 今なら助かると、そう思った。


 Gold Contractで、ティナが短く笑った。


「声、外に出た。右の一体、釣れたよ」


 サラはグラスへ触れたまま言った。


「タグだけ回収」


「本人は?」


 ティナが聞くと、サラはスマホから目を上げなかった。


「声を出しすぎた。もう商品価値より回収コストが高い」


 その言葉が、回線を通って男の無線機から漏れた。


 男は聞いた。


 自分が助けられるのではなく、自分が持っているものだけが助けられるのだと、ようやく分かった。


「待て……待ってくれ……!」


 叫んだ瞬間、HOUND二体が同時に男へ向いた。


 声が戻り、位置が戻った。そして、逃げ道が消えた。


 サラの親指がスマホの画面に触れた。


 高架下の音が遠くなった。


 非常灯の点滅も、HOUNDの爪が車体を擦る音も、男の呼吸も、割れた無線機のノイズも、薄い膜の向こう側へ押し込まれたように遠ざかる。時間が止まったわけではない。ただ、その場所にあるものの終わり方が一つに固まった。


「そこ。範囲内」


 サラの声が、静かに落ちた。


 次の瞬間、雲の上から白い光が降りた。


 光は太い柱ではなかった。高架の裂け目を通り、救急車の後部と、その周囲2mだけを白く塗りつぶした。炎は出ない。爆発もしない。黒い四足の輪郭が一瞬だけ白く浮かび、救急車の後部ドアも、赤い非常灯も、男の喉から出かけていた声も、境目を失った。


 形が遅れてほどける。


 HOUNDの装甲は砕ける前に薄くなり、赤いセンサーは点いたまま灰へ沈む。救急車の金属は燃えず、折れず、ただ存在の厚みだけを失うように消えた。男の握っていたタグは、光の端から少し外れた道路へ弾かれ、血のついたまま転がった。


『――――』


 音は遅れて来た。


 高架全体が、あとから震えた。ぶら下がっていた標識が揺れ、割れた窓ガラスが細かく鳴り、遠くの信号機が赤と青を同時に点けた。救急車の後部は浅く抉れ、白く焼けた縁から冷えた煙が立ち上る。そこに男の形は残っていなかった。HOUNDの残骸もない。ただ、灰と、焦げた空気と、道路に転がった小さなデータタグだけが残った。


 Gold Contractのスピーカーに、しばらくノイズだけが流れた。


『ザ……ザザ……』


 ティナが端末を閉じる。


「タグは残った。位置も取れた。回収班に投げる?」


 カノンはAWMのボルトを静かに戻した。


「撃つ必要なし。終わり」


 サラはグラスを持ち上げると、氷がひとつ、透明な音を立てた。


「デイビッドに回して。血液反応があるならミントにも見せて。チェスターに送るかは、中身を見てから」


 スピーカーのノイズが一度だけ大きくなった。


 誰も触れていないはずの無線機が、焼けた道路の上で最後に声を吐いた。


『たす……け……』


 声はもう、誰の喉からも出ていなかった。


 高架下には風が戻り、灰が白い縁から道路へ流れた。遠くの信号機はまだ点滅している。赤。青。赤。青。どちらの色も、誰かを安全な場所へ導くためにはもう使われていなかった。


 助けを呼ぶ声が、死ぬ場所を教えていた。


────────────


 ロサンゼルス外縁部の空は、灰色に濁っていた。


 崩れた高層ビルの影が、折れた肋骨のように道路へ伸びている。焼け落ちたスーパーマーケットの看板は半分だけ残り、黒く焦げた壁の奥で、割れた冷蔵ケースが白い骨の列みたいに並んでいた。信号機は誰も渡らない交差点に向かって赤と青を不規則に点滅させ、そのたびに、車道の亀裂へ沈んだ黒い染みが短く光った。


 道路には放置車両が何台も重なっている。窓ガラスは割れ、タイヤは溶け、ボンネットには乾いた血のような跡がこびりついていた。風が吹くたびに、焼けた紙片が路面を滑り、どこかで外れかけた看板が『ギ……』と鳴った。その音はすぐに消えず、ビルの谷間を通って戻り、誰かが低く息を吐いたように聞こえた。


