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新説:出オチ主義

作者: 閖上 遥二
掲載日:2026/04/26

 

 朝起きたら肩幅が五メートルになっていた。

 眠っている間、何やら肩の辺りが痛いような気がしたものだが、あれはもしや成長痛だったのだろうか。

 何はともあれ、今日は取引先へ挨拶回りに出掛ける予定であった。何としても会社に行かなくてはならぬ。ダブルベッドの上でぼんやりしている場合ではない。

 動線の狭さに苦慮しながらも、横歩きでどうにか部屋の入口をくぐり抜けて廊下を進み、階段に差し掛かる。

 総武快速線で都心部へは四十五分。上京してきて、やっとの思いで郊外に建てた夢のマイホームであるが、こうしてみると狭い家であった。

 迫り来る老齢期のために取り付けられた手すりを掴み、一段一段降りていく。踊り場で一息つき、慎重に残りの段を降り切った。

 居間に辿り着くと、妻の静江が二口ガスコンロと格闘していた。とうもろこしの粒を鍋に入れ、続いてかまぼこ、鯖缶、最後に味噌を投入する。

 毎朝あり物で珍奇な味噌汁を作り上げるのが、静江の特技であった。

「おおい、静江」

「おはようございます、あなた。今日はいつもより、ゆっくりでいらっしゃるのね」

 振り向きもせず、今度は魚用の焼き器の具合を確かめながら静江が言った。

「それが、どうにも困ったことになった」

「靴下でしたら、昨夜ご自分で浴室前に用意していらっしゃいましたよ。お鞄でしたらソファーの上に」

 言われて見てみれば、確かに鞄がソファーの上に投げ出されてあった。そういえば昨晩は職場の花見大会で、酒をたらふく呑んで帰ったのだと思い出す。

「まあ、いかがなすったの。たったの一晩で、そんなに逞しくなられて」

 やっと振り向いた静江が、仰天して言った。

「私にも分からない。起きたらこうなっていたのだ。お前は隣で寝ていて、何か気がつかなかったのか」

「いいえ、あたくしが朝起きた時はいつも通りでいらっしゃましたよ」

 つまり、肩幅が増えたのはここ一時間程度の出来事であるらしかった。成長期にも程があるというものだ。

「それで、今日はどうなさるおつもりなの。病院へ行くのなら、保険証を出しておきませんと」

「いや、今日はまず会社に行く。重要な取引先への挨拶があるのだ。私が休むわけにはいかん」

「それは、どうしてもどなたかにお任せする訳にはいかないの」

「近頃の若者は礼儀がなっていない。目付役が同行しなくては、先方に失礼があるかもしれないだろう」

「まあ、そうかしら」

  静江は首を傾げた後、気を取り直して言った。

「では、今日は出社なさるのね。でしたらあなた、もう七時になりますから、太郎の餌やりを済ませてしまいませんと」

 こうする、と決めた静江の行動は早かった。もうこちらには目もくれず、朝飯の支度を手際よく進めていく。 急に置いていかれたような、些か寂しいような心持ちになりつつも、犬小屋の様子を見るべく玄関へと向かった。


 今年で五歳になる柴犬にとって、飼い主の肩幅の増幅は朝飯よりも重要なことではないようだった。

 玄関を出た直後こそ怪訝そうな様子を見せたものの、手に持った餌の袋を見るなり他のことは目に入らなくなったようで、すっくと立ち上がると目を輝かせて尻尾を勢いよく振るってみせた。

 世はなべてこともなし。

  いっそ晴れ晴れとした虚しさを抱えながらも太郎が一心不乱に朝食を貪る様を眺めていれば、ブロック塀越しに隣人から声が掛かる。

「やあ、これは新庄さん。おはようございます」

「おはようございます。……おや、小山さんも」

「ええ、気づいたらこうなっていまして」

 良き隣人である小山氏の肩幅もまた、常より二、三メートルほど、雄々しくなっていた。そして、異変が起こったのは成人した男のみで、妻や子に変わりはないのだという。

「これはやはり奇病か何かなのですかね」

「そんなような気がしますな。今朝のニュースに出てきた専門家は、我々の遺伝子に刻まれた進化の可能性がどうとか、あるいは桜の花粉の突然変異だとか、何やら胡乱なことを言っていましたが」

 庭先で男二人ふうむと唸っては見たが、方や商店街の金物屋、方や日々挨拶回りと見積書作成に勤しむ営業マンである。 画期的な意見が出ることもなく、左様ならと解散した。

 居間に戻ると、朝飯はもうすっかり出来上がっていた。太郎に餌をやるついで、取ってきた新聞を眺めながら、白飯と味噌汁、目玉焼きにベーコンを胃へ収める。

 さて、後は出勤するだけという段になり、新たな問題が襲ってきた。 着る上衣がない。

 当然である。

 世の中、肩幅五メートルの人間が着られるような服はそうそうない。実の所、事ここに至るまで、上半身はずっと裸のままであった。

 しかし、出勤するためには上着がなくてはならぬ。取引先への挨拶に、上半身裸のまま行っては生涯出禁になること間違いない。

 どうしたものかと途方に暮れていると、静江が居間のカーテンを取り払ってやってきた。

 背に腹は変えられぬ。

 白いレースカーテンを肩ぐりに巻き付けて、玄関の狭さに苦慮しながら革靴を履く。

「行ってくる」

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」


 道幅の狭い歩道が続くため、車が通りでもしたら肩がぶつかり兼ねないと危惧していた。

 しかし、その心配は杞憂であったらしい。

 道を走る車は殆どなく、普段であれば車の十や二十が常に走行する大通りでさえ、都営地下鉄の各駅停車に時折交じる、急行のような頻度で通り過ぎていくのみであった。考えてみれば車に乗ったとて、肩幅がつかえてしまっては危なくて運転するどころではない。そこで車での出勤を諦める者が多いのだろう。