 通信はほとんど死に、電力も安定していなかった。


 それでも、空だけは完全には死んでいなかった。


 雲の切れ間のさらに上で、監視衛星の光が一瞬だけ瞬き、灰色の空へ薄く沈んだ。


 その下を、黒い大型車両がゆっくり進んでいた。


 装甲板を何枚も重ねた車体は、崩壊した街の影よりも濃い黒をしていた。側面には閉じたドローンラックがあり、小型ミサイルポッドの縁には古い砂が溜まっている。後部には修理用アームと弾薬格納庫が組み込まれ、黒い多層防弾ガラスは外から中を見せない。車両は放置された乗用車の間を避けるのではなく、どこを通れば戦場として使えるかを確認するように、速度を落として交差点へ入ってきた。


 CONTRACTORコントラクター、それは戦場を運ぶ車。


 焼けたバス停の横で車体が止まると、後部ハッチが重く開いた。最初に降りたのは、銀髪の女だった。


 サラ・クレイトスは、焦げた油と錆びた鉄と乾いた血の匂いが混ざった空気を吸っても、表情を変えなかった。長い銀髪が背中へ落ち、白い肌と碧眼が、煤けた街の色から切り離されたように浮いている。グレーのミニスカートスーツは戦場には不自然なほど整っていて、右手には拳銃ではなくスマートフォンがあった。


 ただ、彼女が完全に無防備に見えることはなかった。


 スーツの内側、左脇のあたりに、布の流れをわずかに変える硬い影がある。小型の高級護身拳銃。Walther PPKかSIG Sauer P232に近い、戦うためではなく距離を間違えさせないための道具。サラはそれに触れない。抜く必要がない位置に、自分を置いている。


 サラは交差点の手前、焼けた乗用車の左側2mで足を止めた。右前32mにはスーパーマーケット跡の搬入口があり、左奥45mには崩れたビルの隙間がある。中央には横転した配送トラックがあり、荷台の扉は開いたまま、弾薬箱が三つ道路へ転がっていた。ひとつは黒く焼け、ふたつはまだ形を残している。


 サラはスマホの画面に映る古い地図と、実際の道路の裂け目を重ねた。


 半歩後ろで、銀髪ショートボブの少女が端末を開いた。黒スーツの袖口から伸びた細いケーブルが、信号制御盤の焼けた端子に触れる。次の瞬間、交差点の信号機が一度だけ全て赤に変わり、すぐに青を混ぜて不規則に戻った。


「入ったよ。古い街だけど、まだ動くところあるね」


 ティナ・クレイトスの声は軽かった。だが、その言葉のあとに、右前のスーパーマーケット跡で非常用シャッターが『ギ……ギギ……』と震え、左奥の監視カメラが錆びた首を小さく振った。死んだはずの街が、ほんの少しだけサラの側へ傾いた。


 CONTRACTORの影に近い後方では、カノン・オルサーメルが道路へ片膝をついていた。モスグリーンのツナギ、保護ゴーグル、オレンジのツインテール。小柄な身体に不釣り合いな長い狙撃銃、AWMを組み、銃口をまだ下げたまま、右前の暗がりを見ている。撃つために構えているのではない。撃てる条件が揃うまで、撃たないために構えている。


 サラのスマホには、依頼内容が表示されていた。


 外縁部で消えた輸送隊の確認。


 回収可能な武器と情報端末の確保。


 生存者がいれば追加査定。


 救助という言葉は、どこにもない。


「輸送車両は三台。ここに残っているのは二台分。もう一台は奥」


 サラが言うと、ティナの端末に古い監視映像が乱れながら流れた。画面には数時間前の交差点が映っている。輸送トラックが右折しようとしたところで映像が白く乱れ、次に戻った時には車体が斜めに止まっていた。人影が二つ、右へ逃げる。もうひとつは荷台の下へ潜る。その直後、画面の端を黒い影が低く滑った。


 それは、犬ではなく、犬の形をした兵器だった。


 黒い四足。低い頭部。腹を道路に擦るほど沈んだ姿勢。背中の関節は動物とは違う角度で折れ、爪だけがアスファルトを薄く削っている。頭部の左右に赤いセンサー光が埋まり、音の方向へ首を向ける動作だけが、妙に生き物じみていた。


 HOUNDハウンド


 カノンが静かに息を止めた。


「映像では一体。でも痕は三つある」


 サラは右前の搬入口、中央の配送トラック、左奥のビルの隙間を順番に見た。視界はまだ開けている。遮蔽物は多いが、敵の数は多くない。逃走路は右側の搬入口、左奥の駐車場通路、中央の車列の間。人間なら迷う。HOUNDなら、音を聞いて先回りする。


「ティナ、使えるものは」


「信号、監視カメラ二つ、非常シャッター三枚、スピーカー一つ。電力は不安定だけど、閉じるだけなら足りる」


 ティナが言い終えると、焼けたスーパーマーケット跡の奥で、何かが擦れた。


『ザッ……』


 それは、小さい音だった。


 だが音が鳴った瞬間、交差点の空気が変わった。風は吹いていないのに、道路脇の黒いビニール片だけがゆっくり揺れ、割れたショーウィンドウに残ったガラスが細かく震えた。カノンの銃口が右へ少し上がる。ティナの指が端末の上で止まる。サラだけが足の位置を変えなかった。


(右前。床じゃない。棚の下。爪がタイルを擦った音)


 まだ、撃たない。


『ザッ……ザッ……』


 今度は二回続いた。右前32mの搬入口の奥、倒れた棚の下から、地面を擦る音が近づいている。音の間隔は一定ではない。歩いているのではなく、止まり、聞き、少しだけ動いている。


 ティナが波形を見る。


「動いてるね。こっちじゃない。奥の何かに寄ってる」


 その言葉の直後、暗がりから人間の声が漏れた。


「……けて……」


 最初は、割れた冷蔵ケースの奥で風が鳴ったように聞こえた。だが、次の声ははっきりしていた。


「助けてくれ……誰か……」


 それは、男の声だった。


 右前35m。スーパーマーケット跡の搬入口内側。声の高さは乱れ、息は浅く、言葉の終わりに湿った咳が混じっている。喉は潰れていないが、肺の奥に何かが絡んでいる音がした。声は天井に当たり、割れたスピーカーの中で細く揺れ、遅れて左右へ散った。


『……けてくれ……』


『……誰か……』


 反響が戻った瞬間、右前の擦過音が止まった。


 サラは男の声ではなく、音が止まった位置を見た。


(声に反応した。音量だけじゃない。震えを拾っている)


 サラはスマホを傾け、ティナの端末に映る反射図を確認した。男の声は搬入口の奥から出て、崩れた天井にぶつかり、左奥の駐車場通路へ弱く流れている。反響が増えれば、HOUNDは本人の位置だけでなく、逃げる方向まで読む。


「声を出した時点で、もう位置は売れたね」


 サラの声が落ちると、搬入口の奥で『ガリ……』と金属を引っかく音が鳴った。今度ははっきりしていた。爪だった。タイルでも床でもなく、倒れた棚の脚を細い爪が擦った音。男の呼吸が、その音に合わせて乱れる。


「いる……いるんだよ……犬みたいなやつが……撃ってくれ……!」


 男が叫ぶと、声が大きくなり、スピーカーから遅れて戻った。


『撃ってくれ……』


『……くれ……』


『……れ……』


 反響が増えた。


 右前のHOUNDが一歩動いた。


 暗がりの中で赤いセンサーが点き、棚の下の低い位置で左右に揺れる。頭部は上がらない。人間の胸ではなく、喉の高さへ向かう角度のまま、黒い機体が床を薄く削っていた。


 男の声は救いを呼ぶためのものだったが、ここでは違い、声は位置になり、その位置は値段になった。


 値段は、サラのスマホの中で切り分けられていく。


「助けるかどうかは、まだ決めてない」


 サラがそう言った直後、男が棚の影から半身を出した。汚れた防弾ベスト。裂けた左袖。太腿の止血帯。右手には割れた情報端末。三十代後半の輸送隊員だと判断できる。左腕から血が流れ、手首の下に黒い粒のような汚れが付着している。咳のたびに肩が揺れ、肺の奥から湿った音が漏れた。