 となると、取引先を訪ねても担当者は不在なのではないか。

 思い至り出社への熱意が僅か冷めるが、であれば、電話で確認してから向かえばいい話である。気を取り直して、駅への道を歩く。

 駅前に着くと、何やら人だかりができていた。立ち並ぶ人々も、駅の入口を通せんぼするように立つ駅員も、皆一様に肩幅が逞しい。

「入場制限です!入場制限です!女性の方のみ、お通り頂けます!」

 さもありなん、確かにこの肩幅ではさながら寿司詰めの通勤列車に、いつも通り詰め込めはしないだろう。

 混雑はすぐには解消しなさそうだと見切りを付け、ならばとタクシー乗り場へと向かう。同じことを考えた者はそれなりに多く、既に十数人程が先を歩いていた。

 これはもしかすると、長蛇の列になっているやもしれぬ。

 果たしてタクシー乗り場に着くと、一台の車も見当たらぬ乗り場に、ざっと見ただけでも五十人以上のサラリーマンがひしめき合っていた。

 これでは、タクシーに乗れる頃には始業時間を回っていることだろう。

 かつ、思い返してみれば、タクシー運転手はその多くが男である。今朝見た大通りを通る車の本数の少なさと合わせて考えれば、いくら待っていてもタクシーはやってこない。

 途方に暮れて、タクシー乗り場を離れる。

 電車もタクシーも使えぬならば、自家用車を使えばいいのではないかと思えど、この肩幅では、まともに運転できるか些か自信がない。

 どうしたものか。

 落とした視線の先、敷き詰められた煉瓦の合間から伸びた蒲公英が、穏やかな朝日を浴びて小さく揺れる。

 不意に、出社にこだわっていることが馬鹿らしくなり、駅を離れて、適当に歩くことにした。

 駅前に立ち並ぶ店はどこも開店準備中である。

 いつの間にやらできていたらしい花屋の、降りたシャッターの前。プリントが中途半端に剥がれた黄色い象型じょうろを手にした中年女性が、鉢植えに水をやっている傍をすり抜ける。

 どこに行こうということもないが、なんとなく、普段行かない道を行きたくなった。

 敷きたてのきらきらとした黒いアスファルトの上に、白い塗料で描かれた通学路の文字を逆行して、どこぞの家庭菜園に植わったキャベツの前を横切り、扉を開け放したままの新聞屋を眺めるともなく通り過ぎれば、いつの間にか、公園に辿り着いていた。

 かなめまちじどうゆうえんと銅板が打ち込まれたそこは椚だろうか、広葉樹に囲まれ、三、四の遊具とベンチだけが置いてあるこじんまりとした公園だった。

 誘われるようにふらふらと立ち入り、三つあるベンチのうち、一番手前側の一つへ腰を下ろす。

 なんとはなしに見上げた空は、青くはあったが、その大部分が白雲に覆われていた。

 あれは確か、うろこ雲というのだったか。

 同じくらいの大きさの塊の雲が、まだら模様のように集まっている。

 名前が思い出せない綿菓子のようなふわふわとした雲から、太陽が顔を出した。途端に伸びやかな長い尾を引く飛行機雲が眩しくなって、目を細める。

 微かに風が吹いて、ほんの少しだけ湿ったような土の匂いが鼻先を掠めていった。少し離れたところにあるジャングルジムのふもとでは、キジバトの群れが気ままな唄をうたっている。

 肺の中の空気を全て吐き出すように息をついた。

 こんなにのんびりするのは、いつぶりだろうか。

 壮健な肩幅の紳士が小型犬……、ミニチュアダックスフンドを連れて公園へ入ってきた。目が合って、軽く会釈をする。

 静江も、今頃は太郎の散歩に出ていることだろう。大きく息をついて、目を瞑る。

 思い返すに、ここ二十年程、人一倍仕事に取り組んできた。朝は始業時間の一時間前にはデスクに座り、夜は終電近くまで残業して、時には同僚と飲みに行く。

 趣味もなく、子供もなく、そうするものなのだと思っていた。何せ、日々出社しなければならず、そして出社すれば、仕事があるからだ。

 しかし、どうだろう。

 それは、夜の街灯に照らされた、自分の足元だけを見て歩くようなことではなかったか。

 いつも使う駅の反対側に、こんな公園があることだとか、駅前に並ぶ店の顔ぶれが、知らぬ間に変わっていることだとか、顔を上げていなければ見えないものを、取りこぼしてはいないだろうか。

 静江。 今朝だって言葉を交わしたばかりなのに、突如、無性に顔を見たくなった。

 見合いの席で出会ってから、今年で二十五年になる。もはや半生に渡る付き合いだが、そういえば、このところ遠出をしたような記憶はない。

 今度の結婚記念日にデートへ誘ってみたら、静江はなんと言うだろうか。


  了


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