 サラは男の顔を見なかった。


 右手の端末を見た。


(端末は生きている。輸送ログ、襲撃時刻、HOUNDの動線。本人は出血と吸入反応。歩かせれば汚染を広げる。価値は端末が上)


「端末を床に置いて、左へ蹴って」


「そんなことしてる場合じゃないだろ! 助けろよ!」


 男の叫びが、搬入口から外へ飛び出した。


 その瞬間、中央の配送トラックの下で『ザリ……』と音が鳴った。


 男の目がそちらへ動く。


 サラもそれを見ていた。


 配送トラックの下、右前24m。黒い装甲の一部が、道路の影からほんの少しだけ浮いた。HOUNDはそこにいた。映像で荷台の下へ潜った人影を狙っていた個体ではない。別の個体。腹を地面につけ、タイヤの陰に体を沈め、男の声が大きくなるまで動かなかった。


「中央下に一」


 カノンが言った。


 その声は短かったが、そこで終わらなかった。銃口がわずかに沈み、照準がトラック下の隙間へ入る。道路と車体の間は40cmほど。普通の姿勢では撃ちにくい。だがHOUNDが出てくるなら、頭部が一瞬だけ完全に見える。


「カノン、中央の下。出てくる瞬間でいい」


「距離24。角度低い。出たら通る」


 男はそれを聞いて、助かると思った。銃があり、狙撃手がいて、敵の位置も分かっている。自分は端末を持っていて価値がある。だから助けられるはずだと、そういう顔になった。


 その安心が、声を少しだけ明るくした。


「よかった……助かる……助かるんだな……?」


 その声に、右前のHOUNDが反応した。


 恐怖で震えた声だけではない。安心して緩んだ声にも、まだ恐怖の残りが混じっていた。声帯が揺れ、息が乱れ、喉の奥で湿った咳が絡む。その音は、HOUNDにとって人間の位置を示すだけではなく、人間が次にどう動くかを示す情報だった。


『ザッ……ザッ……』


 右前のHOUNDは男へ直進しなかった。搬入口の内側で、倒れた棚の裏をなぞるように左へ回った。中央のHOUNDはまだトラック下から出ない。左奥45m、崩れたビルの隙間で、新しい音が鳴った。


『ガリ……』


 金属。


 細い爪。


 低い位置。


 左奥にもいる。


 男の視線が左へ動き、呼吸がまた乱れた。


「うそだろ……まだいるのか……」


 その声が小さく漏れた瞬間、左奥の赤いセンサーが一つ点いた。放置車両の奥、地面から50cmほどの低い位置で、光が左右に揺れる。黒い四足が車の影を使い、サラたちの正面ではなく、男の逃げ道の先へ回り込んでいると視認できる。


 ティナが端末を操作した。


「右の搬入口、閉じるよ」


 古いシャッターが『ガンッ』と落ちた。


 完全には閉まらなかった。下に30cmほど隙間が残った。人間は通れない。HOUNDなら通れる。男はそれを見て、理解する前に怒鳴った。


「閉めるな! 俺が出られないだろ!」


 声が高くなった。


『出られない……』


『……ないだろ……』


 割れたスピーカーが男の声を拾い、遅れて別の方向から返した。右から出た声が左奥から返り、左奥へ返った声に、HOUNDの頭部が反応した。反響は男を助けない。男の位置を増やし、恐怖の輪郭を広げるだけだった。


(反響が増えるほど、包囲が早くなる。ティナのシャッターで人間の道を消し、HOUNDの道だけ残した。あとは声が勝手に動かす)


 サラは動かない。


 男は動けない。


 HOUNDだけが、音の中で少しずつ位置を変えていた。


 右前の個体は棚の裏から搬入口の内側へ。中央の個体はトラック下から、ワゴン車の影へ出る寸前。左奥の個体は放置車両の後ろを通り、男が逃げようとする駐車場通路の手前へ向かっている。三体は一度に襲ってこない。近づき続けている。止まっているように見える時間の中で、逃げ道だけが細くなっている。


 男の安心が、違和感に変わった。


「なあ……なんで撃たない……? 見えてるんだろ……?」


 カノンは撃たなかった。


 照準は合っている。指も引き金にかかっている。だがHOUNDの頭部はまだ半分しか見えていない。今撃てば壊せるかもしれないが、壊れ方が不安定になる。奥の個体が動く。男が叫ぶ。端末が巻き込まれる。


「まだ」


 カノンの声は低かった。


 男には、その「まだ」の意味が分からなかった。


 サラにはそれが分かっていた。


 それは撃つのは助けるためではなく、結果をずらさないためだった。


『ザリ……ザリ……』


 中央のHOUNDが、トラック下から出た。


 右前24m。黒い四足は道路に腹を擦り、頭部を低く保ったまま、男の声の正面ではなく、声が逃げようとする方向へ進んだ。前脚の爪がアスファルトの砂を削り、赤いセンサーが男の喉の高さを測るように揺れる。


 男が息を呑んだ。


 その呼吸音に反応して、HOUNDの頭部がわずかに上がる。


「来るな……」


 小さな声だった。


 だがその声は、止まらなかった。


「来るな……来るな……来るな!」


 恐怖が段階を上げた。


 右前のHOUNDが棚の裏から出る。左奥のHOUNDが車列の影を離れる。中央のHOUNDがワゴン車の横を抜ける。三つの赤いセンサーが、別々の方向から男を見た。


 包囲が完成しかけていた。


 カノンが引き金を引いた。


『パシュッ』


 乾いた音が、交差点の空気を一度だけ切った。


 弾は中央のHOUNDの頭部左側、赤いセンサーの根元へ入った。外側の装甲は大きく砕けなかった。小さな穴が開いただけだった。だが次の瞬間、内部で制御が切れたように前脚が止まり、走る姿勢のまま機体が前へ転がった。顎が道路に触れ、『ガンッ』と硬い音が返り、遅れて関節の奥から灰色の粒子が漏れた。黒い四足はまだ一度だけ脚を動かそうとしたが、胴体の中で何かが潰れ、赤いセンサーが消えた。


 男はそれを見て、息を吐いた。


 助かったと思い、肩の力が抜け、目がカノンへ向き、口元が震えながら緩んだ。


「た、助かった……」


 その声が終わる前に、右前のHOUNDが動いた。


 安心の声は、恐怖が消えた声ではなかった。まだ震えている。まだ喉の奥に怯えが残っている。HOUNDはそれを拾った。搬入口のシャッター下、30cmの隙間から黒い頭部が出る。背中が金属に擦れ、『ギギギ……』と嫌な音を立てながら、機体は人間が通れない隙間を抜けた。


 男の顔から、安心が落ちた。


「え……」


 その短い声が、理解に変わる。


 HOUNDは男へまっすぐ来ない。左へ逃げようとする男の前へ先に入った。右はシャッターで閉じられ、左はHOUNDに塞がれ、後ろには倒れた棚、前には焼けたワゴン車。男が逃げる場所は、もう声を出す前から削られていた。


「なんで……なんでそっちに……」


 理解した瞬間、左奥のHOUNDが車列の影から完全に出た。


 距離は約18mまで縮まっている。黒い機体は低姿勢のまま、男の背後側へ回る。逃げる方向に反応している。声に反応している。恐怖に反応している。男がそれを分かった時、喉が勝手に開いた。


「来るな! 来るなぁ!」


 サラはその声を聞きながら、スマホに座標を入れた。


 ティナが横目で見る。


「落とす?」


「まだ。端末が近い」


 サラの視線は、男の右手から床へ落ちた情報端末に向いていた。端末は男の足元から1m手前。まだ搬入口内側にある。白い光を落とせば消える。カノンが撃てばHOUNDは止められるが、男が暴れれば端末を踏み潰す。ティナが動かすには、男に蹴らせる必要がある。


「端末を蹴って」


「今かよ!」


「今しかない」


 サラの声は、提案ではなかった。


 男は右前のHOUNDを見た。距離6m。左奥のHOUNDを見た。距離18m。中央のHOUNDは壊れている。カノンの銃口はまだ別の個体を追っている。助かるには、サラの言葉に従うしかないと、男は遅れて理解した。


 男は震える足で端末を蹴った。


 端末が床を滑り、搬入口から外へ出る。ワゴン車の下を通り、道路の亀裂に引っかかって止まりかける。ティナが信号機の電力を一瞬だけ落とすと、交差点の照明が暗くなり、右側の非常灯だけが点いた。その光に驚いたHOUNDの頭部がわずかに右を向き、端末を追う余裕が消えた。


 端末はサラのいる交差点側へ転がった。


 デイビッド・パークがCONTRACTORの影から出た。黒スーツ、褐色の肌、スキンヘッド、サングラス。彼は低く身をかがめ、ワゴン車の影を使いながら、端末へ向かって進む。距離12m。右手には回収用の厚い手袋。左手には小型火器を下げているが、撃つためではなく、回収を邪魔された時だけ使うためだった。


「姉御、拾うぞ」


「汚染面に触らないで」


「分かってる」


 デイビッドが端末を拾い上げた瞬間、男の顔にもう一度だけ安心が戻った。


 端末を渡し価値を出した。


 だから助かると、男はそう思った。


 その安心した男を、サラは見ていた。


 だが、サラが見ていたのは男の表情ではない。男の呼吸、咳、袖口の黒い粒、床に落ちた血の濁り方だった。血の中に細かな黒い点が混じっている。乾く前から粒が動いている。ナノマシーンの初期侵食。深くはないが、肺に入っている。咳の湿った音と一致する。


(本人は歩かせられない。回収可能時間は短い。チェスターに送るには汚染が早い。ミントなら選別はできる。でもこの場で助ける価値はない)


 男はサラの目が、自分ではなく血を見ていることに気づいた。


「おい……助けてくれるんだろ……?」


 男は搬入口の柱から離れ、サラの方へ一歩出ようとした。


 距離は31m。


 まだ遠い。


 だが、その一歩でサラの視線がわずかに変わった。スマホを持っていない左手が、ほんの少しだけスーツの内側へ近づく。拳銃は抜かない。抜く必要はない。だが、ティナがそれに気づき、端末から目を上げた。


「そこまで来ると、別料金だよ」


 ティナの軽い声が落ちた瞬間、男の足が止まった。サラの左手はまだホルスターに触れていない。それでも、距離を間違えれば何かが変わると、男の体が理解した。サラは戦わない。だが、近づけば安全になる女でもなかった。


 右前のHOUNDが『ザリ……』と床を擦る。


 左奥のHOUNDが車列の影からさらに近づく。


 男はサラへ進めず、HOUNDからも逃げられず、その場で喉を押さえた。


「助けてくれ……なあ……助けてくれよ……!」


 声がスピーカーへ拾われた。


『助けてくれよ……』


『……くれよ……』


『……よ……』


 反響が増えた。


 HOUND二体の頭部が、同時に反響へ向いた。本人の声と、壊れたスピーカーから返る声。位置が一瞬ずれたことで、右前の個体が半歩止まり、左奥の個体が車列の影からさらに出る。


 ティナが笑った。


「今なら、範囲小さくできる」


 サラの親指が画面に触れた。


 その瞬間、音が遠くなった。


 信号機の点滅も、HOUNDの爪が床を削る音も、男の呼吸も、スピーカーのノイズも、すべてが薄い膜の向こうへ押しやられたように感じられる。実際に世界が止まったわけではない。だが、サラの中で必要な情報が全て並び、位置と価値と損失が一つの結果へ固まった時、その場所にいるものは、自分たちの動きがもう間に合わないことだけを先に感じた。


 男は理解した。


 サラが助けるかどうか迷っていたのではない。何を残し、何を消すかを選んでいただけだった。


「待て……待ってくれ……!」


 その声が最後まで届く前に、白い光が落ちた。


 光は太い柱ではなかった。雲の上から細く落ち、搬入口の前だけを白く塗りつぶした。炎は出ない。爆発もしない。右前のHOUND、左奥から入ってきたHOUND、男の背中が触れていた柱の一部、床に広がった黒い血、その全部の輪郭が一瞬だけ白くなり、次に境目を失った。


 形が遅れてほどける。


 HOUNDの黒い装甲は砕ける前に薄くなり、赤いセンサー光は点いたまま灰へ沈む。男の防弾ベストは燃えず、裂けず、ただ布と金属と身体の区別が消えるように崩れた。床のタイルも、棚の脚も、声を出していた喉も、同じ白い光の中で輪郭を失い、そこにあったという事実だけを灰の粒に変えた。


『――――』


 音は遅れて来た。


 街全体が、あとから震えた。焼けた看板が揺れ、割れた冷蔵ケースが細かく鳴り、信号機の赤と青が一瞬だけ同時に点いた。搬入口の前には、HOUNDの残骸も、人間の形も残らず、浅く抉れた床と、白く焼けた縁と、細かい灰だけが、ゆっくり空気の中へ舞っていた。


 カノンはライフルを下ろした。


「二発。残りは消失。端末は無事」


 ティナは端末を閉じる。


「全開じゃないよ。店の外壁、まだ残ってる」


 サラは返事をせず、デイビッドが差し出した情報端末を受け取った。割れた画面の奥で、輸送ログがまだ生きている。襲撃時刻、積み荷、通過予定だったルート、HOUNDが最初に反応した音声記録。使える情報は残った。男の命より、端末の中身の方が長く残った。


 デイビッドは抉れた搬入口へ歩いた。足元で『ザリ』と灰が鳴る。彼は焼け残った金属片、HOUNDの装甲の端、弾薬箱の留め具、男の止血帯についていた小さな識別タグを順番に拾い、使えるものと使えないものを分けた。戦闘が終わったあとも、彼の手は止まらない。壊れたものの中から、売れるものだけが抜き取られていく。


「姉御、残ったパーツは少ねぇな。武器は拾える。人間側は……ミント案件だ」


 サラは端末のログを見たまま答えた。


「残ってるならミントに回して。汚染が深いなら、チェスターには送らない」


「了解だ、姉御」


 デイビッドは焼けた床の端に残った血の跡を見た。黒い粒が混じっている。まだ完全には灰になっていない。彼はそれを直接触らず、密閉ケースへ削り入れた。人間だったものは、助けられなかった命ではなく、確認され、選別され、次の誰かの判断へ送られる回収対象になっていた。


 サラは空を見上げた。


 監視衛星の光は、もう雲に隠れて見えない。


 だが、ある。


 見えない場所から、見える場所の終わり方を決めている。


 ティナが信号機の制御を戻すと、交差点はまた赤と青を不規則に点滅させた。焼けたスーパーマーケット跡には穴が空き、搬入口の白く抉れた縁から、冷えた煙が細く上がっている。風が吹き、灰が道路の黒い染みへ流れた。


 その時、壊れたスピーカーが最後に一度だけノイズを吐いた。


『ザ……ザザ……』


 誰も振り返らなかった。


 ノイズの奥で、さっきの声だけが遅れて戻った。


『たす……け……』


 声はもう、誰の喉からも出ていなかった。


 サラはスマホの画面を閉じ、CONTRACTORへ向かって歩き出した。銀髪が灰色の風に揺れ、彼女の靴音が、焦げた道路に短く落ちる。


「次に行くよ。ここはもう買い終わった」


 焼けた街の奥で、反響だけが薄く消えていく。


 助けを呼ぶ声が、死ぬ場所を教えていた。

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